愚慫空論

『サピエンス全史』その14~宗教という「隠蔽」

『その13』はこちら (^o^)っ リンク

 


今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源とみなされるとが多い。だが実は、貨幣や帝国と並んで、宗教もこれまでずっと、人類を統一する3つの要素の一つだったのだ。社会秩序とヒエラルキーはすべて想像上のものだから、みな脆弱であり、社会が大きくなればなるほど、さらに脆くなる。宗教が担ってきた極めて重要な歴史的役割は、こうした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ。宗教では、私たちの方は人間の気まぐれではなく、絶対的な至上の権威が定めたものとされる。そのおかげで、根本的な法の少なくとも一部は、文句の付けようのないものとなり、結果として社会の安定が保証される。

従って宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の精度と定義できる。これは、2つの異なる基準がある。

1.宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。プロ・サッカーは宗教ではない。なぜなら、このスポーツには多くの決まり事や習慣、奇妙な儀式の数々があるものの、サッカー自体は人間自身が発明したものであることは誰もが承知しており、国際サッカー連盟はいつでもゴールを大きくしたり、オフサイドのルールをなくしたりできるからだ。

2.宗教は、超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それに拘束力があると見なす。今日、西洋人の多くが死者の霊や妖精の存在、生まれ変わりを信じているが、これらの信念は道徳や行動の基準ではない。したがって、これらは宗教ではない。

宗教は、広く行き渡った社会秩序を正当化する能力を持っているとはいえ、そのすべてがこの能力を発揮するわけではない。本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を参加に統一するためには、宗教はさらに2つの特性を備えていなくてはならない。第一に、いつでもどこでも正しい普遍的な超人間的秩序を信奉している必要がある。第二に、この信念をすべての人に広めることをあくまで求めなければならない。言い換えれば、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことも求められるのだ。



長々の引用になってしまいました。
もはや「引用」の範囲を超えてしまっているのかもしれませんが
宗教とはどういったものかを示す極めて凝縮された文章で
落とせるところがありません



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写真フリー素材



今回は「写真AC」というサイトの紹介記事

上の画像はもちろん「写真AC」というところからダウンロードしたものです

無料写真素材を提供する「写真AC」のフリー写真素材は、個人、商用を問わず無料でお使いいただけます。クレジット表記やリンクは一切不要です。Web、DTP、動画などの写真素材としてお使いください。



「写真 フリー」あたりのキーワードで検索すると、いくつもサイトがヒットして
「写真AC」はそのなかのひとつ

ぼくは「写真AC」を使っています
それも有料の登録をして使っています
過去の記事にもいくつも使わせてもらっています
まあ 気分が向いた時に 極めてテキトーに貼り付けているだけなんですけど

「写真AC」の紹介とか言いながら
実は似たようなサイトならどこでもいいと思います
というか ぼくには違いがわかりません
フリーの素材を探していて どういう理由だったかは忘れましたけど
たまたま「写真AC」を使い出すようになった

たまたまです
それ以上に理由はありません
 
たまたま紹介するのは「写真AC」ですけど
そのようなサイトを紹介するのは
そのビジネスモデルがいいと思うから




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再掲載:貨幣は必要か

今回はコメント欄の流れを受けて
過去記事に若干の注釈を付けて再掲載することにします

 愚慫空論 『貨幣は必要か?』

貨幣は虚構です
それも最強の征服者です

ぼくたち〔人間〕はもはや貨幣なしでは〔社会〕を維持していくとができませんし
〔社会〕を維持できなれば「信用」を調達できません

貨幣は〔社会〕を秩序づけて「信用」を供給しますが 同時に、
サピエンスが持つ〔ヒト〕としての部分 
すなわち 身体性を抑圧する働き も持ちます

身体性の抑圧は「信頼」の調達を阻害しますが
これはサピエンスの生来の性質を阻害することと同じです

サピエンスは社会的な生き物です
それも 一般にいう「動物的」に社会的なだけではなく
 「信頼」を頼って生きる部分
 「信用」を頼って生きる部分
の二重の社会性をもつ
一般的に「社会的」というと 後者を指します

後者が生まれたのは認知革命以後だと考えます
ゆえに 前者を〔ヒト〕 後者を〔人間〕と改めて定義づけることが出来ると思います


ぼくは『貨幣は必要か?』の中において
貨幣を「属人的なもの」へとイノベーションせよと主張しています
そうすることによって 貨幣の「信頼」阻害要素が減ると考えるからです


「信用」は「単純なもの」を基盤にします
貨幣がその最もたるものです
一方 「信頼」は「複雑なもの」を基盤にしようとします

「信用」は静的で ゆえに外部的であり 確固として基盤と為すことができる
「信頼」は動的で ゆえに内発的であり 確固として基盤になすことはできない
できないしようとすることはできる」のが「信頼」です


