愚慫空論

「ギブ&ギブおまけにギブ」by堀江貴文氏

期せずして、こちらの続きです(^_^;)

 
 堀江氏が語る仕事で成功する心得「ギブ&ギブおまけにギブ」  


仕事やビジネスを進める上で、一番大切なのは「信用」だ。作り方は人それぞれだが、私からアドバイスできることもある。

 一つは人間関係の「断捨離」だ。(中略)

次に大切なのは、「与える気持ち」だ。(中略)

信用を得るためには、相手と「ギブ&テイク」という関係性を築くだけでは足りない。「ギブ&ギブ」、おまけに「ギブ!」くらいの気構えが必要だ。(後略)



正鵠を射ていると思います。
〔ヒト〕というのは、こういった生き物だと思います。
〔ヒト〕が〔人間〕となるのに、堀江氏の方法は正鵠のど真ん中だと思います。

でも、、同時に大きく外しているとも思う。
矛盾したようなことを言いますけど。

何が、どこが外れているのか。



堀江氏の文章を読みながら思い起こされたのは、この動画。



『北の国から』。ずっと初期の頃のお話しです。

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『銃・病原菌・鉄』その1~ポリネシアでの自然の実験



いい加減、『その17』で更新が放置したままになっている『サピエンス全史』シリーズの続編を書こうと思っているんですけれど...(^_^;)

 


『その17』で指摘したのは、科学革命が「正当化」になってしまっているということでした。

科学革命は歴史的事実です。
歴史的事実には必然の理由がある。
必然の事実を「もの語る(≠解き明かす)」ことが、「歴史を語る」ということです。

いえ、実は「歴史」にも2種類あります。



上掲書によると、歴史発祥の地には2種類ある。
中国において司馬遷が始めた歴史と、古代ギリシャでヘロドトスが始めた歴史です。

中国式の歴史は、そもそもからして「正当化」のためのもの。
ギリシャ式の歴史は「もの語る」ためのもの。

『サピエンス全史』も『銃・病原菌・鉄』も、ギリシャ式の系譜を継いでいると思う。
思うけれど、どうにも中国式が紛れ込む。

思うに、中国式、ギリシャ式、それぞれ、たまたま発祥の場所が違うにしても、どちらも「文明の要請」なんです。
たまたま、その要請が最初に発現した順番が、中国では「正当化」が先、ギリシャでは「もの語る」が先になっただけのことで。

『歴史とは何か』が言うところは、2つの要請のうちでも、中国式の要請は社会的であり、ゆえに強いものがある。
たとえばイスラーム世界などは、その世界秩序からは「もの語る」という個人的な形で発現する要請は発生しづらい。彼の地では「インシャー アッラー」でそうした要請を阻む。

ところが、他文明との抗争という避けがたい歴史現象が生じる。
その現象に対処するのに、中国式の要請に応じることは有利に働く。
それゆえ、もともと歴史を発祥させる必然性がなかった、あるいは阻害する要因があった地域にも、歴史は伝播していった。

イスラーム世界の歴史書、イブン・バットゥータの『旅行記』などは、ギリシャ式の系譜を継ぐものと思うけれど、イスラーム世界でこのような「個的」な歴史が生まれたのは、直接的に要請が具現化したのではなくて間接的に、まず、社会的な中国式歴史がイスラーム世界にも定着して、その次の段階として発現したのだろう思ったりしています。

ちなみにインドは阻害要因が強すぎて、歴史伝播が阻まれた。


というようなわけだから、ひとつの書物の中に中国式とギリシャ式が入り交じるのは、流れとしては当然のことだろうと思います。
とはいえ、それを看過していいかどうかは別の問題。
「正当化」はどうしても、【隠蔽】という副作用をもたらすものでもあるわけだから。

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「おカネの本質」 by 堀江貴文氏


「おカネの本質」とは何か? 堀江貴文氏が解説

ライブドアニュースからネタを拝借。
タイムリーでもあるし。

情報は入ってくるものではない。こちらから、取りに行くものだ。仕事やカネで失敗し、いつまでも悪い環境から抜け出せないような人は、環境に負けたのではなく、単純に情報弱者なのだ。情報弱者だから、カネの本質というものをまるでわかっていない。




