愚慫空論

『サピエンス全史』その16~歴史における絶望

『その15』はこちら (^o^)っ リンク

 



第13章「歴史と必然の謎めいた選択」は 分量的には小さなチャプターです
歴史的なことについての記述はあまりありません

もともと『サピエンス全史』自体が いわゆる歴史書ではありません
歴史的なエピソードは豊富ですが
本書はエピソードを語ることが目的ではない

エピソードを連ねて「物語」を語ることが目的でもなければ
一定の対象を正当化することが目的でもない
豊富なエピソードを援用して著者の歴史哲学を語ることが本書の目的


当初 ぼくはこのチャプターについてはスルーするつもりでいました
歴史哲学の基礎となる著者の歴史観がもっとも強く反映されているところだから
その歴史観は ぼくのそれとは相容れないから

だけど 気が変わりました
『Homo:Deus』という続編があると知ったから







交易と帝国と普遍的宗教のおかげで、すべての大陸の事実上すべてのサピエンスは最終的に、今日私たちが暮らすグローバルな世界に到達した。ただし、この拡張と統一の過程は一本道ではなかったし、中断がなかったわけでもない。とはいえ全体像を眺めると、多数の小さな文化から少数の大きな文化へ、ついには単一のグローバルな社会へというこの変遷はおそらく、人類史のダイナミクスの必然的結果だったのだろう。

だが、グローバルな社会の出現は必然的だというのは、今私たちが手にしたような特定の種類のグローバルな社会ではなくてはならなかったということではない。他の結果も確かに想像できる。今日、なぜデンマーク語ではなく英語がこれほど行き渡っているのか? なぜキリスト教とは20億、イスラム教徒は12億2500万もいるのに、ゾロアスター教徒はわずか15万しかおらず、マニ教徒はまったくいないのか? もし一万年前に戻って何度も一からやり直したら、毎回必ず一神教が台頭し、二元論が衰退するのを目にすることになるのだろうか?



自然科学について ことに複雑系についての若干の知識がある者ならば
この記述には違和感は持つことはないでしょう

ぼくたちが存在するこの世界は 自己組織化の法則が働く世界です
空間はそもそもエネルギーを内包し
たまたま4種類の力となって現れた

空間の現れたエネルギーはカオスをもたらしますが
そのカオスは自ら秩序を生成する性質を持っています

その組織化のタイミングはデタラメです
いえ デタラメではないのかもしれないけれど 
少なくともサピエンスの能力では把握できない

超越神といったものを想像した人たちは
その能力の限界をよく識っていたのだと思います
だからこそ その限界を超えた存在を想像した

第13章につづく「第4部 科学革命」が明らかにするのは
そうした「無知の知」が変貌していく歴史的経過――


ゲーム理論だろうが、ポストモダニズムだろうが、ミーム学だろうが、何と呼ぼうと、歴史のダイナミクスは人類の境遇を向上させることに向けられていはない。歴史の中で輝かしい成功を収めた文化がどれもホモ・サピエンスにとって最善のものだったと考える根拠はない。進化と同じで、歴史は個々の生き物の幸福には無頓着だ。そして個々の人間の方もたいてい、あまりに無知で弱いため、歴史の流れに影響を与えて自分に有利になるようにすることはできない。



ぼくはこの言に反発を感じます
記述の内容のほぼすべてに賛同しつつも それら記述の総合がもたらす結論には賛同できない

そもそも歴史とが 人類の境遇を向上させるものではありません
歴史上の輝かしい成功とやらも
それを享受したと感じる者にはアイデンティティ確立による自己愛を
それを享受し損ねたと感じる者にはアイデンティティ否定によるルサンチマンを
それぞれもらしました

それらはいずれのせよ、〔人間〕が築き上げてきた虚構上の作用であって
自愛を隠蔽しこそすれ 幸福(=自愛)に無頓着だったというのは否定し難いところ

ですが だからといって 
歴史が最善の方向へ向いて歩んでいないという証拠はありません
証拠がないことは 
 最善に向かって歩いていると捉えても
 最善に向かって歩いていないと捉えても
まったく同じことです

つまり ここに残るのはその人がどのように「想い為す」か
別の言い方をすれば「信」を持つか ということです

この「信」において ぼくはハラリさんとは真逆の位置に立つと自覚します
確かに人類が築き上げてきた虚構による〔システム〕は
 人類自身の幸福にも
 人類が生態系の頂点に立つことによって影響を受けた他の生物たちの境遇にも
そのいずれにも無頓着です

ハラリさんは その無頓着を著作に記しておられるわけだから
無頓着そのものには無頓着なわけではない
ですが 受容していると感じます
ある種の絶望を伴って

その絶望が『サピエンス全史』最終章の記述につながっていると思うし
おそらくは『Homo:Deus』にもつながっている

ぼくはその無頓着を受容するつもりはまったくありません
所詮 虚構は虚構であり 〔ヒト〕が作りだしたものです
だったらなんとかできないはずはない――


『その17』へと続きます

コメント

ポジティブでいいですね。
アイロニーでもなんでもありません。
素で純にそう感じています^^

前のエントリーでいうところの「現実的な効果」もまた虚構であると気づいたうえでの何かの途上にいるので、ワタシ自身を虚構をポジティブに捉えることができていない状態と判断しています。

いまがワタシにとってのターニングポイントなのかもしれません。
おそらく「虚構」の「捉え方」の問題だと思っています。

思索とはなんだろう?
現実の存在としてどう在るのがいいのだろうかを思索し、実践するための思索なのか?
思索することじたいが、存在の意味なのだろうか?

と、こういう曖昧なコメントしかできない状況なので、実際にコメントを投稿することをためらっている、最近です。

・毒多さん

『note』の方の絵と言葉、拝見しています。

自然と人工を行き来している間に、対象へ毒多さんが入り込んでいく「深度」が大きくなってきているように感じます...(^o^)


>「現実的な効果」もまた虚構である

そのあたりは、科学革命でさらに突っ込んでみたいと思っているところですが...


虚構を創造しそれを現実的な効果へと変換させる能力は、サピエンスだけが持ち得た特殊能力です。それは認知革命を経て獲得したものですが、この能力そのものは自然なものだと思うんです。

そこをネガティブに捉えている毒多さんがいる。
おそらくハラリさんも、その傾向をお持ちなんでしょう。

逆にポジティブに捉えている者もいる。
ポジティブどころか、脅迫的にポジティブだと思い込んでいる者が大勢いる。
経済成長が人類存続には不可欠だと思い込んでいるような人たちです。

考えてほしいと思うのは、毒多さんのネガティブは、果たしてサピエンスの能力に対してのものなのか? それとも脅迫的ポジティブに対する反発から生じているものなのか? という点です。

ハラリさんは、能力そのものにネガティブなように感じます。
その点、ぼくは能力そのものにはポジティブなんです。
だから、繰り返しますが「性善」の立場に立つことになる。


『note』の毒多さんから感じられるのは、潜在的なポジティブなんだろうとぼくは思っています。

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