愚慫空論

『15歳、故郷への旅 〜福島の子どもたちの一時帰宅〜』

昨晩放映されたNHKスペシャルです



原発事故後、福島の若者の間で広まったある行為がある。15歳の誕生日を迎えた記念に、震災以来帰ることのなかった故郷を初めて訪ねるというものだ。安全への配慮から今も避難指示区域への一時帰宅は大人しか認められず、子どもは一切許されていない。許可が下りるボーダーラインとなるのが「15歳」なのだ。その年齢になるのを待ちすでに多くの若者が故郷へと向かってきた。今も時間がとまったままの街。毎日通った学校、馴染みのお菓子屋、友人と遊んだ公園、そして自宅。それぞれの場所に立ち止まって言葉をなくす者もいれば、歩いているうちに自然に涙があふれてきたという者もいる。未曾有の原発事故により尋常ならざる生活を送ることになった彼らにとって、短い故郷への旅は、失われた時間を見つめ、自分が歩んできた道のりを整理しこれからの生き方に思いを馳せる、いわば大人へと成長する旅でもある。

番組では、故郷を目指す福島の若者たちに密着する。この6年はいったいどんな歳月だったのか。帰郷により、彼らのなかで何が変わり、どう新しい1歩を踏み出してゆくのか。困難を乗り越え懸命に生きてきた福島の10代の姿を通して、人間の普遍的な成長の物語を描く。



この番組はよかったです
観てほしいと思います

 「人間の普遍的な成長の物語」

その通りだと思いました


観ていて まず違和感を抱いたのは「自宅」という言葉でした
今はそこで暮していない場所を指して「自宅」と言うことへの違和感

福島からの避難者たちは 事情はどうであれ
現在は「自宅」と呼ぶ場所では暮していないわけです
暮らしがない場所を指して呼ぶ言葉に「自宅」はふさわしいのか?

そう考えると「一時帰宅」という言葉にも違和感が出てきます

たとえば単身赴任をしている人が「一時帰宅」という場合には違和感はありません
その場合 「自宅」には当人はいないけれど
その人が支えている あるいは
その人に支えられている暮しという「実体」があるわけです

その暮しが喪失してしまった場所を指して なお「自宅」という
これは何なのか?
答えを探すと出てくる言葉があります

 虚構


「引っ越し」を体験した人は多いと思います
現代の日本では 幼少の頃からずっと同じ場所で暮しているというような人は
割合としては少数派になってきているのではないか?
「引っ越し」はごく当たり前の出来事で 誰もが当たり前に受け取ることです

福島からの「避難」は「引っ越し」です
「避難」という言葉には

 特別の事情

が含まれていますが 外形的には「引っ越し」だと言っていい

「特別の事情」が「暮し」という実体のない場所を「自宅」と呼ばわしめている
「自宅」を虚構たらしめている


引っ越しの経験はぼくにもあります
成人前の 自分の意思によらない引っ越し
親の事情による引っ越しです

引っ越しをした後も かつて自分たちの暮しがあった場所は残存しています
そこには別の人が暮していたりしますが 場所は物理的に存在する
そうした場所は もはや「自宅」ではありません
懐かしいといった感慨は湧くにしても 「自宅」とは別物になっている

土地や建物は客観的現実ですが 「自宅」かどうかは主観的な現実
客観的現実と主観的現実を結びつけるのは

 身体的意志

です
無意識下の身体的意志

成長とは身体的意志が発露することを指すと言っていいでしょう
その身体的意志を この番組はとてもよく捉えていると感じます


一般的にいう「意志」と「身体的意志」は微妙に別物です

一般的には
 「意思」は中立的な思い
 「意志」は積極的な思い
と区分します

「意志」は通常 言葉にできる「思い」を指します
対して「身体的意志」はうまく言葉にならない
安易に言葉にしてしまうと嘘になってしまう
そういう類いの「思い」です
積極的というよりむしろ受動的 いえ「受容的」です


一般的な引っ越しにおいては ごく普通に「身体的意志」が働きます
「身体的意志」の作用によって 主観的事実が変化する
かつて自宅であった場所はそうでなくなり
今 暮しているところが自宅になる

そうした身体的意志の作用を阻んでいるのが 虚構 です



虚構という言葉には 骨組みだけといったような寒々しいイメージがあります
けれど 必ずしもそうではない
虚構は 血が通っているような温かい肌触りを持つことがあります
この番組の中で作用しているのは そうした「温かい虚構」です


子どもたちの周囲の大人たちも 自らの意志で引っ越しをしたわけでありません
「避難」という特別の事情を含む言葉が そのことを示しています
特別な事情ゆえに かつての自宅は 
もはや暮らしが喪失してしまっているにも関わらず 未だに「自宅」のまま
特別な事情が「自宅」のままである続けることに許しを与えています

大人たちとて 今 目の前で血の通った暮らしをしているんです
それなのに まだ かつての「自宅」に血の通った思いを寄せ続けています

大人たちの「血の通った思い」「温かい虚構」が子どもたちに作用する
いじめの対象になるといったような子どもたちには子どもたちの事情もあります
だけど だからといって子どもたちは自身では「温かい虚構」にすがるわけではない
むしろそれができないから
何ごとに対しても「どうでもいい」と投げやりになってしまいます


そんな子どもたちが15歳を迎えて 虚構の「自宅」に「帰宅」します
彼らが認識するのは 「自宅」はもはや自宅ではない という客観的現実です
その客観的現実を自身の主観的現実とする身体的意志を作動させます



映像というのは凄いもので
身体的意志を発動させる時に現れる機微をしっかりと捉えて伝えるのですね
「言葉にならないもの」がしっかりと伝わってきます
だから 「言葉にならないもの」を自身の感性で確認して欲しいと思うわけです




余談です

子どもたちの機微を眺めながら ぼくの中で思い当たることがありました
それは 断食 です

 (^o^)っ 愚慫空論『大根の煮汁が美味かった』

このとき以来 ぼくは半年に一度くらいのペースで三日間の断食をすることにしています
そして 何度か繰り返すうちに気がついたことがある

やせ我慢になってしまうと断食は辛い (^_^;)

まあ、当たり前なんですが。
だけど 断食をしようという意志が肝にまで届いていれば たいして辛くはないんです
となりでだれかが食事をしていても平気
会食の席にだって ふつうに座っていられたりする
(周囲の人は迷惑かもしれませんが (^_^;)

やせ我慢になるか 肝に届くか

「断食しよう」という 言葉になる部分の意志は同じです
だけど 明確に違うことがある
その「意志」を ぼくの身体がきちんと受容しているかどうか
受容できていれば 身体的意志になっている

「きちんと受容」なんて その詳細を言葉に載せることは不可能です
不可能だけど 身体感覚としては まぎれもなくあります
あるとしか言いようがない



ぼくが感覚しているものと 子どもたちが感覚しているであろうことが
同じという保証はどこにもありません
ぼくの感覚は誰とも共有できないぼく固有のものだし
子どもたちもそれぞれに固有の感覚・思いを抱いていて
それらは共有不能でだからこそ言葉にならない

だけれども 同じ〔ヒト〕ではあるはずです
そういう確信がなければ 「普遍的な成長」だなんていう言葉が出てこないし
そういう言葉に接しても受け容れられないはずです

この番組には3人の子どもたちが登場します
もちろん3人だけで普遍的とは言い切れません
エビデンスとしても不十分です

そうかもしれないけれども
子どもたちの「成長」を自分の中に重ね合わせた時 感じられるものがある
少なくともぼくにはある

それは「普遍的」と断言するには足らないものだけれども
その可能性を示唆するものではあると思います


信じることができるのは「可能性」です
普遍的であるかもしれない「可能性」
こういった「可能性」は
信じることによってしか現実化・普遍化していかない類いのものだと思います


『サピエンス全史』その9~認知的不協和

『その8』はこちら (^o^)っ リンク

 


ながながと続いている『サピエンス全史』シリーズですが
そろそろ折り返し地点かな?
これからのほうが長そうな気がするんだけど...(^_^;)

「その9」をもって『サピエンス全史』第3部に突入します。
全4部の3つ目なので「折り返し」と言えますが 
上下2巻で言えば まだ上巻です...