この文章を味覚で例えるとすると、アルコール度数の高いカクテル飲料でしょうか。

ウォッカベースのスクリュードライバー。あるいはブラッディメアリー。
度数が強いわりには口当たりが良くて、女性向き(?)とか言われたりしています。

で、世の中というか、生物界には個体差というものがあります。
サピエンスのなかにはアルコールに耐性のある個体とそうでない個体とがある。
この個体差を敢えて「才能」と、ここでは言っておきましょう。
「才能」と「能力」は同じようなものですけれど、ここでは「才能」がふさわしい。

〔人間〕の中には「才能」のある者もいれば、そうでない者もいる。
「才能」がある者は、「おカネの本質by堀江貴文氏」を呑んでも酔わないでいられる。
「才能」がない者は、同じものを呑んでもアルコールに負けて自分を見失ってしまう。

“詐欺的飲料”といってしまうのは言い過ぎでしょうけれど...

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始之爲始之 終爲終 是始也




タイトルは『論語』のパロディです。

為政第二の十七

 子曰 由 誨女知之乎 
 知之爲知之 不知爲不知 是知也


 子曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
 これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり。


以前から幾度となく取り上げてきたものです。

タイトルは、

  知  ⇒ 始
 不知 ⇒ 終

と置き換えてみただけ。

 これを始めるはこれを始めると為し、終わりを終わりと為す。是れ始めるなり。

別の言い方をすれば、

 動的平衡を保つ

でしょうか。



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【追記】『蜜蜂と遠雷』



大切なことに気がつきました。
なぜ、読んでいる最中に気がつかなかったんだろう?
気がついてもよさそうなものなのに。

風間塵のモデルは、辻井伸行かもしれない――




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『プレイバック』




If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.


日本語訳にすると

 強くなければ生きていけない。
 優しくなければ生きている価値がない。


出典は知らなくても、誰もがどこかで耳にしたことがあるという典型的な“名台詞”ですね。

ぼくもずっと“名台詞”として甘受してします。
出典の『プレイバック』は読んだことがない。今現在もまだ未読です。


理由があって、未読状態を改めようと改めようと思ったんです。
村上春樹が新訳を刊行したということも、小耳に挟んでいましたし。

それで近くの図書館の在庫を検索してみたら、あるじゃないですか。
しかも貸し出しされていない。

『プレイバック』を借り受けるために出かけました。図書館まで。
でも、あるべき棚に姿がない。

あれ、借りられたかな? と思って図書館の検索機で調べてみると、在庫になってる。
司書に探してもらったけど、見つからない。

「図書館の中にはあるはずなんですが。
誰かが(図書館の中で)手に持っているか、稀にあるんですが、別の場所に置いてしまったか...」

なんなんだ、この狙い澄ましたような巡り合わせの悪さはw

仕方がなく、貸し出し予約をして帰りました。
すると、今朝になって貸し出し準備ができたというメールが来ているのに気がついた。

今日は月曜で、休館日じゃないか!
運命の女神とやらは、ぼくに『プレイバック』を読ませたくないらしいww

だったら読まずに書いてやるwww

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『聲の形』




映画です。DVDをレンタルして鑑賞しました。

優しい映画です。
登場するキャラクターは、みんな優しい。
ひとりだけ例外はいるけれども。

そして、みんな怯えています。

優しいからいたわり合おうとする。
でも、怯えているから、傷つけあってしまう。


最初の舞台は小学校です。

教師がムカつきます。
暴力的に教室を支配している。
教室にはヒエラルキーがあって、その頂点に教師が君臨しているという感じ。

そういう教室の中に聾の少女が転校してくる。

この子、ウザいんです。
なぜかというと、怯えていないから。

いえ、本当はとても怯えているんだけど、怯えに懸命に抗っているんですね。

抗っているからこそ、ウザい。

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『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン-世界一優雅な野獣-』

知らなかった、迂闊だった。

 これは反省の反省の弁ではなく、喜びの言葉です。
出会えないでいたものに出会えた。

そんな喜びの言葉がぼく自身の全能感を背景に出てくるのはちょっとなぁ、と思ってしまいますが、そこは今回は追いかけません。ご容赦を(^_^;)


