愚慫空論

〈こころ〉と〈からだ〉



J・S・Bachの平均律クラヴィーア曲集第一巻です。
なんとなく、この文章のBGM(?)としてふさわしいような気がします。


〔ヒト〕は成長して〔人間〕になります。

子どもは自らが暮らす環境をマーケティングし、自らをイノベーションして〔ヒト〕から〔人間〕へと成長していく。



孔子とドラッカー。
両者に共通の目線は、「己を知る」ということです。
環境との相互作用のなかでつねに変化し続けている主題。
動的平衡を保つ自己を感覚する主体。

「マーケティング」とは、そうした動的平衡を理知的に認識しようとする営為のこと。
社会で何が求められ、社会の中で自分たちは何ができのるかを知る行為。
「イノベーション」とは、マーケティングで把握した認識に基づいて自己を社会に適応させていく行為。

孔子とドラッカーにもうひとつ共通するのは、自己認識の「鏡」が〔社会〕だという点です。
社会という鏡を通じて自己を知る。
そうして認識した自己は内面的なものとして捉えられます。
「精神」や「仁」といった言葉で表現されるようになる。

精神や仁や、あるいは魂といった言葉で表現されるなにものか。
それらをひっくるめて〈こころ〉と言いたいと思います。





孔子やドラッカーが自己認識の鏡とした〔社会〕は、すでにして虚構に塗れたものです。
彼らの視線の卓越したところは、虚構に塗れた〔社会〕を鏡にしながら、認識を磨き上げ、虚構によって歪む認識像のなかから〔ヒト〕本来の姿を見出そうとしたところ。

〔社会〕を鏡に自己を見出そうとする方向性は、おそらくは文明社会に共通のものなのでしょう。

文明社会の方法論とは違ったアプローチで自己を見出そうとしたのだと、ぼくが捉えている人物がいます。



私はいつも人間の裡の能力を自覚し発揮することを説いている。何のために説くかといえば、ただそうせずにはいられない裡の要求によって、全生の道を説いているのである。



「マーケティング」も「人間の裡の能力の自覚」も、アプローチは違うけれども、同じもの、あるいは同じことを追究しようとしたのだと思います。
どちらも追究したものは〔ヒト〕です。
虚構に適応することによって〔人間〕となる以前の〔ヒト〕。

〔社会〕を鏡に用いたりせず、〔ヒト〕の身体をまっすぐ観察することによって〔ヒト〕を認識しようとする。
そうして得た認識を指し示す言葉が〈からだ〉です。


〔社会〕という鏡を用いるにしても、身体を直接観察するにしても、共通するところがあります。
その把握は、いずれも動的だということです。

把握した「なにものか」を伝えるにあたっては言葉が用いられます。
けれど、この言葉は虚構です。
単なる記号です。
「なにものか」を指し示すためだめのもの。
言葉に実体はありません。


孔子が説いた「仁」とは何か。
野口師が説いた「全生」とはなにか。

こういった問いは無効です。
意味がない。
「仁」や「全生」の言葉自体にはなんらの実体がないからです。


「仁」とはどういうことか。
「全生」とはどういうことか。

こうした問いなら意味を持ちます。
「仁」や「全生」という言葉が指し示すもの・ことは、何なのかという問いだから。
彼らが指し示そうとしたものは、確かにある。

それは、こうだといって取り出してみせることができるようなものではない。
ただただ、感じられるものでしかない。
感じられるのだと自身に信をおいて、感じようとする意志し続けるさきに立ち現れる感覚。

そうした感覚をもつ主体を、社会を鏡とする文明的なアプローチによっては〈こころ〉と言い、直接身体を観察するアプローチにおいては〈からだ〉という。

〈こころ〉と〈からだ〉は、おなじもの・ことの、異なる名称です。



コメント

これは、かなりみぞみぞしてきます。
サピエンス全史を読んで以来、「価値」とか「課題」とかいう言葉を聞いても、そもそれは「社会」を基準にしてるんじゃないかよぉ、んでもって「社会」なんか「虚構」だろ、という思考ルートで白けているところでした。

>虚構に塗られた社会を鏡にしながら、認識を磨き上げ、虚構によって歪む認識像のなかから〔ヒト〕本来の姿を見出そうとした・・・

これはすごい。これは面白い。楽しそうだ、、、ちゅうか、できるんかいな、分離しそうだ、笑。
でも先達たちはこうして楽しんだんだな。
真似させてもらいます^^

ワタシは虚構であろうとも社会が気になるタイプのようです。まあ、考えていると自ずと「裡なる能力・欲求
」に行き着いてはしまうのですが、、、^^

・毒多さん、みぞみぞってなに? (^_^;)


社会基準の「価値」や「課題」は、愚慫流だと【価値】【課題】になりますね。
大きな〔社会〕は例外なく【社会】であり、〔ヒト〕は適応して【人間】になるよう【教育】される。

その点でいえば、ドラッカーも孔子も、基盤はやはり【社会】なんだと思うんです。
【社会】のなかで〈人間〉であるにはどうしたらいいかという〈課題〉を持ち、〈価値〉を追求したのだと思います。

その〈価値〉が孔子においては「仁」だし、ドラッカーなら「management」になるんだろうと。

孔子がいう君子にせよ、ドラッカーがいう manager にせよ、〈身体的〉に振る舞える〔人間〕のことです。〈身体的〉とは、孔子の言葉で言うと「和」であり「礼」になります。〈身体的〉に振る舞うことが「和」にならない場合には「乱」が良いとまで言う。