第3部の内容を紹介します

 第3部 人類の統一

  第9章 統一へ向かう世界
    歴史は統一に向かって進み続ける
    グローバルなビジョン

  第10章 最強の征服者、貨幣
    物々交換の限界
    貝殻とタバコ
    貨幣はどのように機能するのか?
    貨幣の代償

  第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
    帝国とは何か?
    悪の帝国?
    これはお前たちのためなのだ
    「彼ら」が「私たち」になるとき
    歴史の中の善人と悪人
    新しいグローバル帝国

  第12章 宗教という超人間的秩序
    神々の台頭と人類の地位
    偶像崇拝の恩恵
    神は一つ
    善と悪との闘い
    自然の法則
    人間の崇拝

  第13章 歴史の必然と謎めいた選択
    後知恵の誤謬
    盲目のクレイシオ


中世の文化が騎士道とキリスト教徒の折り合いをつけられなかったのとちょうど同じように、現代の世界は、自由と平等の折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する2つの音が同時に演奏されたとき楽曲がイヤでも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が聞こえると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。

緊張や対立、解決不能のジレンマがどの文化にとってもスパイスの役割を果たすとしたら、どの文化に属する人間も必ず、矛盾する信念を抱き、相容れない価値観に引き裂かれることになる。これはどの文化にとっても本質的な特徴なので、「認知的不協和」という呼び名さえついている。認知的不協和は人間の心の欠陥と考えられることが多い。だが、じつは必須の長所なのだ。矛盾する信念や価値観を持てなかったとしたら、人類の文化を打ち立てて維持することはおそらく不可能だったろう。



認知的不協和が必須の長所だなんて
のけぞってしまいます

のけぞったあと 態勢を立て直してみれば 「そのとおり」と言いたくなります
言いたくはなるけれども 後ろめたさは残ります
所詮は他人事だから 立て直せるのかもしれない...


第9章の最初で例としてあげられているのは ヨーロッパ中世の騎士たちです
彼らはカトリック信徒という「聖」と 
戦士という「俗」の間の不協和のなかで生きていました

その不協和を解決する方法は2つありました
ひとつは空想的解決法
もうひとつは現実的解決法

空想的解決法から生まれたのが たとえば



現実的解決法から生まれたのが

 十字軍

でした

のけぞってしまうのは 現実的解決法がもたらした惨禍を知っているからです


現実的解決法と空想的解決法は違います
というより 現実的解決法を前にすると
空想的解決法は解決法ですらない と考えるのが一般的でしょう

 空想はなんらの解決ももたらさない

いえ 空想が空想なのは テクノロジーが足りないからです
空想の中には自然現象世界秩序からすると
 実現不可能なものと
 実現可能なものとがあります

このあたりの詳細は また別に機会を設けて語ることにしましょう


空想的解決法も立派なひとつの解決法です
現実的解決法との差異は 「認知コストの差」 です

認知的不協和が存在するときに
その不況を解決する方向性は 2つ

 【単純化】
 〈複雑化〉

【単純化】が現実的になる
〈複雑化〉は空想的になる

このあたりの詳細も 別の機会に譲りましょう


話を現実の歴史に戻します

ヨーロッパの騎士たちの認知的不協和は
現実的(歴史的)には十字軍という行動をもたらしました

十字軍の結果 騎士たちは没落します
騎士階層というのは中間層 「中流階級」です

現代社会を見ればわかりますが
中流階級の没落は 
 旧来の上流階級のさらなる繁栄(腐敗)
 新たな新興階級の出現
をもたらします

この時代、旧来の上流階級とはカトリック教会です
ここがさらに繁栄し腐敗する

カトリック教会の繁栄と腐敗もまた 認知的不協和です
そこから生まれるのが プロテスタントの出現

ルターが始めたプロテストは〈複雑化〉の方向性をもつ営みです
〈複雑化〉は特別な要因がなければ空想化します
それが このタイミングでは現実化した

印刷技術の発展という特別要因があったからです
キリスト教の基盤である聖書が 技術によって
信徒の手に直接届けられたました

人類の文化はたえず変化している。この変化は、完全にランダムなのか、それとも、何かしら全体的なパターンを伴うのか? 言い換えると、歴史には方向性があるのか?

答えは、ある、だ。何千年もの間に、小さく単純な文化が、より大きく複雑な文明に少しずつまとまっていったので、世界に存在する巨大文化の数はしだいに減り、そうした巨大文化のそれぞれが、ますます大きく複雑になった。これはもちろん、非常に大雑把な一般論であり、巨視的な次元でしか正しくない。微視的な次元では、文化の集団が巨大文化にまとまるたびに、別の巨大文化が分裂しているように見える。モンゴル帝国はアジアの広い範囲とヨーロッパの一部まで支配を拡げたが、やがてばらばらになった。キリスト教は何億人もの人を改宗させたが同時に無数の宗派に分裂した。ラテン語はヨーロッパ西部と中部に広まったが、やがて地域ごとに方言に分かれ、それが最終的に各国語になった。だがこれらの分裂は、統一へと向かう止めのようのない趨勢に反する一時的な逆転にすぎない



歴史がこれまでのところ統一に向かっているのはあきらかです
現実化の傾向が統一というわけです

カトリックとプロテスタントの分派は
統一への趨勢に反する一時的逆転現象だと言えます
〈複雑化〉は大抵の場合 現実化せず
【単純化】のほうが圧倒的に現実化していきます
つまり

 虚構(言語現象世界秩序)は【単純化】の方向へ進んできた

と言えます
が 過去をそう言えることが 未来もまたそう言えることにはなりません
自然現象世界秩序ならそう言えますが
言語現象世界秩序はそうは言い切れません

『サピエンス全史』著者のユヴァル・ノア・ハラリさんは 
 【単純化】〈複雑化〉の概念を提示してはいませんから
このように言うのは言い過ぎですが
他人の言を新たに解釈し直すことは
「表現の自由」の正解では許されていることのはずなので 言ってみます

 〈複雑化〉の現実化は一時的な逆転現象にすぎない

ぼくはそう考えません

 〈複雑化〉の現実化は一時的な逆転現象にすぎなかった
 今後は〈複雑化〉の現実化が歴史の趨勢になる

この考え方の違いは本書結尾に端的に表れますが そこに触れるのはまだ先です
この続きは 歴史を統一へと向かわせることになった「征服者」について です




「のけぞった」といえば ぼくにとってはこの音楽です
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団による

 J・S・バッハの『ロ短調ミサ曲』


冒頭の「Kyrie (神よ憐れみたまえ)」の“叫び”には 
大げさではなく 震撼させられました
これほどの〔人間〕的熱量のある響きを ぼくは他に知りません

プロテスタントの出現は ドイツにおいて「三十年戦争」という結末に至ります
一時的な〈複雑化〉がより大きな【単純化】に呑みこまれる過程で起こった現象です

当時の神聖ローマ帝国を舞台に1618年から1648年にかけて展開された宗教戦争は
住民の半数を死に至らしめたといわれるほど悲惨なものだったそうです

J・S・バッハは1685年の生まれです
彼が活躍したのは三十年戦争から半世紀以上経過した時代ですが
その程度の年月が 先の宗教戦争の災禍のダメージを洗い流すはずがありません
時代の経過が当時よりもずっと速いはずの現代日本でさえも
第二次大戦の災禍のダメージはまだまだ深い
そのことを考えると
バッハの生きた時代に残っていたダメージの深さは想像以上だろうと察することができます

このような芸術作品は〔複雑化〕の結実です
空想的というのはよしましょう
虚構に基づく〔複雑化〕ですが 虚構は空想とは違います

 【単純化】のダメージの深さが〔複雑化〕の深化を生んだ

そんなふうに考えてしまうのは 単純すぎるかもしれません


もうひとつ興味深いのは「実際の音」です
ここに顕現している「熱量」です

糞の山に「切り返し」をしたときに生まれる発酵熱のような

1961年 ドイツ ミュンヘン
この場所とこのタイミング
1945年に終結した戦争となんの関係もないとは考えられません
もし なんの関係もないとしたら ぼくは人間に絶望するしかない

