愚慫空論

Rachmaninov: Piano Concerto No 2~BC Proms 2013 - Nobuyuki Tsujii

盲目のピアニスト、辻井伸行さんの演奏です。
曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。







音楽は楽しめばいいんですが、辻井さんの演奏の様子を目にすると、「目にすること」ができる者は、どうしても次のような感想を抱いてしまいます。

 目が見えないのに凄い!

辻井さんの音楽は、しかし、よくよく聴いてみると実は凄くない。
というのも、彼には「凄い」という感覚が欠如いるらしいから。


ラフマニノフという人は作曲家である以前にピアニストでした。
ピアニストとして世に出た人。それも凄いピアニストとして。

そんな彼が作曲したピアノ協奏曲第2番は、当然のごとく、ピアノの凄さが随所にちりばめられています。
ピアノという巨大な楽器は、見ただけでも威圧的な存在で、たった一台で数十人が束になっているオーケストラに匹敵してしまうほどの性能を持ち合わせた存在ですが、そのことのは動画の音楽からも十分聞き取れること。

ピアノの凄さを十全に発揮するには、凄い腕前が必要です。
その腕前を持ち合わせている人を、ピアニストと言います。
辻井さんは盲目のピアニストですから、凄い腕前はある。
なのに、凄くない。
凄さを感じさせない。

凄さという感覚は、どうしても威圧的なものを伴ってしまいます。

ピアノという楽器の存在を十二分に発揮させるよう作り上げられている「ラフマニノフの2番」は、ピアニストがその凄さを発揮すると、ふつうに威圧的なところが出てくる。
その威圧感が深い叙情性と絡み合って和らぎ、作品の愉悦になっている。

ところが辻井さんの演奏には威圧感がまるで感じられないんです。
だから、凄いんだけど、ちっとも「凄さ」を感じさせない。


してみると、考えなければなりません。
凄さという感覚はどこから来るのか?
それは視覚的なものではないのか? と。

だとするなら、視覚に欠ける辻井さんには凄いという感覚が欠けているという推論が成り立ちます。
そして、そのような感覚がなくても、音楽は十分に成立することがわかる。
それどころか、視覚はなくても音楽は十二分に可能だということがわかる。


威圧的な凄さがない音楽は、どのような効果をもたらすのか。
その効果がよく「見える」シーンがあります。
その効果は、共に音楽を作り上げているオーケストラの人たちの表情によく出ている。

第3楽章、3枚目の動画です。
8分57秒あたりの、チェリストの女性が互いに視線を合わせて笑顔をかわすシーン。
あるいは、9分35秒あたりから見られるファーストヴァイオンリンの女性の表情。
辻井さんがピアノの上を跳び回っている後ろ姿を見守っている様子が、辻井さんの右肩の向こうに映り込んでいます。ちょっと気難しそうな印象もある女性ですが、彼女が見守りを終えて自分のパートに入り込んで行く時に見せる笑顔がとてもいい。
はしゃぐ子どもを見守る母親のよう。

この笑みが、辻井さんのこの音楽を象徴しているように、ぼくには思えます。


演奏が終わって(11分08秒)、歓声と拍手がなって辻井さんが頭を下げる。
なんども繰り返してきたはずの動作ですが、それでも甚だ、ぎこちない。
このぎこちなさは、目が見えないからでしょう。
動作の対象が感覚的に把握できていないから、どうしても間が抜けたような感じになってしまう。

その一方で、ピアノを演奏している時の動作の闊達なこと。
頭の動かし方なんかは神経質に感じられますが、他者からのまなざしへの感覚が欠如しているでしょうから、無意識レベルでの抑制すらない、本当に素の動きなんでしょう。
目が見える健常者には、やろうと思ってもなかなかできない動きです。


辻井さんの音楽の威圧感のなさ。
辻井さんの動作の抑制のなさ。
このふたつは、きっとリンクしているんだと思います。



この動画を紹介しようと思ったのには、きっかけがあります。

なぜなら人間は現実世界では結局、効果を求めるからである。
病人たちは癒されることを、足なえは歩けることを、盲人は眼のひらくことを――現実的な効果を求めるからである。
だが愛は現実世界での効果とは直接には関係のない行為なのだ。
そこにイエスの苦しみが生れた。
「汝等は徴と奇蹟を見ざれば信ぜず」と彼は哀しげにその時呟かれたのである。



一つ前の記事へのコメントで、アキラさんが紹介してくれた小説の一節。
遠藤周作さんの『イエスの生涯』からのものらしいです。


現実世界において、人間は効果を求めます。それは間違いのないことです。
求めるのは間違いないが、問題は求め方です。

ここに無意識の抑圧が入っていないか?
盲目の人は目が見えるようになりたいに違いないと、思い込んではいないか?


辻井さんは目が見えるようになることを望んでいるのか?
この動画を見る限り、ぼくはそうは感じません。
彼は、目が見えなくても、十分に〈生きて〉いると感じるから。
確かに彼のお辞儀は間が抜けているけれど、彼の音楽にいささかも水を差すものではありません。


辻井さんの音楽は、奇跡なのか?
そう呼ぶのは文学的にはふさわしいでしょうが、科学的にはナンセンスです。

してみると、問い直してみなければならない。
本当に、愛と現実世界の効果は無関係なのか? と。
私たちがそう思い込んで、神の摂理から外れたところに希望を見出そうとしていただけではないのか? と。
私たちは聾唖者ではないのか? と。


神の摂理から外れたところで、希望を強要された人。
その的外れな希望から脱出することがかなって、的外れを告発をした人。




こんな書もあります。



口からウンチが出るように手術をして欲しい――

健常者には正気をが疑われるような願いです。
でも、それは、その人にとっては切実な願い。

エキセントリックに表現されないと届かない思い。
エキセントリックに表現されても、なお、届かない思い。

その思いを阻んでいるものは何か?
思いを思うことすら、阻んでいるものは何か?

それを指して、ぼくは「ニューロティピカル」という言葉を当てはめることにしています。


コメント

「それは、その人にとっては切実な願い」

これがポイントでしょうね。
「それに応じれば“愛”なのか?」というような話なんじゃないかなーと思ってます。

・アキラさん

「切実な願い」にも時代性、地域性があると思うんです。

病人たちは癒されることが、足なえは歩けることが、盲人は眼のひらくことが、それぞれ切実な願いだったのは、イエスの時代には、本当にそれしかなかったんだろうと思います。そうでなければ生き残ることが出来なかったから。

が、現代は必ずしもそうではない。
そうでなくても、生き残ることができるようになったから。
多様化したことで応じることが出来る可能性が拡がった。

その意味では「切実な願い」も多様化したと言える。

多様化を促したのは具体的には技術ですが、その背景には“愛”はあったのか?
あるとぼくは思います。

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