「乱」を起こすにはある種の確信が必要で、それはどうしても〈こころ〉にならざるを得ないんだと思います。【身体的】である環境とは非調和になる〈身体的〉な振る舞いを敢えてする覚悟とでもいうか。


その点で言うと、野口師は最初から〔社会〕的なものには関心がないのかもしれません。
なので、〈身体的〉にも【身体的】にもならない。ただ、あるがままに〔身体的〕であれと。
といっても、【社会】は【身体的】であることを強いますから、〔身体的〕であろうとすることそのものが〈身体的〉であらざるをえないのですけれど。

そのあたりについて野口師がどれほど自覚的だったのかは、わかりません。


その点、明確に自覚的だったのは老子だと思います。
だから、【社会】にはならない規模の小国寡民を理想とした――

このあたりは、また改めて取り上げます。


毒多さんがNTを自認しながら社会が気になる理由が、ぼくには気になります。

ぼくのようなETは、そもそもそのようにできている。

もちろんNTとETに明確な境があるわけではないので、毒多さんにもET的資質はあってもおかしくはありませんが、理由は果たしてそれなのか? それとも、【怨】の類いが原因になっているなのか?

「みぞみぞ」は、前期終了の「カルテット」というドラマで満島ひかり演ずるところのすずめちゃんが時々言っていた台詞です。
ちょっと言葉では説明しにくい、オノマトペです。
このドラマに嵌ってしまい、3回ほど観てしまいました。
思えば主役の4人が【社会】からオミットされて、【社会】をしり、受け入れて、やっと〈生きる〉を見出したような観方をしていて嵌ったのかもしれません。

>【社会】のなかで〈人間〉であるにはどうしたらいいかという〈課題〉を持ち、〈価値〉を追求したのだと思います。

これね、「実際にどのようにするか」は別にして、ワタシはすっとおちるのですが、【社会】が解らない(【社会】が前提がデフォ、疑問さえない)人に説明するのは困難なのかなぁ、と最近感じています。「説明する」のは、最近そういう機会を与えられているからですが、説明するところをみると、分かってほしい、共有したいという欲求はあるのでしょうね。

ワタシは自分がNTなのか、ETなのかの診断をしたことはありません。NTのような気がしますが、体験的に身体が非NTを望んでいるかと思うときもあります。まぁ、べつにどちらでもいいとも感じていますよ。^^

遅レスでスミマセン。

>【社会】が解らない人に説明するのは困難なのかなぁ

おやおや、そういうところに足を踏み入れはじめましたか...(^_^;)

>分かってほしい、共有したいという欲求はある

その欲求を追いかけ始めると、【社会】の中で生きていくことが難しくなってしまいます。
そう言うのはぼくがそうだったからですが、もちろん、だからといって保証ができるわけではない。できるわけではないが、まあ、そうなっていくだろうなぁという確信に近いものはあります。そういうふうに、〔こころ〕でも〔からだ〕でもいいですが、変わって行ってしまいます。

そういうなかで気がつき始めたのは、「【社会】が解らない人」というのは記述違いで、本当は「わかりたくない人」なんだということです。理解することを拒絶している。拒絶が身体に出ます。

そうそう、ちょうど毒多さんがnoteで綴られていたJKのようなものですよww 「そういうところ」は、コミュニケーションが上手な人は表面上は理解しようとしますけれど、身体は迂回している。そういう人をみると、「ああ、つながってないなぁ」と思います(^_^;)

ここでいう「つながり」は、その人の〔こころ〕と〔からだ〕です。

身体の反応は拒絶しているのに、〔こころ〕が表出される表情のほうは受信の反応を示していたりするんです。けれど、つながっていないので表情がぎごちない。

こういった反応は【社会】全般のときだけではないんですね。
もっとスケールが小さくなって【会社】であっても、同様の反応が起こります。
【会社】が行き詰まっている、これも【会社】全般でなくていい、ひとつの【業務】でもいいんですが、行き詰まっている原因は明かなのに、一生懸命、その原因を見つけないようにするです。見ていて滑稽なくらい一生懸命です。その原因が、責任者のアイデンティティに関わることだと、そうなります。

イノベーションとは、本当に「自分が変わること」なんですよ。だけど、変わることができない。原因はやっぱり【不安】なんだと思います。

【人間】は【不安】を紛らわせるために【立場】を求める。その【立場】が危うくなると【不安】が先に立って見えなくなるんです。

同じことを【立場】の違う人に説明してやると、すっと理解してくれます。拍子抜けするくらい容易に、です。無責任だとよく見えるんですよ。この落差が実に面白い。

これらはみな〔虚構〕の作用だと思います。〔虚構〕は体系なんです。体系だから見るポジションによって見える風景が違う。「見える/見えない」は「理解する/しない」ですが、ここは身体的に「見える/見えない」と表現した方が正解だといつも思います。

論理的に理解させることは不可能ではありません。けれど、いくら論理的に追い詰めても、見ようとしない者は決して見ません。

虚構の体系は自然の体系と同じく、言語で説明可能です。ところが、一致しないんです。つねにズレている。

おっと、時間切れだ...(^_^;)

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