カール・リヒターの「熱量」が時代を経過するにしたがって低下してしまうことは
上の「関係」の逆接的証明になっているような気がします


『その10』へ続きます


完熟堆肥



若干汚い話になりますが ご容赦願います


「絶望」について考えています

「嫉妬」と「自己愛」

どちらも「絶望」のバリエーションなんだと思っています

ぼくにとっての「絶望」のイメージは腐敗臭だ――

そんなことを考えながら 思い出していたことがあります
馬たちとかかわる生活をしていた時のことです


馬のような大型動物を飼うというのは 糞尿と闘いという側面を大きく持ちます

彼らは一日に体重の2~3パーセントの飼料を食べます
体重500㎏だとすると 10~15㎏ということになります
ただしこれは乾燥重量です
乾燥飼料を与えるのは人間の都合ですから
自然状態では乾燥重量のほぼ10倍の植物を食べる

馬は長い消化管を持っていますが
牛のように反芻はしないため 消化効率はあまりよくありません
ということは 500㎏の馬一頭で1日に100~150㎏の馬糞が出るという計算

絶望的でしょ? (^_^;)


馬糞はまだ80%くらいは植物です
形は残っていませんが 内容はまだ植物
なので 農作物の緑肥にすることができる

といって そのままでは作物にはよくありません
良質の肥料にするには 発酵させてやる必要がある
十分に発酵させた家畜の糞が 完熟堆肥 です

馬糞の完熟堆肥はバラを育てるのにいいとかで
割に高値で売られていたりします


ということで 完熟堆肥を作ろうと思っていました
まあ 誰もが考えることです
でも 大変です
重労働です

発酵させるにはある程度の量が必要ですが それは容易です
なにせ 一頭で一日100㎏とかなんだから
量がまとまると発酵熱が溜まって 繊維質の分解がよく進む
作物に都合のよくない雑菌なども死滅します

発酵を進めるのにもうひとつ必要なのは酸素 空気です
酸素がないと嫌気発酵が起きて いわゆる腐敗になってしまう
そうなると 腐臭がひどいわけです

まとまった量を好気発酵させるために要求される作業があります
「切り返し」といいますが
要するに 糞の山を掘り返すんです
底になった方には空気が通りませんから
そこを掘り起こして空気を入れてやる
糞の山にまんべんなく空気を入れてやることで 全体を好気発酵させる


これをスコップでやっていました
めげましたけど (^_^;)
ボブキャットのような機械があればよかったんだけど
お金もなくて...

なにが大変かというと 熱なんです
底の方の馬糞は 発酵の準備はできているんです
嫌気発酵は徐々に進んでいますし
そこに空気を入れてやると 一気に好気発酵が進みます
そうすると 発酵熱を出すんです

暑い (>_<)

夏なんて やってられません...
片手間では とてもとても (^_^;)


...というようなことが
「絶望」の腐敗臭だとイメージングしていると出てきたわけです





現代社会は いや
文明社会は 糞の山のようなものである。


近頃省いている読点までつけて 大書してみました (^o^)

糞の山の表面から深さ30cmくらいのところは
発酵熱と空気の出入りのバランスが取れて好気発酵が進む
そのあたりは完熟堆肥ができます

それより浅い部分は熱が足りなくて 堆肥化しない
それよりも深い部分は 嫌気発酵してしまう

好気発酵する部分は 表面積に比例します
嫌気発酵する部分は 体積に比例します
表面積は山の大きさの2乗に比例して増えます
体積は大きさの3乗に比例して増えます

簡単な数学です

つまり 大書した比喩で考えると 文明はサイズが大きくなるほど
嫌気発酵する部分の比率が大きくなる

 『富裕層トップ62人の資産、世界の半分36億人の合計と同じ』

去年の1月20日の記事です
今現在も状況は変わりないでしょう

サイズ/表面積/体積の数学的関係が文明社会にも成立するなら
不思議でも何でもない話です


文明社会が糞の山だとすれば
空気に相当するのは貨幣でしょう
ことに資本主義社会においては


かつて シュンペーターという経済学者は 資本主義の本質を
 
 創造的破壊

と言い当てました
創造的破壊を糞の山に当てはめるなら「切り返し」がそれにあたるでしょう
創造的破壊とは 別の言葉でいえば イノベーションです

 イノベーションが足りない

今日 盛んに叫ばれています
「切り返し」が足りない
だから嫌気発酵が起てしまい 腐敗臭という絶望感が漂う――


一部の経済学者はイノベーション不足から原発の必要性を強調したりもします
創造的破壊にもほどがあると ぼくなどは思いますが


なぜイノベーションが足らなくなったのか。
それは〔虚構〕の歴史を読み解いていけば判明します
判明すると ぼくは考えています

資本主義文明社会という「糞の山」において空気に相当するのは貨幣です
そして貨幣こそは〔虚構〕の極点

正確には「一方の極点」という言い方がいいでしょう
もう一方は 神 だと思っています




馬糞の山と対峙していた頃 調べてみたことがあります
他はどうしているのだろう?
効率的な方法はないものか?

検索の得意な友人が教えてくれました

JRAの厩舎あたりではエア・コンプレッサーを使っているらしい と

 山に管を差し コンプレッサーで強制的に給気をしてやる

それがうまく行くなら機械力で「切り返し」をするよりも効率的でしょう


テクノロジーの進化は新たな方法を開発します
コンプレッサーがなければ「切り返し」をするしかありません
機械がなければ人力でやるしかない

人力より機械が 機械よりコンプレッサーが効率的なのは明白です


これも喩えてみると 機械で切り返しを行う〔システム〕は「帝国」に相当するでしょう
では コンプレッサーでの給気にたとえられる〔システム〕は?

ベーシックインカムが思い浮かびます

何らかの方法で 糞の山全体を完熟堆肥にすることができれば
文明社会は豊かなものになるでしょう




「絶望」は〔虚構〕ではありません
具体的な身体からただよう「体臭」のようなものだと思っています
〔人間〕という生き物は
 肉体的には物理的食物を食しますが
 精神的はコミュニケーションという飼料が必要であるようです

コミュニケーションは身体的なものです
肉体的でもあり かつ 精神的でもある

〔ヒト〕は身体的(肉体的)メッセージを発します
〔人間〕は 主に言語を介して 精神的メッセージを発します
〔社会〕の規模の増大と比例して 精神的メッセージ比重が増え
精神的メッセージは〔虚構(言語現象世界秩序)〕に左右される比重が増える

〔ヒト〕は食物を絶たれると死にますが
〔人間〕はコミュニケーションを絶たれると「死に至る病」にかかる

もちろん〔ヒト〕と〔人間〕は同一の存在であり
肉体と精神は 同一の存在の異なる側面でしかありません
心身はつながっている というより ひとつです


〔人間〕がコミュニケーション欠乏で絶望に至るのなら
コミュニケーションを十分に供給してやればよい
〔虚構〕がコミュニケーションのあり方を左右するなら
コミュニケーションが偏在しないように 〔虚構〕をデザインすればよい

コンプレッサーを使った完熟堆肥製造法から類推するのは こんなようなことです
いえ 逆です
「こんなようなこと」が先にあって 完熟堆肥製造法を当てはめた
でも 順序はどちらでもいいでしょう

どちらも カギはテクノロジーだと思っています
従来の〔虚構〕の呪縛から免れたテクノロジーの使用法が発見されれば

ドラッカーが指摘したのは 
 イノベーションとは 新しい技術を開発することではなく
 新しい技術の使用法を発見することだと いうことです
新しい技術使用法が普及すれば 〔虚構〕は再構築されることになります

身近な例では携帯電話がそうです
20年前は携帯電話は普及率はわずかでした
それでも 私たちは不都合なくコミュニケーションを行っていた
有線電話がないころでも コミュニケーションに不都合はさほどなかった

