愚慫空論

〈大人〉の責務




前回からの続きということで、音楽も続きます。
J・S・Bachの平均律クラヴィーア曲集第二巻。


前回、マーケティングとイノベーションということを書きました。
マーケティングもイノベーションも、どちらも理知的な行為。
つまり、〔人間〕の知性と理性に基づいた行為だということです。

〔人間〕とは理知的な生き物である――
これは文明人の一般的な認識です。
理知的ではない生き物は、それが同じサピエンスであったとしても野蛮だとする傾向がある。
レ=ヴィストロース以降は、「野生」と「野蛮」の違いの認識が深まりはしたけれども、それでも「野生」を野蛮だとして低く位置づける傾向自体はさほど変化はありません。

〔人間〕はどうしても理性と知性に重きを置くもの。
そのこと自体はいいのだけれども、それが【過剰】になってしまう嫌いがあります。

その【過剰】は、ドラッカーと孔子にも表れています。



ドラッカーや孔子自体に【過剰】はなかったのだと思います。
【過剰】があったとすれば、「仁」や「management」といったような思想は出てこない。

だけど、「仁」や「management」は誤読されます。
誤読されるのが一般的になっている。

「仁」も「management」も、社会や会社といった人間集団を治めるための中核“思想”です。
その思想が、ごく当然に〈生きる〉ことを阻害するものとして機能するようになってしまう。
「仁」や「management」も、本来はその組織に所属する〔人間〕を〈生かす〉ためのものだったのに、いつの間にか組織そのものが存続するための原理にすり替わってしまう。

これはドラッカーや孔子の責任ではないのかも知れませんが、揃ってそのようになるという事実があると認識すれば、そこには何らかの落ち度があったのではないかと推測されるのが理というものでしょう。

では、彼らが見落としたものとは何か?


そのことを探るヒントは、ここにあります。

『成長期の子どもに学んでほしい4つのこと(教えるべき4つのこと) 前編』
『成長期の子どもに学んでほしい4つのこと(教えるべき4つのこと) 後編』


ご存知、アキラさんの『光るナス』の記事です。

これら2つの記事では、4つの“観念(←と敢えて言っておきます。敢えての理由は後述します)”が提示されます。

 1: この世の中には「楽しいこと」と「つまらないこと」がある
 2: この世の中には「やりたいこと」と「やりたくないこと」がある
 3: この世の中には「大事なこと」と「くだらないこと」がある
 4: 世の中には 自分に「出来ること」と「出来ないこと」がある


4つの「観念」を身体の成長に合わせて、1から順番に“教えたい”――

“教えたい”という表現は、“刷り込みたい”というような強いものではなくて、“確認したい”程度の緩やかなニュアンスのものだと思われます。

この4つの「観念」は、端的な述語に置き換えることが可能だと思います。

 1: 感性
 2: 意志
 3: 知性
 4: 理性


〔ヒト〕は身体の成長に合わせて、まず、感性を獲得する。
「楽しいこと」と「つまらないこと」を識別する能力が感性です。
〈生きて〉いることそのものを、具体的な行動に即して関知する能力。

感性が生まれ、「楽しいこと」と「つまらないこと」が識別できるようになると、次は当然、「楽しいこと」を選択しようとする意志が芽生える。

感性を尊重しようとする意志が発達しようとするならば、そこには知性が必要となります。
「楽しいこと」は「大事なこと」として認識される。これは知性の働きです。
もうひとつ、「楽しい」だけでは社会的な認知は得られず、意志の遂行が困難だということも学ぶでしょう。これは社会性ですが、社会性は知性のありようのひとつだと思っていい。

以上のように考えていけば、知性から理性が芽生えていくというのも理解できます。
社会的知性から己の限界を把握することとになり、それが理性として働くようになる。

感性。
意志。
知性。
理性。

これらはいずれも能力です。
が、同時に観念でもある。

両面のうち、どちらに重きを置いて捉えるか。
その比重によって【過剰】が生まれることがある。
観念に比重が置かれると【過剰】が生まれる。
観念を把握するのは知性と理性の作用なので、知性と理性が重視されると【過剰】が生まれることになる。