「信頼」とは 自身の内発性を基盤にして外部へと発展させていこうとする営みです

「〈自然〉の成長」とは 「信頼」を発展させていくことにほかなりませんが
そもそも「信頼」には型がない
「信用」は型がないと成立しませんが
「信頼」は型にはまった時点で「信頼」ではなくなります
なにをどのように信頼するのかは、その人の個性によります


付け加えます
 
 「信用」に拠ってアイデンティティを調達しようとする営みを自己愛
 「信頼」を発展させていくとによって
  アイデンティティを逓減させていく営みが自愛

というふうにいうこともできるかと思います


では 過去記事を再読してみてください


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『鋼と羊の森』

最近のぼくは 小説熱が高くなっています。



『鋼と羊の森』

前から気になっていました
小説熱が高まる前から

タイトルがいい
「鋼」「羊」「森」
どれもそそられる言葉
ピアノ調律師の話だなんて 知りませんでしたけど

このタイトルにそそられた頃は小説熱は高くなかったので
自前で購入してみようと思いませんでした

で 最寄りの図書館へ貸し出し予約
相当の予約件数が入っていたみたいで 忘れた頃に連絡が来ました


読んでみて よかったです

「ふつう」の物語
ありきたりという意味の「ふつう」ではなくて 
いのちあるものそれぞれがみな ふつうに違うような意味での「ふつう」

いえ いのちあるものだけではない
ピアノにはいのちはありませんが でも 個性はある
モノにも個性があって それを活かすことが自らが〈生きる〉こと
そして それは「ふつう」のこと

そういうお話しです

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『サピエンス全史』その13~自己愛の起源

『その12』はこちら (^o^)っ リンク

 


遅々として進まない『サピエンス全史』シリーズですが
進行をさらに遅らせてしまうことになりそうです (^_^;)

今回は 本の流れを遡ってしまいます....



愛とは 何か?
難しい問いです

なぜ難しいかというと 愛はそもそも言葉にならないものだからです

言葉には 言葉にならないものさえも言い表すことができるという特性がある
言葉はデタラメだから そういうことができてしまいます


愛そのものを言い表すことは 不可能です
とはいえ
「愛」と言葉(記号)で指し示される「なにものか(内容」)はあるように思える


言葉の特性のひとつとして

 言葉で指し示された「なにものか」は 実在するように思えてしまう

ということがあります


そもそもの言葉は 実在物に対する「名づけ」でした
そして そうした意味における言葉は サピエンスだけの所有物ではありません

それはこの世界で初の言語ではなかった。どんな動物も、何かしらの言語を持っている。ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑なやり方で意思を疎通させる方法を知っており、食物のありかを互いに伝え合う。また、それはこの世で最初の口語言語でもなかった。類人猿やサルの全種を含め、多くの動物が口語言語を持っている。たとえば、サバンナモンキーはさまざまな鳴き声を使って意思を疎通させる。動物学者は、ある鳴き声が、「気をつけろ! ワシだ!」という意味であることを突き止めた。それとはわずかに違う鳴き声は、「気をつけろ! ライオンだ!」という警告になる。研究者たちが最初の鳴き声の録音を一群のサルに聞かせたところ、サルたちはしていることをやめて、恐ろしげに上を向いた。サピエンスはサバンナモンキーよりもずっと多くの異なる音声を発せられるが、クジラやゾウもそれに引けを取らないほどみごとな能力を持っている。



言葉がデタラメになったのは認知革命以降です

認知革命以降のサピエンスがあやつる言葉は 
非実在の「なにものか」にすら 「名づけ」ができるようになりました
そして 「名づけ」によって 
非実在の「なにものか」があたかも実在してるように感じるようになった

この

 非実在の「なにものか」があたかも実在してるような感じ

のことを ぼくは

 実感

と呼ぶことにしています
「実感」は 実在するものへの感覚を意味するのではありません
ですから ほんとうは「虚感」と呼ぶのが正確なのかもしれません

実在するものへの感覚のことは 「身体感覚」と呼ぶようにしています

では 愛は実感(虚感)なのか?