電話という技術の使用法が普及するにつれて
〔虚構〕が再構築された結果 私たちは
携帯電話なしではコミュニケーション不全を感じるような身体になってしまった

〔虚構〕は案外容易に改変できますが 改変が難しい虚構もある
難しいのには その理由もあるのです



生命浮遊~パンスペルミア説



重いテーマに少し疲れました...(>_<)
なので 気分転換

『ソトコト』という雑誌があります
月刊誌のようです



雑誌そのものは購入していないんですが(ゴメンナサイ)
WEBページには よくお世話になっています
なかでもお気に入りは 福岡伸一さんの『生命浮遊』とタイトルされたエッセイ
現在 vol.153まで掲載されていますが 紹介したいのは vol.84です



パンスペルミア説
生命は宇宙からやって来たという仮説です

一見、荒唐無稽なSFに聞こえるパンスペルミア説。



と福岡さんは書いておられます
福岡さんがこのように書くのは 
 パンスペルミア説は荒唐無稽
というのが世間一般の印象だということを
(ちょっと嫌な言い方ですが)忖度しているのでしょう

パンスペルミア説そのものを 実は福岡さんが支持しているらしいことは
エッセイを読めば感じ取ることができます

〔虚構〕と科学的合理性の間にある軋轢の とても上手なかわし方
こういう風に表現できるのが福岡さんの文才なんだなぁ と思う次第

生命は地球で誕生した――こんなのは なんの根拠もない〔虚構〕です
地球外の世界を想像することができなかった時代に誕生した〔虚構〕の残滓


地球が誕生してから生命が誕生するまでの猶予は
現在の科学の見立てによると 8億年

人間の時間感覚からすれば 8億年は想像を絶する長さですが
生命誕生には短すぎると福岡さんは考える

偶然による(動的)平衡が生み出されるには 
厖大と表現では足りないほどの
(福岡さんは 目もくらむような と表現しています)
トライ・アンド・エラーが必要とされると予測する

その偶然が成立するには 8億年は短すぎる――

そう考えると とてもワクワクします

ぼくなんかは その「ワクワク」をそのまま直裁に出したいと思ってしまいますが
つまり 〔虚構〕を忖度するような感覚は持ち合わせていないのですが
そういった構えは どうやら押しつけがましく感じられるらしい(^_^;)


...とわかっても やめるつもりはありませんが \(^o^)/




そのくせ 自身は押しつけがましいのは嫌いだという救いのなさww



押しつけがましい美しさ ↑↑↑
嫌いではなかったりする不思議...

『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』



しゃべりたくて、何をしゃべりたいかもわかっているのに、言葉が出てこないことを想像してみてください。あるいは口から出てくるのはわけのわからない音だったり、これまで何千かと口にした同じフレーズだったりすることを。

心の中ではものすごく怒っていたり、悲しかったり、人に挨拶するために微笑みたいと思っているのに、顔は無表情のままになってしまうことを想像してみてください。また別のときには、喜び、怒り、悲しみなどの感情に呑みこまれてしまって、ジェットコースターに乗っているようにその感情に翻弄されることを。

頭では静かにしたいと思っているのに、せかせか歩き回ったり、両手をぱたぱた動かしてしまう、また頭では手足を動かそうとしているのに、まったく動けなくなってしまう、そんな身体と共に生きていくということを想像してみてください。

何不自由なく読めるのに、身振りをしたり、ペンや鉛筆で書いたりすることはできない。「毛布をぴっぱりあげられたらいいのに」と思いながら寒いままベッドに横たわっている。またあるときには、自分の手が衝動的にテーブルの食べものをかっさらたり、足が勝手に動いて道路に飛び出したりしてしまう。

身体が牢獄のようで、そこからどうやって出たらいいのかがわからない。思いを表現することができないので、「自分にはまともな知能がある」とわかっているのは自分だけなのです。



本書 冒頭の文章を引用させてもらいました

常々思うんですが シンクロニティってあるんです
いえ この現象をシンクロニシティと呼ぶのは間違いかもしれません

絶望について考えを整理しようと思っていました
整理に空論の1ページを費やそうと思って
タイトルを「絶望について」とし 下書き保存しておいた

そして 気分転換をしようと思って
――考えを整理するのに気分転換は効果的です――
視線を本が雑然と積み上げられている隣の机に向けました
目に留まったのが 数週間前からそこにあった本書でした

ボチボチ読み始めてみるか――

「機が熟する」ということもよくあることです
準備は整っている
その気になりさえすれば いつでも取りかかれる
だけど 「その気」がやってこない
ぼくの周囲には ぼくの「その気」を待っているものがたくさん転がっていて
ときに収拾がつかなくなってしまうようなこともあるんですが 
そうなると「その気」に巡り会うことがなかったものたちが整理されてしまうのですが
イド・ケダー著『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』は
幸いなことに「機が熟して」 ぼくは「その気」になり ページがめくられました

そのようにして冒頭の文章を読んで 仰天しました
こんなところで出会うとは

 自分だけ

この状態が

 絶望

です

「ハラスメント」という概念があります
嫌がらせ いじめといった行為を指す言葉です
行為というからには 行為する者とされる者とが存在することが前提です

ところがその前提ないしでハラスメントという状態が成立することがある
ハラスメントが内面化した
 自愛の隠蔽
 自己嫌悪
 自己愛の成立
がまさにその状態であるわけですが
内面化ではなく身体そのものによって これらの状態がもたらされることがあります

イド・ケダーさんは そういうハラスメントする身体を持って生まれてきた人間です
高機能自閉症といいます


イド・ケダーさんは絶望の状態に置かれていました
彼をして絶望へと追いやった要因は何か?

彼のハラスメントな身体は 間違いなくその要因です
ですが 彼の訴えを聞いてみると それは第一の要因ではない
ハラスメントな身体のおかげで 他者のとのコミュニケーションが断たれた状態にある
コミュニケーションが不能であることは 誤解を生みます
すなわち 
 彼のコミュニケーション能力=彼の知能 
という周囲の理解です
その理解のおかげで 彼は知能の低い者として扱われる

ところが事実は違いました
彼はコミュニケーション能力が阻害されていたけれど
その阻害は彼の知能にまで及んでいなかった
阻害が及んだのは 彼の周囲の者の理解のほうです

彼を絶望へと追いやる要因を整理をすると こうです

 原因:身体
 経路:
  1.イド・ケダーの身体 ⇒ イド・ケダーの自己
  2.イド・ケダーの身体 ⇒ 周囲の者のイド・ケダー認識 
              ⇒ イド・ケダーの自己

彼の絶望により大きく作用したのは 2.の方です
本書を読む限り ここは間違えようがありません

ですから 2.における中間点「周囲の者のイド・ケダー認識」が変わると
彼の絶望の「絶」が変化します
ベクトルが変わるんです
 「希」
へと変わる
そして 2.が「希」へと変わっていくと 1.も変わってきます

すなわち本書は イド・ケダーという人格における「希望」の発展史です
それも 非常に振幅の大きな発展
振幅の大きさが 読む者を捉えます


ぼくは 振幅の大きさに「サティヤーグラハ」という言葉を思い起こしたほどです



実際、イド・ケダーの抵抗は非暴力です
いえ 違います
暴力的なこともあるし 絶望状態の彼はそれしか選択肢がなかった
「スティル」がそれです

「スティル」は彼には恍惚をもたらしたかもしれないけれど 周囲には迷惑行為です
子どもでしかも障害者という理解ですから「迷惑」で済ましてもらえますが
本質は 暴力 です

「絶」が「希」に変化してからの彼は しだいに「スティル」が減ります
といって 経路2の中間点
イド・ケダーに対する認識を変えようとしない者に抵抗しないわけではない
ただ 抵抗の方法が変わります
アヒンサー(非暴力)になります



イド・ケダーが小さなガンジーのようになることができたのは 一種の奇跡です
もし彼が生まれたのが狩猟採集社会なら 彼の生存は許されなかったでしょう
そのような社会においては 身体のハラスメントは致命的です
現代においても裕福な先進国アメリカだったから 生存は許された
が 生存は許されたがゆえに 絶望も生じたと言えます