このことがドラッカーや孔子の「特徴」です。
彼らは〔ヒト=人間〕というものをよく観察しますが、その観察の仕方が理知的な方向に偏っている嫌いがあります。
そのことが、彼らが提出する言葉が「思想」「観念」として捉えられがちになる要因になっている。

『マネジメント』は技術書です。
『論語』も技術書です。
ですが、そのように読まれているかどうかは甚だ心許ない。

『マネジメント』はまだ新しい書だということもあって本来の読み方が為されること多いけれども、『論語』に至っては完全に思想書の扱い。よくよく読んでみれば技術書だということがわかるのですが。
(といって、ぼくに原書を読みこなせる能力は無いので、訳書に拠るところが大きいのですが。)


『論語』はさすがに感性についても言及されています。

 仁者不憂

というのが、それ。

 仁者は楽しくないことはしない


ただ、書き方が逆接になっています。
これは感性についてだけではなく『論語』そのものの特徴であり、おそらくは中国の言語の特徴です。
そして、否定することで強調するというスタイルがすでに理知的。

 仁者は楽しいことを意志する

という具合には言わない。
そのような表現には締まりがないと感じるのだろうと思います。
言語感覚です、おそらくは。



長くなりますが、続きます。

『論語』陽貨第十七の二十一。
「子生まれて三年、然る後に父母の懐を免がる」です。

 宰我問
 三年之喪期已久矣
 君子三年不爲禮
 禮必壊 三年不爲樂 樂必崩
 舊穀既沒 新穀既升 鑚燧改火 期可已矣

 子曰 
 食夫稻 衣夫錦 於女安乎

 曰 安
 女安則爲之

 夫君子之居喪
 食旨不甘 聞樂不樂 居處不安 故不爲也
 今女安則爲之

 宰我出

 子曰 
 予之不仁也
 子生三年  然後免於父母之懷
 夫三年之喪 天下之通喪也 
 予也有三年之愛於其父母乎


宰我が尋ねました、
「三年の服喪は少し長すぎではありませんか? 私は一年で十分だと考えます。人々の手本たるべき君子が三年も礼を行わないのでは、礼が廃れます。君子が三年も音楽から遠ざかるのでは、音楽が廃れます。一年あれば古米はなくなり、新米が実るというものです。竈の火起こしに使う摺木も一年で取り替えます。一年で十分ではないでしょうか?」
孔子は、
「たった一年で、おいしく御飯を食べ、立派な服を着て、それでなんとも思わないのか?」
とおっしゃりました。宰我が、
「なんとも思いません。」
と答えると、孔子は、
「それならば好きなようにすると良い。喪中の君子は、御飯を食べてもおいしくなく、音楽を聴いても楽しくなく、家にいても気持ちが安らがない、だからそうしないのだ。なんとも思わないのであれば、好きなようにすると良い。」
とおっしゃりました。宰我が部屋を出た後で孔子は、
「彼に仁の心はないな。生まれて来た子供は三年間両親の腕の中で育つ。だから三年の喪が習慣として定着しているのだ。彼もまた両親の腕の中で愛情を受けたであろうに。」
とおっしゃりました。


(訳文はこちらから拝借)

この記述は、あるいは孔子の「絶望」が書き留められているのかも知れません。

 「生まれて来た子供は三年間両親の腕の中で育つ」

『論語』ではざっくり語れていることが、野口整体で具に観察されていて、具体的な技術としてとりまとめられているようです。

 『大事な大事な「記憶のない時期」 前編』
 『大事な大事な「記憶のない時期」 後編』

「仁」である者は、自然な感情として自ずから「三年之喪」に入ると孔子は言います。
それが社会の通例であるとまで言う。

現代では想像がつかないことです。
現代では「三年之喪」は、道徳的な押し付けだと捉えてほぼ間違いがない。
とてもとても、人間性の自然な発露だなんて思えません。

もし、本当に孔子の時代においては「三年之喪」が〔ヒト〕の自発的な通例であったとするならば、そんなことが想像すらつかないような現代は、「仁」が甚だしく後退していると言わざるを得えませんが、これは事実、そうなんだろうと思います。