ここが難しいところです

愛には 

 身体感覚としてのものと 
 実感(虚感)としてのものの

の2種類があります

 前者が 自愛
 後者が 自己愛


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虚構の使い方

毒多さんのところで紹介されていた動画



思ったところを表現してみます


目隠しをして 次のようなメッセージを掲げています



挨拶と名乗りの次に アラブ系のアメリカ人だと自己紹介
そして

I Lile many People
  Black  (黒人)
  Brown (有色人種)
  Women (女性)
  LGBTQIA (セクシャルマイノリティ)
  LATINX (ラテン系アメリカ人)
  MUSLIM (イスラム教徒)
  JEWISH (ユダヤ教徒)
  Immigrants (移民)
   and Other

場所はニューヨークのセントラルパークのそばのようです
場所から考えて 容易に想像が付くのは
上に上がられた人たちは 差別されている人たち
そのことは White(白人)が入っていないことからもわかります

彼らが差別を受けるのは 虚構の作用によって です

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忖度/guess/ゲス

「忖度(そんたく)」という言葉が話題になっているようです

「森友問題」 いえ もう 「籠池劇場」というべきでしょう





あ 上の動画は貼ってみただけだから 見なくていいです
でも ちょっとつまみ食いしてみてるのは面白いかも

なかなか大したもんですよ 籠池さん (^o^)
これはこれで大変立派だと思います
とってもゲスな振る舞いだけど (^_^;)

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コミュニケーションとイノベーション



JBpressさんの記事です

 『AI時代の大問題、労働のない社会は成立するのか?』


JBpressの記事「人工知能に奪われない最後の2つの仕事とは」にショックを受けた人は多いのではないか。なにせ「人間に残される仕事はイノベーションとコミュニケーションの2つしかない」というのだから。もしその仕事に就けなかったとしたら、失業者になってしまうということになる。



人工知能の発達は想像を凡人の想像を絶するものになりつつあるようですね

何ごとにせよ 発達するのは良いことです
だけど 何ごとにせよ 良いことの半面は悪いことも生まれてきてしまう
「良いことだけ」なんて 都合の良いことはないわけです

大きな話でいくと
サピエンスが繁栄したのはサピエンスにとっては もちろん「良いこと」だけど
サピエンスの繁栄は環境負荷を増大させて
サピエンスの生存を脅かしかねない状態にまでなっています

「良いこと」が「悪いこと」を生み出してしまっているんですね
これは「環境」が有限だから生じる問題
ゆえに「環境」が拡大すれば一時的に解決します

現在の環境問題を解決する抜本的な方策は
人類の生存場所を地球環境外へと拡大することです
あまたのSFに描かれているように

ちなみにぼくは
人類が地球外で暮らし始める未来があると信じる者です (^o^)/



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『サピエンス全史』その12~「彼ら」が「私たち」になるとき

『その11』はこちら (^o^)っ リンク

 


(前略)やがて紀元前550年ごろ、ペルシアのキュロス大王が、それに輪をかけて大げさな自慢をした。

アッシリアの王たちはつねに、アッシリアの王にとどまった。全世界を支配していると主張したときにさえ、アッシリアの栄光を増すためにそうしているのは明らかで、彼らに後ろめたさはなかった。一方、キュロスは、全生界を支配しているだけではなく、あらゆる人のためにそうしていると主張した。「お前たちを征服するのは、お前たちのためなのだ」とペルシア人たちはいった。キュロスは隷属させて民族が彼を敬愛し、ペルシアの従属者であって幸運だと思うことを望んでいた。



ちなみにキュロス大王は「バビロンの捕囚」に囚われていたユダヤ人たちを
「故郷」へと帰還することを許し 支援さえした人物です

もしキュロスのこの業績がなければ
ユダヤ教は誕生していなかったかもしれませんし
誕生していても別の形になったかもしれません
そうなると キリスト教が生まれたかどうかも怪しくなりますし
イスラム教だって そうなるでしょう

そう考えると キュロスは一神教世界成立に関わった重要人物です
なのに 一神教世界側からキュロスへの感謝を目にした覚えがない

一神教世界側の「私たち」からすれば
大きな功績があったとはいっても キュロスは「彼ら」の側だからでしょう
神話の類いに「彼ら」の助力が作用していたなどと記すと
「私たち」の自己否定になってしまいますからね...



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『シン・ゴジラ』

取り上げるつもりはなかったんですけど (^_^;)



観たのは もう半年ほど前になりますか
劇場で観てきました

「まあ そこそこ面白かったんじゃない?」

何をどう面白いと感じたのか 「感じ」の記憶はほとんど残っていません
ただ 「そこそこ面白かった」という言葉を脳裡に浮かべた記憶は残っています

言語化された部分の記憶がのこっています
逆に言えば 感覚の記憶はあまり残っていない
刺激的ではあったけど それだけだった
なので 特に何かを書き残そうという気にはならなかった


ところが残っていなかったわけではなかったんです
残ってはいたけど それは「面白い」という言葉を貼り付けた部分ではなかった
それが



を観たことで引っ張り出されてきたわけです


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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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