愚慫空論

『世界一うつくしい生物図鑑』



図書館から借り出させてもらいました

美しい
確かに美しいです

美しさには しかし 

 冷たいもの
 温かいもの

のふたつがあることを考え出させてくれる本でもあります


「愛は伝染する」と題された冒頭の文章のその冒頭

「バイオフィリア(BIOPHILIA)」とは、自分以外の生命とのかかわりを本能的に意識することを意味する。わかりやすく置き換えるなら、「生命愛」といったところだろう。最初のこの言葉を使ったのか、精神分析学者であり哲学者のエーリヒ・フロムだ。彼の著書『破壊――人間性の解剖』のなかで、「バイオフィリア」とは「生命および、生き物としていけるものすべてに対する強い愛情」と定義されている。

(略)

ヒトは生態系の食物連鎖の頂点に立つ一方で、他の生き物に対する愛情を本能的に持ち合わせている。植物や人間以外の動物から刺激や充足感を得ることができない人や感謝の気持ちを抱けない人を私は見たことがない。もしもそんな人がいるなら、きっと哀れで惨めな人間か、単に邪悪な人間に違いない。



著者の文章でしょう
熱量のある文章です


しかし――

奇妙なことですが 著者の文章の熱さとは裏腹に
図鑑に並べられている「美しさ」は どれも冷たい

この矛盾は すでに引用した文章のなかに表れているような気がします


バイオフィリアの定義に異議も違和感もありません
違和感を強く感じるのは 著者の「熱さ」を感じるところ
「熱さ」が導く「断定」

植物や人間以外の動物から刺激や充足感を得ることができない人や
感謝の気持ちを抱けない人を
ぼくはいくらも見たことがあります

そんな人を哀れだと感じなくはないですが
邪悪だとは決して思いません


ヒトは生態系の食物連鎖の頂点に立っているのは事実です
他の生き物に対する愛情を本能的に持ち合わせているのも事実だと思います

これらの事実は個別の事実ですから 列挙されても何らおかしくはありません
おかしくないけれど 列挙した著者の意図は気にかかります

「一方で」という文言 
これは訳語ですから 原文はわかりません
“on the other hand ” でしょうか?

いずれにしても 訳文から関連が感じられます
主語が被っているから
「ヒト」という語が
「立っている」「持ち合わせている」の両方の述語の主語になっている


他の生き物に対する愛情を本能的に持ち合わせているのはヒトだけではない

著者やどうやらヒトだけだと考えているように思いますが
だとすると ぼくとは見解を異にします


見解が異なるであろうと推測する理由はもうひとつあります
「熱さ」と「冷たさ」の同居
ひとつの人格に「熱さ」と「冷たさ」が同居するのは不思議でもなんでもありませんが
同じ対象に「熱さ」と「冷たさ」が同時に注がれるのは奇妙な感を受ける


ハラスメント? 
「冷たさ」を「熱さ」で隠蔽しようとしている?
その隠蔽ゆえに「温かさ」が欠落してしまうのは ハラスメントにありがちなことです

では 著者に「温かさ」が欠落しているかというと そうではありません


まず著者は、ずっと重度の虫恐怖症だったと語っています
そのうえで 以下のように記述します

多くの人にとって、昆虫は自然の一部だと捉えられていることがわかった。と同時に、科学の見地から昆虫を研究する昆虫学は、(少なくとも包括的な意味において)他の動物学とは性質が異なることに気づいた。

他の動物学では、その生き物自体を主な研究対象としている。つまり生き物の行動に対する理解を深めることや、分類学上の階層を構築すること、とりわけ、その保護を目的としているのだ。(略)

ところが、節足動物に関して言えば、アプローチの仕方がまったく逆である。

ほとんどの昆虫学者の関心事は、昆虫が人間の生活のある側面に悪影響を及ぼさないかどうかということだ。私たち人間は自分たちの利益のために、昆虫の行動の理由を知りたいのだ。