彼の「絶」が「希」へと変化できたのには 欠かすことのできない要因があります
テクノロジーです
経路2.における

 イド・ケダーの身体 ⇒ 周囲の者のイド・ケダー認識

の中間を媒介する人物が現れ 仲介する技術を提供した
これは奇跡的な幸運と言えますが
しかし 何の下地もなしに実現した現象ではありません
テクノロジーの発展という下地があってこその奇跡的巡り合わせです
そして イド・ケダーさんがそのテクノロジーの恩恵に被ることができたのも
彼の社会的階層がアメリカ合衆国に
トランプ大統領を誕生せしめた階層ではなかったからでしょう
そちらの階層だった場合、恩恵を被ることができた可能性は低いと言わざるを得ない

ただテクノロジーの発展も 認識を変えようとしない者にとっては無力です
かつて コペルニクスやガリレオやダーウィンが被ったような無理解を
イド・ケダーさんも被ります

先人たちの無理解は保守的な宗教が基盤でしたが
イド・ケダーさんが被ったのは保守的な科学が基盤でした
すなわち「科学教」です
まだ12、3歳の少年が いくら知能が高いとはいえ 科学教の弊害を指摘してのける
当事者だからそうならざるを得ないのですが
この事実の深刻さと複雑さを受け止めたいものです


まだ言い足りない気分ですが 最後にもうひとつ
「シンクロニシティ」を紹介します

一日か二日黙ってすごすことは、だれでも想像できる。
じゃあ、一生ずっと沈黙を通す人生を想像できるだろうか?
この沈黙とは書くこと、身ぶり、言葉以外のコミュニケーションを含む、「完全な沈黙」だ。
これこそ会話のない自閉症者が一生すごす世界なのだ。希望がうすらくのもむりはない。
それでもがまんしてABA(行動療法)やフロアタイム(自閉症治療に焦点をあてた遊び)に取り組むけれど、どれもなんの効果もない。
セラピストさんには助けてもらえない。
自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけだなのだ。
断言できるけど、これは一種の地獄だ。



冒頭とほぼ同じないようです。
冒頭の方は実は母親の文章で こちらはイド・ケダーさん本人のもの

この文章に彼は「沈黙の世界」というタイトルを付けています
「沈黙」と「絶望」とが ここでも結びつく

ちなみに イド・ケダーさんは 「自己嫌悪」という言葉は使いません 
代わりに「自己憐憫」と言います
「嫌悪」と「憐憫」 表記は変わっても 指し示す内容は変わらないと思います
どちらを選択するかは それぞれが所属している文化の違いかもしれません
キリスト教文化圏で暮らす彼には 「憐憫」が筆頭の選択候補なのでしょう

同じことは「絶望」と「沈黙」についても言えるのかもしれません



『嫉妬と自己愛』



佐藤優さんの本はこれまでもいくつか読ませてもらってきましたが
この本が一番面白いかもしれません

ことに面白いのは 第一部です



いわゆる“オビ”の背表紙側ですが
第一部では これらの小説たちの 佐藤さんの「読み」が披露されています

これがとても面白い
紹介されている本たちは 全部読んでみたいと思ってしまいました

夏目漱石の『それから』は既読ですが
読み直したくなります

『コンビニ人間』などは 思わず購入してしまいました
いつもの図書館に蔵書はあるんですが 予約が多くて 待てそうにない...(^_^;)


佐藤さんの「読み」の軸が「嫉妬と自己愛」というわけです


術語の定義に触れておきましょう

 嫉妬   英語では jealousy   ジェラシー
 自己愛 英語では Narcissism ナルシシズム

英語にしてみると イメージが確かなものになります
ただし 佐藤さんの語法では 自己愛には
 不健全な自己愛
 健全な自己愛
があります
本書のテーマになっているのは 不健全な自己愛=ナルシシズムです

ちなみに ぼくは「健全な自己愛」を「自愛」と呼びます

 自己愛とはハラスメントが隠蔽されることによって生じる偽りの愛

というのがナルシシズムの定義です
ここでいうハラスメントとは
 
 生命体が生きるために発動させる感覚を誤作動する現象

と定義します
そうすると 自愛とは

 生命体が生きるために発動させる感覚が健全に発動している状態

という定義になる
そして 

 ハラスメントを引き起こす誘因となるのが虚構

という構図です
〔虚構〕に感覚を乗っ取られてしまった時 〔人間〕は【人間】になりハラスメントを引き起こす
そして〔ヒト〕は〔虚構〕に感覚を乗っ取られてしまうようにできています
サピエンスがそのように「進化」したのが 「認知革命」です



「ちなみに」が長くなり過ぎました (^_^;)
話を戻します


佐藤優さんの「読み」を読んでいるうちに改めて気がついたことがあります
それは 佐藤さんは

 絶望

を識っている(体験している)ということです

それはそうでしょう
「国家の罠」に嵌められ
世間からは「外務省のラスプーチン」などと呼ばるような境遇を味わったのですから

本書で佐藤さんが披露する「読み」は 
「絶望」の体験なくしては読めないものだという気がします


またしても「ちなみに」なんですが
絶望という言葉について触れておきます
ここは大切なところです

「絶望」いう言葉は一定方向への「ベクトル」を持った言葉です
その「ベクトル」がどういった方向性のものなのは説明を要しないでしょう

大半のサピエンスには 「絶望」という言葉が持つベクトルの認識は容易です
それが理解できないのは〔人間〕として未発達な子どもか ピダハンくらいのものです
架空の人物を含めるなら『この世界の片隅に』のすずとか(笑)



こういった「ベクトル」を持った言葉にありがちなことですが
理解の「深度」はまちまちです
入口の方なのか 「ベクトル」の方向へずっと進んだところまで立ち入っているか
「べくトル」の深いところまで進んだ理解を ぼくは「識る」と表現します

では「絶望を識る」とは どういうことか
それは 自身が希望することが実現の見込みがない のとは違います
この状態も「絶望」という言葉を当てるにふさわしいものですが 深度は浅い
この程度の「浅い絶望」は 他人と共有可能だし 共有することで癒やされる程度のものです

「共有することによる癒やし」とは 社会的な癒やしのこと
社会現象も生命現象の発露ではあるけれど 二次的なものです
二次的な現象で回復可能だということは その絶望もまた二次的でしかない

「深い絶望」は共有不能です
だから 共有することによる癒やしを原理的に望めない
生命現象の一次的なところに拠るしかない

生命現象の一次的なところとは 生命現象そのものです
言い換えれば 命懸け
生きるか死ぬかの瀬戸際のところです


哲学の名著です



実存主義の先駆けとなった本書のいう「死に至る病」とは「絶望」のことです
それも「深い絶望」です

「深い絶望」が「死に至る」というのだということは
「浅い絶望」しか知らぬ者にとっては 笑い事です
「絶望」そのものを識らないピダハンたちが
『ピダハン』の著者であるダニエル・L・エヴェレットさんの苦悩を笑ったのと同じく



理解できないことを笑うのは 生命現象としてはごく健全なことです
笑われることも ハラスメントに妨害されなければ 不機嫌にはなりません
生命現象への感覚に「負の感情」が伴うのは
自身の生命現象を「負」として取り扱われたからです
その「負」を自身のものとして受け容れなければ生存不可能だったからです

ハラスメントが「深い絶望」へ至るのは必然の現象だし
「深い絶望」は「死に至る病」であるのは上述の通りです




またしても「ちなみに」が長くなりました
再び話を戻します

佐藤さんは「深い絶望」を「識って」いると思います
同時に思うのは

 「「深い絶望」を「識って」いる」ことを 佐藤さん自身 「知らない」のではないか?