セルゲイ・ポルーニン。
名前は知っていました。
イギリスのロイヤル・バレエ団のプリンシパルという地位を放棄していった、才能に溺れたスキャンダラスな人物という噂とともに。



でも、こんな動画が配信されているのは知りませんでした。
2億回以上も再生されているのに。
映画の中で初めてこの動画を見ました。

最初の体験を大きな画面で観ることができたのは、幸運なことだったと思っておくことにしましょう。



ぼくたちは、「同じ人間」ということをよく言います。
この言葉はよく言われはするけれども、しばしば無力感を誘発する言葉でもある。
現実との対比が浮き彫りになってしまうからです。

同じ人間なのに、持って生まれたものは違う。
現実として際立っているのは、「同じ」ということよりも「違う」ということのほうです。

 「同じ」は観念的
 「違う」は現実的

とすら、言っていいのではないかと思います。

この映画は、「同じ」ということが観念的ではなく現実的なんだということを教えてくれるものです。

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『蜜蜂と遠雷』



この本の面白さには、一面で、『ドラゴンボール』のそれと似通ったところがあります。




Amazonにある内容紹介を引用させていただくと

養蜂家の父とともに各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳

かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳

音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳

完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ=アナトール19歳


風間塵はフリーザ。
栄伝亜夜は孫悟空。
高島明石はクリリン。
マサル・C・レヴィ=アナトールはベジータ。

...

ほんまかいな(←大阪弁w)


舞台は日本国内で開催される架空の国際ピアノコンクール。
モデルは浜松ピアノコンクールらしいが、どうでもいいか。

主人公はコンクール出場者の上記4人ということになるんだろうけれども、記述の分量からいえば、コンクール審査員の嵯峨三枝子やナサニエル・シルヴァーバーグにも相当の分量が割かれています。

舞台の上の人間模様を俯瞰した映画的(?)な構成と言えばいいか。


ドラゴンボール的なのは、舞台設定の所為でもあります。
コンクール、つまりは、選抜戦。
一次予選、二次予選、三次予選、本選と進むにつれて参加者や振り落とされていく。
勝ち残った者はグレードアップしていく。

エンターテイメント・ストーリーの王道です。

だから、比べるのは『ドラゴンボール』でなくてもよい。
『聖闘士星矢』でもよかったし『アラベスク』でもよかった。

いやいや、『アラベスク』は最後だけで、全体としては違うかな。

それにしても古いな...(^_^;)


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『人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの』

『蜜蜂と遠雷』が面白いです。



まずは図書館で借りてきました。
人気の本なので、予約は順番待ち。
順番が回ってきましたよと連絡があって、本を借り受けて、読み始めた。
通常だと2週間借りられるのですが、人気の本ということで、借受期間は1週間だけ。

ぼくは本が手元にきても、すぐに読み始めることができないんです。なぜだかわからないけれど。
ここのところ、ずっと忙しくて時間がなかったこともあるけれど。

しばらく放置して、なんとなく気に留めておいて、呼び出しがあるのを待つ。
『蜜蜂と遠雷』から呼び出しがかかったのは期限があと3日というところ。

読み始めると、これが面白い。
とても3日では読み切れそうにない。
一気に読めば3日もかかりはしませんが、休み休み読むのが、特に小説の場合は、ぼくの流儀なので、時間がかかる。

一度返却して、再度予約という手もあるんだけど、それも待ちきれない。
で、ポチーとやってしまいました。
kindle でダウンロードしてしまった。
やっぱり神の本にすればよかったかな...


『蜜蜂と遠雷』と同時並行で読んでいたのが、当文章のタイトルの本です。



こういう本は、休み休み読んだりはしません。
する~っと読んでしまうのが流儀。

これも面白かった。
というか、『蜜蜂と遠雷』との「読み合わせ」が面白かった。
食べ物でいう「出会いもの」みたいな感じ。
タケノコとワカメみたいな。


というわけで、『蜜蜂と遠雷』を語る前に、こちらを語りたい。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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