愚慫空論

『サピエンス全史』その15~人間崇拝という宗教

『その14』はこちら (^o^)っ リンク

前回に引き続き 宗教を語った第12章が題材です

第12章は 次のようにセクションが立てられています

 神々の台頭と人類の地位
 偶像崇拝の恩恵
 神はひとつ
 善と悪の戦い
 自然の法則
 人間の崇拝



これらのセクションは 人類の歴史に沿うように順序立てられています
ハラリさんの見立てでは 宗教もまた人類統一の要因ということですから
各地域で発生したそれぞれの宗教が 統合されていくという流れになっている

それは ローカルな宗教がグローバルな宗教になるという流れのことだけではなくて
多神教が一神教になっていき やがて人間崇拝へと変化していくという
内容的な変化も表している

ただし留意しておくべきは

 多神教 ⇒ 一神教 ⇒ 人間崇拝

という流れが「進化」というふうには描かれていないことです
「変化」であって 「深化」しているわけではないといった記述になっています

じつのところ、一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教とは一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、様々な起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。




これらのセクションの中も 特異なのは「自然の法則」です

「自然の法則」という言葉から一般に想像されるのは科学でしょうが
主題になっているのは 仏教です

なぜ仏教なのかというと

仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。


からです
人間が持つ能力によって 宗教的課題に挑む宗教体系が仏教ということ

(前略) 彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することであるその法則だ。
 「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な法則と見なしている。「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は現代物理学ではEがmc2と等しいのとまったく同じで、つねにどこでも正しい。仏教徒とは、この法則を信じ、それらを自らの全活動の支えとしている人々だ。一方、神への信仰は、彼らにとってはそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。




ちなみに ぼくに言わせれば 仏教の第一原理は第二に格下げになります

 第一原理 : いのちは自愛に生きている 自愛に生きることは悦びである 
 第二原理 : 苦しみは自己愛から生じる 自己愛はハラスメントから生じる
 第三原理 : 人生の課題は自己愛からの離脱である



過去300年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、至上最も残酷な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭した。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にする。もし宗教が、超人間的な秩序の新法に基づく人間規範や価値観の体系であるとするならば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教徒比べても何ら遜色のない宗教だった。



図も拝借しましょう



宗教とは、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観のことをいう。相対性理論は宗教ではない。なぜなら(少なくともこれまでのところ)、それに基づく人間の規範や価値観はないからだ。サッカーも宗教ではない。ルールが超人間的な命令を反映していると主張する人はいないからだ。一方、仏教と共産主義はともに宗教だ。両者は超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範と価値観の体系だからだ。(「超人間的」と「超自然的」という言葉の違いに注意してほしい。仏教の自然法則とマルクス主義の歴史の法則は、人間が定めた法ではないから、超人間的だ。だが、どちらも超自然的ではない)。




ハラリさんは人間崇拝を3種類に分類します

有神論宗教は、神の崇拝に焦点を絞る。人間至上主義の宗教は、人類を、より正確にはホモ・サピエンスを崇拝する。ホモ・サピエンスは独特で真正な性質を持っており、その性質は他のあらゆる動物や他のあらゆる現象の性質と根本的に違う、というのが人間至上主義の信念だ。人間至上主義者は、ホモ・サピエンスの独特の性質は世界で最も重要なものと考えており、その性質が宇宙で起こる一切のことの意味を決める。至高の善はホモ・サピエンスの善だ。世界の残りと他のあらゆるものは、この種に資するためにのみ存在する。
 すべての人間至上主義者は人間性を崇拝するが、人間性の定義に関しては意見が分かれている。人間至上主義者は、3つの競合する宗派に分かれ、「人間性」の厳密な定義をめぐって争っている。



その3つの宗派とは
 1:「人権」を主たる戒律として定める自由主義的な人間至上主義
 2:「国家」を主たる戒律として定める社会主義的な人間至上主義
 3:「進化」を主たる戒律として定める進化論的な人間至上主義


1と2については 更なる説明は必要がないでしょう
3については必要だと思います

ハラリさんが3の具体としてあげているのが ナチスです

ナチスの最大の野望は、人類を退化から守り、漸進的進化を促すことだった。だからこそ人類の最も進んだ形態であるアーリア人種は保護され育まれなければならず、ユダヤ人やロマ、同性愛者、精神障害者のような退化したホモ・サピエンスは隔離され、さらには皆殺しにさえしなければならないとナチスは主張したのだ。



この引用の「だからこそ」がぼくにはどうもしっくりきません
ナチスがそう言うのは理解します
ナチスがそういうのをハラリさんがそのまま引用しているのもわかります
が この「だからこそ」は 自己完結的なもの手前勝手な飛躍がある
決して普遍的なものではありません

そのような「だからこそ」を
普遍的なカテゴライズの顕著な例としてあげられていることには違和感を感じます
某かのバイアスを感じずにはいられません

そこで思い当たるのは ハラリさんはユダヤ人であるということです


上掲3つのカテゴライズにも ぼくは違和感を覚えます
1と2はいい
けれど3は違うと思う
進化論的は人間至上主義という方向性は大きくは外していないけれど
少しズレていると思います

ぼくなら3は次のように主張します

 3:「貨幣」を戒律とする発展主義的な人間至上主義

資本主義も共産主義と同格のイデオロギーです
ハラリさんによれば イデオロギーと宗教は時代的呼称の違いだけで本質は同じ
なのに この12章には「資本主義」という言葉が一度も登場しません

これは奇異なことだと感じます

自由主義と資本主義は 親密度は高いけれど まったく別個のものです
現代人類社会は 人権 国家 貨幣 の三つ巴の均衡の上に成立しています

現代人類社会において 「自由」という言葉は2つの文脈で用いられます
 ひとつは「人権擁護」という意味
 もうひとつは「貨幣経済の発展」という意味です
こんな明白なことをハラリさんが理解できないはずがない

これはおそらく 理解できないのではなく 盲点になっているのだと推測します
盲点になっているということは アイデンティティに関わっているということです
アイデンティティに立脚する自己愛による隠蔽が作用している


「自由」がなにゆえに2つの文脈を持つに至ったのか?
これは重大な問いです
ここにも歴史的な過程があります
それが説かれているのは 『サピエンス全史』においては 第4部
「科学革命」です

もっとも ハラリさんはそのような書き方はしていません
ぼくの勝手な読解に過ぎません


『その16』へ続きます




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