ハラスメントということの性質を考えれば、この成り行きは当然です。
「三年之愛」を得ないものは不仁にならざるを得ない。
不仁な者が子に「三年之愛」を与えることはできないし、そうなると、「不仁」が再生産されてしまう。
「不仁」の再生産の挙げ句が、現代の状況です。

そんななかでも、野口晴哉といったような天才は「三年之愛」の具体的な技術を(再)発掘した。
したはいいはいいけれども、やはりそうした技術を現代の生活様式にフィットさせることは困難極まる。
絶望的な状況だと言ってもいいのかもしれません。


では、「不仁」にならざるを得なかった者は「不仁」のまま生きるしかないのか?


孔子と同時代のインドにおいて、この課題に取り組んだ人物がいました。
ゴーダマ・ブッダです。

彼は「不仁」のままでいるしかないとして、それを「悟り」としました。

 一切皆苦

ブッダの言う「苦」とは「不仁」です。

「不仁」は根本的に治癒できない。
できるのはせいぜい「不仁」を空ずる程度のこと。

ところがブッダの後継者たちは、「不仁」は根本的に治癒することができるとしました。
大乗仏教には、そのような「確信」があると、ぼくは思っていますが――これは余談でした。


「三年之愛」に恵まれなかったことで陥った「不仁」を100%挽回することは不可能かも知れません。
だけれども、挽回しようとすることはできる。
「しようとする」ことができる限り、絶望はありえません。


ではでは、その具体的な方法論があるのか。

あるとぼくは思っています。
絶望していないのだから、あるに決まっているとも言える。


具な技術については、ぼくもまだまだつかめていません。
なので、今は観念的にしか語ることができません。


身体の発育に伴って〔ヒト〕が獲得してしていく4つの能力を、適切に使うこと。

 理性は知性を増強するために。
 知性は意志をサポートするために。
 意志は感性を豊かにするために。

豊かになった感性は、理性がはじき出した限界に「別の回答」を与えてくれることでしょう。
「別の回答」を得ることが、マーケティングでありイノベーションです。

できないものはできない。
直接的にはできないけれども、間接的な方法で実質的に実現することはできるかもしれない。

「できるかもしれない」には実例がたくさんあります。
文明そのものがその実例です。


サピエンスは、直接的にはネアンデルターレンシスには勝てなかった。
私たちサピエンスは、〔虚構〕という「コルセット」を得るまでは、発生したアフリカ大陸で、現代とは違って食物ピラミッドの中ほどに位置する、ありふれたローカルな種としてしか生存は許されなかった。

〔虚構〕は直接的には不可能なことを間接的に実現するための迂回路です。


〔虚構〕を生み出すのは主に知性です。
理性は〔虚構〕を制御する方向で作用する能力。
ところがサピエンスはしばしば、知性の作用が暴走する。
現代においてその暴走は、「反知性主義」と呼称されています。

「できること/できないこと」を識別する能力を機能させずに、すべてを「できること」と認識するか「できないこと」は無視をして「できること」だけに知性を集中させるよう意志する。
精確には「理性機能不全症候群」とでも言うべきでしょう。

このような現象が生じてしまう原因もまた、孔子やドラッカーが観念的に捉えられてしまうのと同根だと思います。
感性がスルーされている。

理性によって増強された知性が意志をサポートするが、その意志は感性を否定する。
「楽しくないこと」を「大事なこと」だと認識するよう意志する。

そのように他者に強制されること、ことに大人が子どもに【教育】してしまうこと。
これが【ハラスメント】です。

【過剰】に生きざるを得ない【大人】は、弱者に対して【ハラスメント】をすることが自らの責務だと認識しています。
文明人が文明人たる所以を考えれば、これは必然の流れでもある。
文明は、特定の植物に隷属するというマーケティング&イノベーションの結果として生じたものなので、その流れに従えば感性が蔑ろにされていくこと必然となります。

