愚慫空論

コーヒーの味

かなり更新が滞ってしまって、文章を書く感覚が鈍ってしまっているようです。
というわけで、ちょっとリハビリ的に文章を書いてみることにします。


ネタ元はライブドアニュースです。

『依存的なもの?ブラックコーヒーを本当に美味しいと思って飲んでいるのか』

なんとも素朴で、しかし奥深い疑問。
真っ黒で苦い液体。
子どもなら苦行としか感じないであろうあの味をなぜ我々は求めるのか。
子どもには「大人になればわかるよ」と言うが、なんでこんな味が好きなのか、大人もはっきりとは分からない。


確かにコーヒーの味の旨さを明確に言語化するのは難しい。
ということは、当ブログの課題としてはピッタリ (^_^)


ぼくはコーヒーに凝っています。
真剣に向き合うようになってから3年くらい。
ぼちぼち、コーヒーの味の本当のところが解りかけてきたかな? と自負しています。


コーヒーそのものを飲み始めたきっかけは、まあ、見栄です。
「コーヒーの味」=「大人の味」という神話があって、それに乗っかったんですね。

高校生くらいになって、喫茶店に入って、コーヒーを注文する。
コーヒーは大人の「記号」です。
記号としてコーヒーを消費していた。

本当はチョコレートパフェを食べたかったんですけど、そこはヤセ我慢。
後輩ができると、ひとりでは食べきれないような特大サイズのパフェを出してくれる店へ行って、それを食べさせたりして、代償行為をしたりしていました(笑)

今は躊躇なく注文できますが、さすがに身体が欲しないです (^_^;)


コーヒーに真剣に向き合うようになってからは3年くらい。
近所にたまたまコーヒー豆だけを扱っている店があって。
物は試しといろいろとマメで買ってきて、手引きのミルで挽いて、フィルタードリップでコーヒーを淹れるなんてことを始めてしまいました。

現在は、多い日だと一日5~6杯行くことがあります。
平均は4杯くらいか。
ちょっと多いかも知れません。


そうこうするうちに、掴めてきたような気になっているコーヒーの旨さ。
それは、味覚の格闘技。


コーヒーを飲むのには体力が必要です。
苦みは本来は毒の味。
コーヒーも、本来的には身体にとって毒なんだと思います。

覚醒作用があるカフェインだって、身体が必要としている栄養素ではない。
カフェインがなくても覚醒度を上げる方法はあるし、カフェインを用いない方法の方がずっと健康的だったりします。
よい睡眠を取るとか、神経を集中させる呼吸法を修得するとか。


コーヒーの旨さは、敢えて言うならば、コーヒーそのものの旨さではないような気がしています。
コーヒーという毒を受け止める身体の(反)作用を味覚が旨さとして感受する。
そうした逆接的なものではないかと考えるようになってきています。

コーヒーによる身体(味覚)への攻撃を見事の受け切るときの快楽。
それは格闘技で組み手をする時の快楽に似ているのではないか。


コーヒーにも、美味しいものとそうでないものとが明確にある。
コーヒーにも産地やブレンドによって個性がそれぞれあって、個性には飲み手の好き好みがあります。
当然、好き好みと美味しさとは別次元の話です。

美味しいコーヒーは、一言で言えば雑味がない。
美味しくないコーヒーは、各々のコーヒーの個性を雑味が殺してしまっている。

雑味はたとえるなら、素人のなまくらな打撃のようなもの。
明確な個性は、名人の際立った打撃のようなもの。

素人の打撃と名人の打撃。
受けて捌くことができるならば、楽しいのは断然後者でしょう。


コーヒーは、茶もそうでしょうが、身体のエネルギー収支でいうならばマイナスに作用するものだと思います。
身体に余計な負担をかける飲み物。
甘さのように収支をプラスにする類いのものではない。
身体に浪費できる余剰エネルギーがあって、受けることができる性質のもの。
余剰エネルギーを覚醒という作用に転化させるもの。
余剰エネルギーの転化を身体(味覚)が感覚して、旨味として脳が知覚する。

成長のためにエネルギーがいくらでも必要な子どもにコーヒーの旨さがわからないのも当然のこと。
ぼくの考え方が当たっていれば、ですが。

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