ということです
この「知らなさ」が 佐藤さんの「構え」になって出てきているような気がします

佐藤さんは「極意」ということを言います

 『資本主義の極意』
 『世界史の極意』

などといった著作をものにしています
このふたつは読みましたが まだ他にも『~の極意』なタイトルの著作はあるらしい

ここでいう「極意」とは「生き残るための秘訣」といった意味です
「世界史の極意」「資本主義の極意」は要約であり
要約された部分を補足すると

 資本主義社会の中で生き残る極意
 世界史の中で生き残る極意

です

「極意」を得るためには 資本主義を理解しなければならない
世界史を理解しなければならない
目指すところは「生き残り」であって
その前提には生き残りを強いる【社会】【システム】がある

「極意」を打ち出すことを良しとする「構え」から窺えるのは
そうした強いる【システム】を是とする姿勢です

言い添えておきますが 佐藤さんは
【システム】を肯定しているわけではありません
否定的に捉えています
否定的に捉えているけれども どうしようもないと認識している
どうしようもないから せめて「生き残る」ために「極意」を伝えようとしている
それはよくわかります

ですが それは「浅い絶望」への対処です
全体としては 自身が希望することが実現の見込みがない
だからせめて...
わからないではありません


佐藤さんはクリスチャン それもカトリックです
幾度もイエスのこの言葉を引用しています

 隣人を自分自身のように愛しなさい(「マタイによる福音書」22章39節)

イエスは、隣人を単に「愛しなさい」と言っているのではなく、「自分のように愛しなさい」と言っていることが重要だ。自分を愛することは、他者を愛することの前提なのである。自分を愛することができない人が、他者を愛することなどできないというのが、キリスト教の愛に対する考え方である。



そのイエスは 上掲の言葉を「極意」として発したのか?
そう佐藤さんに問うてみたい

イエスは神の子だからそれができた
だから 人間は「極意」しか発することができない――
もし そんなふうに考えているとするならば それはキリスト教によるハラスメントでしょう


本書が明らかにするのは 実は佐藤さんの「知らなさ」だけではありません
佐藤さんが採り上げた小説たちも 「深い絶望」を「識って」いる
時代に即して「「深い絶望」を「識って」いること」の描写が これらの小説です

そして佐藤さんの指摘によれば それは「現代社会の姿」です
となると そのモデルとなる現代人たちもまた 「深い絶望」を「識って」いることになる
現にぼくたちは 強いる【システム】に生きる当事者として そのことを識っています


だとすれば 「識って」いることを「知れ」ばいい――
ということで 『サピエンス全史』シリーズへと続きます




『サピエンス全史』その8~想像上のヒエラルキーと差別

『その7』はこちら (^o^)っ リンク

 


当文章のサブタイトルは 『サピエンス全史』第8章のタイトルそのままです
この章に関しては どこかのCMのセリフではありませんが

 何も足さない 何も引かない

がベストであると思われます

でも それでは(ぼくにとっては)物足りないので
少しだけ 足してしまいます(^_^;)


農業革命以降の何千年もの人類史を理解しようと思えば、最終的に一つの疑問に行き着く。人類は、大規模な協力ネットワークを維持するのに必要な生物学的本能を欠いているのに、自らをどう組織してそのようなネットワークを形成したのか、だ。手短に答えれば、人類は想像上の秩序を生み出し、書記体系を交換することによって、となる。これらふたつの発明が、私たちが生物学的に受け継いだものに空いていた穴を埋めたのだ。

だが、大規模な協力ネットワークの出現は、多くの人にとって、良いことづくめ打破なかった。これらのネットワークを維持する想像上の秩序は、中立的でも公正でもなかった。人々はそうした秩序によって、ヒエラルキーを成す、架空の集団に分けられた。上層の人々は特権と権力を享受したが、下層の人々は差別と迫害に苦しめられた。たとえばハンムラビ法典は、上層自由人、一般自由人、奴隷という序列を定めている。上層自由人は、人生の楽しみを独り占めしていた。一般自由人はそのおこぼれにあずかった。奴隷は不平を漏らそうものなら、叩かれた。



第8章冒頭の記述です
以下 展開されるのは ヒエラルキーの多様性とその実体(差別)の例示です

自由人と奴隷、白人と黒人、富める者と貧しい者の間の、以上のような区別は、虚構に根ざしている(男性の女性のヒエラルキーについては、後ほど論じる)。だが、想像上のヒエラルキーはみな虚構を起源とすることを否定し、自然で必然のものであると主張するのが、歴史の鉄則だ。




ヒエラルキーは重要な機能を果たす。ヒエラルキーのおかげで、見ず知らずの人どうしが、個人的に知り合うために必要とされる時間とエネルギーを浪費しなくても、お互いにどう扱うべきなのかを知ることができる。



この記述には注釈を加えておく必要があると思います

 浪費しなくてもよい

ではなくて
 
 浪費することができない

〔ヒト〕が他者の認知に費やすことができる時間とエネルギーは有限です
社会の成員が数を増すにつれ 認知に要求されるエネルギーは指数関数的に増大します
その要求の許容限界が 生物学的本能の限界です
虚構の効用は 生物学的本能の限界を突破することではなくて

 認知に要するコストを簡略化すること

です
現代的な言い回しでいうと

 レッテルを貼る

ことが虚構の効用
認知コスト簡略の方法論は 

あらゆる社会は想像上のヒエラルキーに基づいているが、必ずしも同じヒエラルキーに基づいているわけではない。その違いは何がもたらすのか? なぜインドの伝統的な社会はカーストによって人々を分類し、オスマン帝国の社会は宗教によって分類し、アメリカの社会は人種によって分類するのか? ほとんどの場合、ヒエラルキーは偶然の歴史的事情に端を発し、さまざまな集団の既得権がそのヒエラルキーに基づいて発達するのに足並みを揃えて、何世代もの間に洗練され、不滅のものとなる。




社会のヒエラルキーのなかで 男女間の格差についてだけは
100パーセント虚構に基づくといえない部分があります

 生物学的差異 ⇒ 「セックス」
 虚構に基づく差異 ⇒ 「ジェンダー」

です
ジェンダー論については さまざまなところで展開されていますし
特に『サピエンス全史』の記述が目新しいとは感じません

ただ この記述は目を惹きます

生物学的に決まっているものと、生物学的な神話を使って人々がたんに正当化しようとしているだけのものとを、私たちはどうすれば区別できるだろうか? 「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」というのが、有用な経験則だ。生物学的作用は非常に広範な可能性のスペクトルを喜んで許容する。人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ。生物学的作用は女性が子供を産むことを可能にする。一部の文化は、女性がこの可能性を実現することを強いている。生物学的作用は男性どうしがセックスするを楽しむことを可能にする。一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる。

文化は、不自然なことだけを禁じると主張する傾向にある。だが生物学の視点に立つと、不自然なものなどない。可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。自然の法則に反する、真に不自然な行動などというものは存在しえないから、禁じる必要はない。男性が光合成することや、女性が光速より速く走ること、マイナスの電荷を帯びた電子がたがいに引きつけ合うこと、わざわざ禁じようとした文化など、これまで一つとしてなかった。



 生物学の視点に立つと 不自然なものなどない
 可能なことは何であれ そもそも自然でもあるのだ

逆もまた然り

 不可能なことは何であれ そもそも自然であるのだ

この視点は 男女間の差異のみならず
「発達障害」と呼称されるヒトの個体間の差異についても及び得ます

「障害」は自然な現象です
自然なはずの現象を 「障害」だとするのもまた虚構の効用
すなわち社会現象にすぎません

もちろん 生物学的な障害も存在します
「発育障害」も自然現象ですが 生物学的です

「障害」には淘汰圧がかかります
淘汰圧に引っかからなければ「障害」としては認知されない
「障害」が生物学的なものか社会的なものかの差異は
淘汰圧に着目すれば判明します

社会的な淘汰なのか?
生物学的な淘汰なのか?

淘汰は「システム」の中の作用です
生態系も社会も 共に「システム」です

ぼくの記述では生態系システムの中の社会システムが〔システム〕です
社会的〔システム〕が生態学的システムを撹乱する場合には【システム】とします

ヒエラルキーによって出現した社会的不公正は

 【システム】による生態学的システム障害

であるというのが ぼくの認識です


『その9』へ続くとともに
こちらへも派生します



安倍首相にAI導入を求める記事が興味深い件について。



BLOGOSで興味深い記事を見つけました

 『安倍首相殿。日本再生のためにいますぐ政府にAIを導入してください』

2月9日発表の文章ですから いささか周回遅れですが
読者にとっては読んだ時が新鮮な時ですから


僕にとって何が興味深いかと言って
それは この記事の書き方

 「構え」

です。

記事の内容はについては 一言

 その通りだと思います。
 以上、終了。



AIすなわち人工知能が発達してきて
機械が得意とするのは 事前に予想されていた単純作業ではなく
むしろ複雑な(はずの)意思決定だということが明らかになってきました

社会が機械化すると 単純労働が人間から機械に奪われる
そうした現象は すでにずっと以前から進行してきています

人間はどのような条件が成立した時に 機械に仕事を奪われてしまうのか?

 人間の仕事を機械ができるようになったとき

が これは必要条件です
必要条件が満たされたからといって 必ずしも現象が出現するわけではありません
十分条件は

 機械のコストが人間のコストを下回るとき

この際のコスト計算はどのようになされるのかは
また大きな問題なのですが ここではスルーします

 必要条件は工学的条件
 十分条件は経済学的条件

と言い換えることも可能です
さらに言い換えるなら

 現実(自然)現象
 虚構(言語)現象


取り上げた記事 および 記事のリンク先の記事のキモは

 知的労働のほうが単純労働よりも十分条件が成立しやすい

です
理由はカンタンで

 知的労働者は給料が高い

骨子はたったそれだけ です


「たったそれだけ」のことをなぜ

 安倍首相殿。日本再生のためにいますぐ政府にAIを導入してください

なんてタイトルで書いたのか
そこが興味深い

筆者にとって この記事は
 ガチ?
 ネタ?
どっち?

内容的には ネタもガチもありません
だけど 人間が書く文章には 
ガチとかネタとか
人間的なものが出てきます

ぼくには この記事はネタに思えて仕方がありません
繰り返しますが 内容ではありません
記事を社会に問う その「構え」が です


ぼくの読みはあくまでぼくの主観です
だから 普遍的だと主張するつもりはありません

いえ 本当はあるんですけど(^_^;)
そうは受け取られないだろうと思いつつ それでも書きます

筆者は ガチで提出することを 無意識のうちに怯えたんじゃないのか
だから ネタとして「消費される」体裁で 文章を提示した

だとすると 筆者を怯えさせたのは何か?


どれほど合理的だといっても このような提案がすぐに採用されるわけはありません
仮に採用されるにしても 相当の紆余曲折が見込まれる
ある程度 人間社会のことを識っている者なら 容易に理解できることです

問題は 紆余曲折のあり方です
意思決定に機械を導入するという「意思決定」には 時間がかかる
「意思決定」を阻害する者の存在が予想されるから

それは何者か?
〔人間〕です

自分の給料を取り上げる相手は「敵」です
相手にその意志があろうがなかろうが 「敵」 です

畑に繁茂する「雑草」は
「雑草」とひとくくりで呼称される個々の植物種は
畑の作物の生長を邪魔しようとする意志などもちません
だけど 人間は それらの植物を 「敵」 認定します

「雑草」という名称は 「敵」認定の証

 
ヒトは こういうことにはとても敏感です
 己が不機嫌になってしまうことには 理解に先立って不機嫌なんです
 理解を経て不機嫌になるという過程を踏まない
 先立って不機嫌になり 理解を拒むという態度に出る


ぼくは 少し前にこのようなことを書きました
筆者が怯えたとすれば それはおそらく「不機嫌」でしょう
他人の気持ちを先天的に把握できる回路を持つ「ニューロティピカル」は
「不機嫌」が事前に予想できるのではないか
予想できるがゆえに 無意識のうちに「不機嫌」を回避しようとし
「不都合」な真実を含む記述に ネタという体裁を施すことになる――

以上はあくまで ぼくの主観です
主観ですが ある意味 事実でもある
ぼくにはこんな芸当はできないし そもそもそういう発想がない
安倍首相批判のネタとしてAI導入を提言することはあるかもしれませんが
安倍首相をダシに使ってネタにするというようなことは 思いつかない

いえ 「思いつかない」のでなくて「思いつけない」です たぶん
「不機嫌」をうまく察知できませんから


当記事は 実は 前記事の続きです
そして次に続きます



次で前回『マチネの終わりに』との関連を紐付けるかつもりですが
さて どうなるか 書いてみなければわかません (^o^)
最終的には『サピエンス全史』シリーズにも絡む構想ですが
これも 書いてみなければわからない...

『マチネの終わりに』




図書館で借りて読みました

作者の平野啓一郎さんには ぼくはまず 小説家としてより評論家として接しました



リンクを貼るためにamazonへアクセスすると 
 「前に買いましたよ」
と出てくれるので(←親切!) この本はお金を出したんでしょう

共感したことは覚えていますが 具体的な内容は忘れたなぁ...(^_^;)


『マチネの終わりに』は note を始めた頃に 
そこで盛んに「連載始まるぞ」と宣伝していたので 存在は知っていました

知っていて 平野さんにも興味はあったんだけど スルー

宣伝が好きじゃないんですよ
本も人間と同じで「出逢い」だから

信頼している人から紹介された会ってみたくなるけど
コマーシャルベースで知ってしまうと
 出逢いの機会を奪われたみたいで、どうも...(^_^;)


そんなわけで しばらく忘れていた本ですが
偶然 図書館で目に入ったときに 呼ばれた気がして 読んでみました



読んでみて よかった
お金を出す価値 あります


人は、変えられるのは未来だけだと信じている。だけど、実際は、未来はつねに過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?



というようなセリフではじまってしまう恋愛小説
もちろん 「大人の」 です

主人公たちが展開する恋愛は ぼくには「どうでもいい」とは言いませんが
まあ 二の次です

 「過去は変わるし 変えられる」

僕は人間内面のこうした現象を〔再編集〕と呼んでいるわけですが
そこに強く関心を持つぼくが 
こんなセリフを浴びせられて 惹きつけられないわけがありません

あいや もちろん 恋愛の展開も面白かったです
効果的に「喪失」も配置されていて

先のセリフでいとも簡単に楽しませてもらったぼくは
作者が弄する魔術にいとも簡単に乗っけられてしまいました(^o^)

...「二の次」は 落としすぎですね(^_^;)
申し訳ありません


この小説は 上質の娯楽として楽しむのもよし
楽しめるだけでも 十分に「収穫」はありますが
求めるなら プラスアルファも手にすることができます


ぼくが手にしたのは ヒトの〔再編集〕能力の再確認 です

主人公たちの心理展開には真実味が感じられます
読者であるぼくの方は 作者の「魔術」に乗っけられていますから 
「デタラメ」でも受け容れることができる状態にはなっています

だけど ここで展開されるのは「デタラメ」ではありません
「虚構」には間違いないけれど「妄想」ではない
条件が成立すれば 誰にも起こりえる可能性があります


以下は 相当にネタバレなので 追記へ


続きを読む »

『サピエンス全史』その7~書記

『その6』はこちら (^o^)っ リンク

 



〔人間〕は自身を知性的な生き物だと自負しています
いますが 本当にそうなのかと改めて問われると どうでしょう?
確信を持って 「そうだ」と答えられる者はどれほどいるでしょう?
また 確信を持って答える者を 他の者が知的と判断するかどうかも疑問です
〔人間〕は知的確信者を むしろ知的な人間だと感じないのが普通でしょう

なぜか?