だからこそ、感性を活性化させる意志が大切になります。
〈大人〉の責務です。


「不仁」な大人も、

 理性 ⇒ 知性 ⇒ 意志 ⇒ 感性 ⇒ 理性 ⇒ ・・・・

といったサイクルで、成長に伴って獲得した各々の能力を活性化していくことができる。
「不仁」であるがゆえに、それぞれの能力は不完全です。
不完全であっても、不完全なりに適切に機能させることができれば、不完全さを補なっていくことができる。



長くなりましたが、最後にもうひとつ。

ぼくに絶望から逃れる〈いのちのちから〉を教えてくれたのは、この子です。



馬に伐り倒した木をぴっぱり出してもらっています。
馬搬、英語では「ロギング」と言ったりします。

ぼくにはずっと疑問がありました。
なぜ、この子は、こんなことをしてくれるのか

なぜこんなことを「するのか」と問いを立てるなら、答えは簡単。
そのように仕込んだから。調教したから、です。

こうした問いと答えは、〔人間〕の傲慢さを慰撫するには都合がいいかもしれないけれども、ぼくには満足がいく答えではありませんでした。
なぜなら、彼女(♀です)は、〈生き生き〉と仕事に取り組んでくれていたから。
ハラスメントの洗礼を受けている【人間】的感性からすれば、不愉快なはずのことなのに。

もちろん、嫌がって仕事をしてくれないときも多々ありました。
そんなときは、原因を作っていたのは仕事をしてもらう方。
つまり、ぼくの方にありました。

ぼくが不機嫌だと彼女にも伝染して、動いてくれなくなる。
逆にぼくが上機嫌だと、彼女の上機嫌で働いてくれる。
彼女が持つ能力を、喜んで発揮してくれる。

彼女は、〈いのち〉としての責務を果たしてくれていたのだと、今では考えています。
自身が持つ能力を十全に発揮すること。
十全に悦びを見出すこと。

それは激烈な生存競争になったりもします。
そうであっても、彼らは悦んで責務を果たす。
理由があるとすれば、ただ、「そのように生まれてきた」というだけでしょう。

馬にはサピエンスが持つように高度な理性や知性はないのかもしれない。
でも、だからこそ、理性や知性に偏ることもない。
物事が観念的になってしまって停滞することがない。


持てる能力を十全に発揮することは、そのことによって社会的な報酬が得られるかどうかに関わりなく、〈いのち〉が持つ責務です。
彼女は何の報酬も期待することなく、悦んで持てる能力を発揮してくれました。
彼女がその能力を持っているという、ただそれだけの理由で。

〔人間〕が営む社会には秩序が必要です。
その秩序を維持するためには、〔人間〕は【人間】にならなければならない。
報酬を得て仕事をすることが「大事なこと」。
そのことが「楽しいこと」であることよりも「大事なこと」。
そうでないと、秩序が維持できないから。
つまり、最も「大事なこと」は「秩序を維持すること」であり「秩序の中でどのようにポジショニングするか」です。

これは〈いのち〉の責務とは、しばしばバッティングする。
バッティングとはハラスメントです。
ハラスメントが時代を下るにつれ頻繁になってきたがゆえに「不仁」が拡大再生産されてしまうことになった。

能力がある〈大人〉の責務は、〈いのち〉の責務と同じもののはずです。
それにくわえて、サピエンスが秀でた存在だと思い為したいのであるなら、他の生命よりも秀でた能力を十全に発揮させる責務を自覚したい。
それは、一部の能力が秀でているがゆえに、そして、その結果として生態学的ピラミッドの頂点に立つことができたといったような自負ではありません。そのような自負は、能力発揮の妨げにしかならない。

知性や理性といった能力を、もっとも根源的な能力である感性を豊かにするために発揮すること。
単純に言えば、〈生き生き〉と仕事をすることでしょう。

そして、その姿を子どもに伝えること。
どうしてもハラスメントが生じてしまう社会環境をどうにかしようとすること。

絶望している余裕など、ありません。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/997-573d4381

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード