愚慫空論

〈からだ〉とは どういうことか



〈からだ〉とは何か――ではありません。
〈からだ〉とは どういうことか――です。

「身体(からだ)が何か」のかという問いに対する答えは明確です。
身体は物質的存在だからです。

では〈からだ〉は、物質的存在ではないのか?
そうだとも、違うとも言えます。
微妙です。

物質的存在ではないと言い切るなら、これまた問いは「〈からだ〉とは何か?」でよい。
物質的存在でありながら、端的に答えることが難しいもの。
〈からだ〉というのは、現象です。
観察可能な現象。

観察が可能ならば記述は可能。
だけど、その記述はどこまでいっても精確なものにはなりえない。
記述はあくまで虚構です。




孟子です。

人皆有不忍人之心
先王有不忍人之心 斯有不忍人之政矣
以不忍人之心 行不忍人之政 治天下可運之掌上
所以謂人皆有不忍人之心者 今人乍見孺子将入於井 皆有怵惕惻隠之心
非所以内交於孺子之父母也
非所以要誉於郷党朋友也
非悪其声而然也
由是観之 無惻隠之心 非人也
無羞悪之心 非人也
無辞譲之心 非人也
無是非之心 非人也
惻隠之心 仁之端也
羞悪之心 義之端也
辞譲之心 礼之端也
是非之心 智之端也
人之有是四端也 猶其有四体也



サピエンスにはみな、「不忍人之心(人に忍びざるの心)」がある。
この「不忍人之心」が発露する心身が〈からだ〉です。

たとえば今、子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たなら、ハッとして、惻惻とした隠痛を心に覚える。
子どもの父母と関係を取り結びたいわけでも、
仲間に褒められたいからでも、
見捨てると評判か落ちると考えるからでもない。

ごくごく自然に、井戸に落ちそうな子どもを抱き留めようと動き始める身体。



孟子の言う「不忍人之心」「惻隠之心」は有名な例です。
だけど、ぼくは少し不満です。
「心」ではない。
ここは、やっぱり〈からだ〉だと思います。
少なくとも「心身」です。

「心」としてしまうと観察不可能なものにカテゴライズがされてしまう。
が、そうではない。
「不忍人之心」「惻隠之心」も、観察可能なものです。


 無惻隠之心 非人也
 無羞悪之心 非人也
 無辞譲之心 非人也
 無是非之心 非人也

この四文も有名ですが、ぼくは違うと思う。
これは観察可能な「身体」が抜け落ちてしまったことによって派生した、【アタマ】の作用だと思う。虚構の産物です。


「惻隠之心無き者は人に非ず」

いえ、「惻隠之心」があってもなくても、人は人です。
「心なき人」など存在しません。
虚構です。

「心」という観察不可能なところへカテゴライズされた虚構を出発点にしてしまうから、「心なき人」などいう現実には存在しない記述が出来上がってしまう。
そうなると、「羞悪」も「辞譲」も「是非」も、全部虚構でしかなくなってしまいます。


井戸の落ちる子どもの例も、【アタマ】が生み出したもののように思えます。
「正義」が、ここにはすでに紛れ込んでいる。



「正義」は虚構です。
虚構の極点のような言葉。
観察可能な現象を、正誤あるいは善悪に腑分けしていってしまう拠点。
拠点でありながら、しかし、中身は空疎です。


今、ここに子どもがいます。
子どもにはなにか欲しいモノがあって、年長の者におねだりをしています。

年長者は子どもに、食べ物なのか、おもちゃなのか、なんでもいいのですが、子どもの欲しいモノを手渡す。
子どもは、大人の差し伸べた手に呼応して自らも手を伸ばし、視線はじっとそのモノを見つめている。
モノをしっかり受け取った子どもは、モノの感触をしっかり確認できたら、今度は手渡してくた年長者に視線を向けて、視線が合ったらニッコリと満面の笑みを湛える。子どもの笑みを受けて、年長者も笑みを返し、思わず子どもの頭を撫でる――

こういった一連の心身の作動が滞りなく為される。
これが、〈からだ〉です。

子どもが欲しがるのを感知したけれども、大人の事情があるからといって、「チョット待ってね」なんて優しく声を掛けて、子どもを待たせてはいけない。そうなると、もう、〈からだ〉は損なわれてしまいます。自然な現象が妨げられてしまう。




「優しさ」のことを指して、【教育】というのだとぼくは思っています。
他者が発する振る舞いを観察し、その観察結果に基づいて自身を変革していこうとする能力、
すなわち環境に適応する能力、
ドラッカーの言葉で言うならば、マーケティングとイノベーション。

その者が自然にマーケティングとイノベーションを行うのを待つことができずに、先んじて身につけさせようとすることが【教育】。

その心は、たとえば親が子を思う「優しさ」。
でも、本当は、大人の事情を優先しただけ。



ぼくがこれまでで見た中での最高の【教育】は、例の離島の学校で見たものです。

それは卒業式でした。
卒業生が主役だなんて大義名分にすぎない、【大人】が主役の儀式。
威厳を保ちたい【大人】たちが、面白くもない式辞を延々と述べるのがメインイベントの、くだらない行事。
子どもたちは、すでに【教育】が行き届いていて、
それは甘受すべるだけの価値のあるものだと刷り込まれてしまっていました。

しかし、まだ刷り込みが不十分な者ものいた。
保護者席に座っていたぼくの目の前には、まだ小学校一年生の子もいて、その子はさすがに退屈さに耐えられなくなって、そわそわゴゾゴゾ、身体を動かし始めました。

その小学一年生を宥めたのは、隣に座っていた小学三年生でした。
言葉はかけません。
言葉を発することは禁じられていて、それはさすがに一年生も守っていた。
一年生がモゾモゾ始めるたび、三年生が手を伸ばして一年生の背中をさすってあげていました。
そうすると、一年生はおとなしくなる。
けれど、またしばらくすると、モゾモゾ。
また三年生が背中をさする。
そうした光景が、ぼくの目の前で数回繰り返されました。

一年生と三年生が繰り広げた身体の動きと反応。
これこそがぼくが見た最高の【教育】です。

三年生は優しかった。
優しく一年生に【我慢】を伝えていた。
三年生とて、退屈な儀式の意味を把握していたわけではないでしょう。
ただただ、大人の作り上げた環境に同調していただけのことです。
その同調を仕方を、優しさを持って年少者の身体に伝えていました。


生まれながら社会的な生き物であるサピエンスには孟子の言う「不忍人之心」「惻隠之心」、あるいは、欲しいものを手にした子どもの笑顔といった素直な〈からだ〉を持ち合わせます。
が、同時に、心と身体とが乖離したときには【優しさ】で埋め合わせるという技も効いてしまいます。

もっとも、それはエイティピカルにはなかなか効かなかったりするのですが。
そして、そうした場合には 「無羞悪之心 非人也」というレッテルが貼られることになる。




思い出されることが、もうひとつ。

それは、吉野の森の中でのことでした。
ぼくが参加というより、むしろ主催者側だったのですが、あるイベントの中に身障者の子どもがいた。
小児麻痺の子どもとその親。
普段、なかなか自然に触れさせることができないからといって、親子で参加してきたでした。

事情はよく理解できます。
そのような子どもに参加してもらうことは、イベントとしても意義のあることでした。

けれど、ぼくは心と身体とが乖離していました。
アタマは意義を理解します。
しかし、身体には届いていていない。
ぼくはその子の進退の動作を奇妙なものだと感じ、距離感を感じてしまっていました。

それでもイベントの終わりには距離感は縮まっていました。
その子が喜んでいることが、ぼくにもよく伝わってきたから。
最初は水を怖がっていて、川を渡るのは負ぶってやらなければならなかったのに、
森から帰るときには、冷たい川の中に水から身を浸してはしゃいでいました。

そのはしゃぎかたは、やはり奇異なものではありました。
障害といわれる身体ではない者のそれとは、違った手足の動き、顔の表情。
でも、それは、どう見ても悦んでいるとしか見ることがでない。
同じではないのに、同じように悦んでいると感じることできる身体。

これもまた〈からだ〉なんだと思います。
〈からだ〉が新しい感覚を獲得すること。
この現象を指して 〈学習〉というのだと思います。



 學而時習之 不亦説乎
 有朋自遠方來 不亦樂乎
 人不知而不慍 不亦君子乎



身障者の子どもの参加には意義があるということを、アタマが知る。
これが「学」です。
その「学」に導かれて、身体が新たな感覚を獲得する。
これが「習」。

そうして〈学習〉が達成されると、遠方から友が訪ねてきてくれたような楽しさがある。
とはいうものの、「学」と「習」の間には距離がある。
意義があるとアタマでは理解しても、身体が否定してしまう。

心と身体の乖離。そこから生まれる「慍」。


〈からだ〉とは、心身が一致している状態を指します。
これを従来は「心のままに素直に身体が作動する」というふうに言語化していましたが、そうではない。
順序が逆です。

 身体な動きを心が阻害することなく表出される

これを〈からだ〉と表記します。



コメント

多くの(ニューロティピカルの)【大人】は【教育】されたことに気づかない。
【教育】によってなりたつ【社会】が前提。
もし気づいたとしても【社会】から離脱することえを恐れる。
もちろん完璧に離脱することなど在りえない。
でも気づいてからがはじまり。
二段階、三段階で気づきが生まれる。
【社会】を変えようとするのか、【社会】と距離をとるのか、【社会】をゲームと見るのか、
それでも【社会】のなかに楽しみを見出そうとするのか・・・etc
はじまろうが生まれようが虚構に変わりはないのだが、虚構としったうえで楽しみをみる。
いまは、そんな心身です。
もともと【社会】を前提にしていないエイティピカルにとっちゃっあ、滑稽かもしれないが、
ニューロティピカルにはなかなか困難なハードルなんですよ、笑

それはそうと、
写真が文章に妙に染み入ってるねぇ、、、こうしてあらためて写真を見つめると、なるほどねぇ、、という感じ。
写真にあらたな表情を見出したって感じで〈楽しい〉。
なんともいい写真だ、、、、もちろん言葉もね^^
いろいろ、どうもありがとう。

毒多さん

ブログの内容と拝借した写真がマッチングするのか、ちょっと不安でしたがお気に召して頂いたようで何よりです。

ぼくには、こういった話をはやっぱり緑の中で語りたいという欲求があるんですね...


こんな記事があります。

『自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

これはぼくにはとても腑に落ちるものです。

「社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす」

ぼくはまさにそういう存在です。
ずっと、そのことを追究してきたと思っています。
その追究こそが〈生きる〉ということです。
なので、〈生きて〉いる限り絶望はない。

とはいうものの、NT(ニューロティピカル)からの迫害はやはりある。
それも彼らなりの「優しさ」をもって。
今でこそ迫害に対抗できるだけのものを獲得したと自負していますが、それまではなかなか大変でした。絶望的だったと評していいくらい。

ですから、

>もともと【社会】を前提にしていないエイティピカルにとっちゃっあ、滑稽かもしれない

というようなことはありません。滑稽だったとしたら、絶望的になることなどないわけで。


【教育】の起源は、サピエンスが一部植物に隷属したときです。
もともとサピエンスが持っている自然とは反した生き方をしなければならなくなった。
そうした生き方を選択したことで、サピエンスはデフォルトよりもずっと巨大な社会を運営できるようになった。

虚構はNTたちの成果なんでしょう、きっと。

そうだとすればNTが虚構を手放せるはずがない。
その虚構が人類を絶滅に追いやっているのを理解してもなお、彼らは虚構を手放すことができない。
それが彼らの生まれつきの能力であり呪縛なんだと思います。

だとすれば、NTが絶望を抱くに至るというのも、よく理解できるような気がします。

人類を絶滅に追いやるような虚構、、ってのは、大きく相対的にとらえますね。今のワタシはかなり近視眼で自分のことしか考えてなく、気づいてしまったNTの拠り所みたいなことを考えてしまうので、

>もともと【社会】を前提にしていないエイティピカルにとっちゃっあ、滑稽かもしれない

みたいなことも言っちゃうのかもしません。^^;。構造的には差別者の科白だね、すまぬ。(意図は羨ましがって言っていたつもり)

ETにしてみればNTが迫害している、ってのはその通りなのでしょう。
でも、他者に迫害されるのは、よくはないけど、、まだまし、、ぜんぜんましでもないけど、、こうしてマジョリティは失言がとまらなくなる、orz
NTが自らの裡にあるもって生まれた呪縛に自ら迫害されるのはジレンマで喜劇です。自分だからなんとかするのも自分なのだけど、因縁/因果がダーク。

>「社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす」
>この追究が「生きる」こと

いい感じですね。NTであってもこれは可能かな。気づきさえあれば。
いまいい感じで落ち着いていっている自分を感じます。サンキュ。

「優しさ」が「迫害」という意味がわかり始めると、障害者施設(作業所やホーム)のNTが考えだした理念や目的を深く考えずにはいられないくなるな。以前から違和感があったのだけど、結構、違和感の原因に迫るものかもしれない。

>ETにしてみればNTが迫害している

そうなんですね。
あくまでETにとってはという話であって、NTはそんなつもりはこれっぽっちもない。
ただ、NTはNTとして誠実に生きているだけのことなんだと思います、きっと。
NTとETにはどうしても生き方の違いがあって、
そしてそれは「天の配剤」とでもいうべきもので、
受け入れるしかないことなんだと思うんです。

そして同じ構造が【システム】と【人間】の間にあると思う。
〔システム〕が【システム】なのは、あくまで【人間】にとってというだけの話なんです。
〔システム〕は〔システム〕のアルゴリズムに従って作動している。ただそれだけのことなんです。

ちょっと考えて見てください。
経済学という学問があります。
経済というのはサピエンスが作るものなのに、あたかも経済によって人間が作られていくかのように捉えることで学問が成立しています。
主客が逆転しているんですね。

この主客転倒がNTの特徴だと思う。


ここで思い出すのは『ジョナサン』です。

ジョナサンはどうみてもETでしょう。
生息場所は社会の周辺部です。
社会の中で生きようとするけれども、長老に迫害されて周辺に追いやられる。
そこで独自の発展を遂げ、自身の世界を確立します。

ジョナサン的世界の確立後、どうなるかというと、ジョナサンは教祖になります。
教祖にされてしまう。
主客を転倒させてしまうNTに。
そしてNTたちが長老となって、またETを迫害する。

この構造は、サピエンスが「大きな社会」を作ることによって派生した構造です。
NTとETの役割分担は「天の配剤」ですが、それはもともと「小さな社会」でうまく作動するようにできていたものであって、「大きな社会」では誤作動してしまう。
誤作動なんだけれども、それぞれの役割を果たしているだけだから、気がつかない。

特にNTは気が尽きづらいみたいです。
気がついてしまうと、自らの役割を果たせなくなるから。
その点、ETはもとから「誤作動」するのが役割のようなところがあるから、気がつきやすいのかも知れません。

NTのなかで気がつく人が出てくるのは、自身の作動がうまく行かなくなったときでしょう。
毒多さんは、まさにそれなのかもしれませんね。

だとすると、悩ましいでしょうね...

おはようございます。
主客転倒の「共謀罪」が【NT】によって強行採決されましたがw、わりに爽やかな朝です。
「共謀罪」が主客転倒なら、「共謀罪反対」に「生きる」をかけるのも主客転倒。
まあ、【NT】によるさらなる迫害が制度化されるということでは面倒ですが。
周辺世界も【統一】したいのが【NT】というのはNT史の事実。
周辺世界に〈感化〉されるNTもいますが、、、ダンだったっけ?

うんジョナサンはETだね、、、イエスとかブッタとかもそうかな?よく知らないけど^^;
主客の逆転ということを聞くと「観念の暴走」って言葉が浮かんできました。
NTが都合よく解釈して、都合よく、というか天性の能力発揮して暴走したプロセスとしての世界。
まあ終わりも遅かれ早かれかな。
巻き込まれるETの皆さん、ごめんなさ〜い。ってね。
と、ここまでの話しをしてしまえば、NTだって巻き込まれたと感じる人も多数います。
自業自得とはいいにくい。

逆に、周辺部ではなく、NTの中心部で能力を開花するETもいるような気がする。
NTに利用されてしまうETというほうがいいのかもしれないが。

ETとNTの比率が逆転していたら、とか、ETしかいない世界、、、、とか想像しますが(逝きし世、ピダハンあたりが近いのかな?)、
こういうのはタラレバで、実際は両者がグラデーションをもって存在する。
でしか、考える意味がないのでしょう。

と、ワタシには、こういうことを書くのが「いま」は、心身と繋がっている気がしています。
悩ましいのはNTとしての実生活だけで、思索としては、以前、ほんの数ヶ月前までとはまったく違う世界にいるように感じ楽しくて仕方ありません。
これはとてもいいことです。と、自分のことしか考えていません。
でも自分のこととして考えられる、、、これはNTには凄いことなんですよ^^

ダンさんはETでしょ。
奥さんの方はNTだと思うけど。

同じ境遇で暮らしても〈生き方〉に差が出てしまうんですよね~
我が家もそうですが。(^_^;)

エイティピカル(ET)とは、ASDやADHDをひとまとめにしたような概念だと思っているのですが(今のところは)、ASDやADHDが虚構であるように、やはりETも虚構です。

ADHDやASDの傾向が強く、NTの社会に上手く適応できない人を指して「発達障害」などというNTに都合の良い名称を付けたりするので誤解が広まるのですが、ETはエラーではなくて個性。

現在では性差(セックス)ですらかなり曖昧なものになってきていて、特の性的嗜好は多様なものが認められつつありますよね。LGBTとはよく言われるようになってきています。

ET/NTも同じで、「傾向」の問題だと思うんです。
確かにぼくはETの傾向が強い。けれど、NTの要素がまるでないというわけでもない。

NTとしての実生活(労働の再生産といったような意味)の悩ましさは、ぼくにだってあるにはありましたし、今だってまったくないわけではありません。安定した社会生活とでも言えばいいんでしょうか、そうした〔立場〕を希求するところはそれなりにあります。

けれど一方で、そうした立場を「つまらないもの」と感じる面も強くて、結局は自身にとって「大切なもの」へと惹かれていってしまう。そのことが、〔立場〕を「大切なもの」と感じるNT傾向の人に取ってみれば「自分だけ」に感じられるのでしょうね。

だから迫害を受ける。


>思索としては、以前、ほんの数ヶ月前までとはまったく違う世界にいるように感じ楽しくて

毒多さんのなかのETとしての(遺伝的?)形質が発現したのかもしれませんね。

あくまで推測ですが、サピエンスには、個体各々で割合は違えども、それぞれNT的形質・ET的形質は持っていて、環境条件によって発現するのではないかと。

ぼくなどはET傾向が強いので緩い条件で発現するけれども、毒多さんの場合は、ぼくよりは条件的には厳しいものが必要――と、そんなところではないかと。

面白いなぁ〜感嘆

ダンはETかぁ〜? NT(転向NT)wのような気が、、、って「ワタシのこと」ではないので、どちらでもいいのですが、笑。

>ET、NTは「虚構」
これいちいち「虚構」と断らなければならないのでしょうか?
人間の観念の産物は「虚構」とするなら、観念からの由来は全てが虚構と言えるのではないでしょうか?
そこらあたりワタシが勘違いしてるのかなぁ?
先天的、生物的なものは虚構でないとはできませんか?
ETは虚構ではない。ETだから迫害してもよし、が虚構、ではないんですか?

区分けが虚構ということをいえば「個性」だって虚構・・・
>「個性」
についても考えてしまいます。
元少年Aは「個性」か? 先天的なものとしての「個性」のような気もするし、、、
DVの加害者は「個性」か? 理由は単一ではないだろうが、たとえば捏造された虚構、この場合は男尊女卑という風習やら主人は偉いという慣習、外貨を稼いでくるものが偉いという思い込み、に乗っかって攻撃的になっているだけでNTが虚構と同化しているだけで「個性」とはいえない、とするのか、、、

ひとつの捉え方にはなるか。

と、個別「言葉」にひっぱられて脇道にそれると、碌なことにはならないのに懲りない人間だな、ワタシは、、という個性、爆!!

ET、NTのように対比する観念の間のグラデーションの上にいるというのは、賛成です。実はワタシも多数NTからはさんざん「変わり者」と言われているわけで、、まあ、それはまた、まったく別の要因にひっぱられているのかもしれませんがね^^

いずれにしろ、今のワタシにはETが「生きる」ヒントになっています^^
ETが道標の役割を担っている、という考えに賛同。
そして思索が道楽ではなくなってきている。

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