〔ヒト〕は知的な存在ではないからです
〔ヒト〕を〔人間〕たらしめるのは大脳の機能に拠るところが大きいのですが
その大脳とても 〔人間〕が知的と考える作業を得意としているありません

そしてこれが最も重要なのだが、第三に、人間の脳は特定の種類の情報だけを保存し、処理するように適応してきた。古代の狩猟採集民は、生き延びるためには、何千もの動植物の形状や特性、振る舞いを覚えなければならなかった。秋の楡の木の下に生える黄色いしわしわのキノコはほぼ確実に有毒なのに対して、冬にオークの木の下に生える、似たようなキノコは腹痛に効くことも覚えなければならなかった。また、狩猟採集民は集団の数十人の成員の意見や関係も記憶にとどめておかなければならなかった。もしルーシーがジョンに悩まされていて、集団のある成員の助けを借りてそれをやめさせようと思っていたら、先週ジョンがメアリーと別れたのを覚えていることは重要だ。おそらくメアリーは熱心に味方してくれるだろうから。というわけで、人間の脳は進化圧のせいで動植物や地勢にまつわる情報や社会的な情報を大量に保存するように適応してきた。


だが農業革命の後、著しく複雑な社会が出現し始めると、従来とはまったく異なる種類の情報が不可欠になった。数だ。狩猟採集民は、大量の数理的データを扱う必要に迫られることはついぞなかった。たとえば、森のそれぞれの果樹になっている実の数を覚えておく必要はなかった。だから人類の脳は数を保存して処理するようには適応したなかった。ところが、大規模な王国を維持するためには、数理的データは不可欠だった。法律を制定し守護神についての物語を語るだけではけっして十分ではなかった。税を徴収する必要もある。・・・・・・



下の記述には断絶があります
「王国」です
「王国」という言葉の出現は唐突です

農業革命が複雑な社会を出現可能にしたことはいいでしょう
ですが 「可能になった」 ことと 「実際に出現した」 ことは同一ではありません
前者は後者の必要条件ではあっても十分条件ではない
ここに断絶があります

税の徴収を必要とするほど 大きな集団を作る必要がなぜあったのか?

これこそサピエンスの成功の鍵だった。一対一で喧嘩したら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。彼らはライオンの居場所についての情報は共有できたが、部族の精霊についての物語を語ったり、改訂したりすることは、おそらくできなかった。彼らは虚構を創造する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることができなかった。



以前にも引用した記述です

サピエンスはネアンデルターレンシスを「協力」で打ち負かした
では サピエンスはその後 
用済みになったはずの「協力」を ゴミ箱へとうち捨てたか?

答えは言うまでもなく 「否」 です
うち捨てるどころか 「協力」をますます発展させていった
「王国」が「協力」発展の過程で出現した〔虚構〕であることは確実です

では サピエンスは「協力」よって得られる効用を 誰に対して用いたのか?
もちろん 同じサピエンス にです
ネアンデルターレンシスがいなくなってうち捨てられなかった「協力」は
個別の「協力」どうしの競争へと「発展」した――

抽象的過ぎる言い回しですね
要するにサピエンスのなかで「味方(仲間)」と「敵」とに分離したというわけです
たとえば 農耕民と狩猟採集民
たとえば 農耕民同士

「協力」どうしの競争という知的行為 すなわち「戦争」です
「戦争」にはリーダーが必要で
リーダーを支えるには 〔システム〕が必要で
〔システム〕を支えるには 〔システム〕を支える〔人間〕が必要です

この「必要」への要請に応えて発明されたのが「書記」でしょう


いえ ここにも断絶があります
「協力」は戦争なしに 平和裡に大きくなることもありえます
だとしても 人類は リーダーなしの大規模協力〔システム〕は発明し得なかった
民主主義が発展した現代社会ですら リーダーなしの「協力」は想像できません
「リーダーシステム」ができあがれば
「リーダーシステム」同士の「協力」もしくは「非協力」は
リーダーの意思によって導かれるようになるのは自然なことでしょう

そうでなくても 〔人間〕には社会的ジレンマがあります
ナッシュ均衡は必ずしもパレート最適をもたらしません
リーダーがおのが集団のための利益を追求した結果
「非協力」になってしまうのは 自然な社会現象です

「非協力」になってしまった集団同士の非協力解決法には
 1.「協力」に立ち戻る
 2.「非協力」を押し通す
の2つがあります

どこかの集団が2.をたまたま成功させて規模を集団の規模を大きくすると
その集団はより2.の戦略を採用しやすくなるのは道理です
そうした「たまたま」が時間の経過とともに とある状態へと収斂していく

 淘汰

社会的淘汰の末 誕生するのが「王国」であり「帝国」です

「王国」や「帝国」といった〔システム〕を支えるのには
支える〔人間〕が必要であると同時に
「協力」を大規模にするためのテクノロジーが必要です
その必要を満たすことができた集団が 「王国」や「帝国」への道を拓くことができる

この問題を最初に克服したのは、古代シュメール人だった。彼らが住んでいたメソポタミア南部では、焼け付くような日差しが肥沃な泥だらけの平原に降り注ぎ、豊富な収穫が得られ、次々に町ができて栄えた。住民の数が増えるにつれ、彼らの営みを調整するために必要な情報の量も増えた。紀元前3500年と紀元前3000年の間に、名も知れぬシュメール人の天才が、脳の外で情報を保存して処理するシステムを発明した。もっぱら大量の数理的データを扱うようにできているシステムだ。これによってシュメール人は社会秩序を人間の脳の制約から解き放ち、都市や王国や帝国の出現への道を開いた。シュメール人が発明したこのデータ処理システムは「書記」と呼ばれる。



当時のメソポタミア南部には
〔システム〕を稼働させることができるだけの条件が揃っていた
 生態学的条件が整って人口が増え
 人口が増えたために 大規模な「協力」の条件が整い
 書記が発明されたために 大規模な「協力」が実現した




「生態学的条件を整のう」というのは 少し考えれば矛盾した記述です
生態学的条件を そもそもで考えるなら
それは
 「整っている」
 「整っていない」
の問題で
 「整えることが可能」
 「整えることが不可能」
の問題ではないからです

ですが 上の問題の次元を下の問題の次元へと変化させる出来事がサピエンスに起こります
農業革命です
農業革命によって 生態学的条件は 〔人間〕には「整えることが可能」なものへと変化した

ただし 農業革命は大きな代償を要求します
特定の植物への隷属です

サピエンスは特定の植物へ依存することで自らの自らの生存学的条件を整える
このことは 物理的客観的は「隷属」とイコールです
自ら生存のために 自ら以外の種の生存を優先させなければならないのですから
「隷属」という言葉は的を射ています

しかし 客観的事実は 必ずしも主観的事実とイコールではありません

植物には動物的意思はありません  
ここに〔人間〕の主観が入り込む余地がある
植物を育てることを 自らの「内発」とすることも可能です

サピエンスのみならず あらゆる生物にとって 生存への意志は〈内発〉です
裡なる欲求です
意思を持たない植物に許されて サピエンスは内発的に植物を育てることが可能
自らの内発として 生態学的条件整備を為す行為の結果として成立するのが

 〈里〉

です
〈里〉は その場その場の生態学的条件の在り方(風土)によって多種多様なものになります


ところが〈里〉の規模を超えるような大規模な「協力」は
〔人間〕の内発性を阻害してしまいます

言い方を変えれば 「王国」や「帝国」を出現たらしめる大規模協力は
これもまた大きな代償を要求する
それは 植物には「許されて」いた 〈内発〉 です

大規模協力はリーダーを必要とします
リーダーが植物ということはありえません
リーダーは動物的意思を備えた〔人間〕です

「書記」というテクノロジーが発明によって
 〔システム〕に支えられる〔人間〕と
 〔システム〕を支える〔人間〕の分離がおきます

「書記」を駆使する〔人間〕は ただ「書記」だけを駆使するわけではない
必ず 〔人間〕としての動物的意思も同時に発動させる

同時発動が避けられない動物的意思をどう制御するかが
理性であり 倫理ですが 
これらは原理上 十全に機能することはありえません

かくして〔システム〕を介した〔人間〕による〔人間〕の抑圧が生じます
個々の動物的意思は 原理上 バッティングするようにできています
個々のバッティング自体は 自然現象です
〔ヒト〕と〔ヒト〕同士のコミュニケーションの一形態にすぎない

が 自然現象に〔システム〕が介入すると 不自然現象になります
〔人間〕が〔ヒト〕である部分を〔システム〕が抑圧する
そうなると〔システム〕は【システム】へと質的転換を起こします
ぼくがいうところの

 逆接

の成立です

現代社会は そうした「質的転換空間」が全域化した【社会】に他なりませんが
全域化に至るには まだまだ歴史の旅を続けなければなりません


(画像はコチラからお借りしました (^o^)つリンク

『その8』へと続きます

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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