これは「温かい」とぼくは感じます
こうした発見を為すこと自体が「温かい」

昆虫を自然の一部だと捉えるのは 日本人の習性とは少し違います
「自然の一部」というのは 日本人にとっても同じですが ニュアンスが違う
著者のいう「一部」には「埋め込まれたもの」というニュアンスがある
風景としての「一部」
オオイヌノフグリを単に「雑草」と呼ぶような感覚

この感覚は虚構の為せる技です

その点 ぼくたちは 虫を「一部」だと見るにしても 個性ある「一部」だと捉える
ぼくたちには虫の出す音声信号は「声」だけれど
先進国とされる文化圏のほとんどでは「音」だとされます



コレクターの中には、深刻なトラウマを抱えた子供の治療を専門とするセラピストがいた。彼女は、通常の診療に昆虫の標本を取り入れている。醜い虫を悪者に、きれいな虫をヒーローに見立て、患者と共にロールプレイするのだ。すると、心に傷を負った子供たちが身の上話をしやすくなるのだという。今まで使ってきたどんな道具よりも、昆虫の方が感情移入しやすく、効果的だと気づいたのだった。

サンフランシスコで行われた私のサイン会に来た女性は、「白血病で亡くなったばかりの娘を美しい姿で思い出せるようになった」と涙ながらに感謝の気持ちを伝えてくれた。彼女の愛娘はミズ医が大好きで、長を一緒に追いかけた楽しい時間を思い出すことができたからだ。




子どもは 未だ虚構からは自由です
子どもは虚構にとらわれるだけの能力が育っていないから 子ども
虚構から自由な子どもは 昆虫を個性のない「一部」だとはとらえません


個性を捉えることは「温かい」
「個性を捉えること」を捉えることは 抽象度が増して微温的になるけれど
でも やはりまだまだ「温かい」

それなのに この図鑑の冷たさ――


鉱物はいい
もともと ヒトには冷たく感じられるものだから

昆虫もまだいいでしょう
生命とはいえ ヒトにとって冷たく感じられるのは事実だから

生命も無生命も どこかに明瞭な境があるわけではない
同様に 「温かい」「冷たい」もどこかで線引き出るものではない
すべてはグラデーションです



「再生」と題された次の文章
――「罪悪感にとらわれず剥製を作る方法の探求」と副題が付いています

私は虫の殺生すら好まない。恥ずかしながら自認するが、捉えた昆虫を殺す際は今でも地元の採集者に頼んでいる。にもかかわらっず、私は約15年前から昆虫の標本を使った作品を作り始めた。いわば、私の作品は根本的に矛盾を抱えているのだ。



矛盾を自覚する「温かさ」

ともかくも、私は突然気づいたのである。あらゆる種類の生物で作品を作りたいという気持ちと、対象の生物を殺したくないと気持ちに折りあいをつける、限定的な解決法があることに。父の鳥のように自然死した動物の標本を使えば、少なくとも私には作品を作ることができるはずである。手に入る標本の数が極端に限られるリスクはあったものの、これが足がかりとなった。すなわち、罪悪感にとらわれず剥製と接することができる「再生」という方法である。(略) 「再生」しない限り、そっらは食物連鎖の中でミミズのエサと化してしまうのだから。



著者のお父さんは 珍しい鳥をたくさん飼っていたそうです
鑑賞物として飼うのではなく 生命として接していたのだと

生命として接していたがゆえに 喪失感は大きい
「再生」はその喪失感を癒やすことができる手法である――と


「熱さ」と「冷たさ」が同時に存在する矛盾は 相当の深さにまで達しているようです

喪失感を癒やすための「再生」
これにはモデルがあります

キリスト教です
著者は敬虔なクリスチャンだと推測します

「神に模して作られたヒトだけが 他の生命を愛することができる」
こんなのは虚構です
そこから出発して 途中 「温かい」ものも取り込みながら
「冷たい再生」へと帰着していく――
この図鑑は帰着点なのでしょう


そうした歩みを 否定はしようとは思いません
でも ぼくのシュミではない
そちらの道を歩もうとは思わない


罪悪感は感じていいと思います
それがその人が〈生きる〉ために必要であるなら
美しい標本を作ることが 著者が〈生きる〉ために必要であるなら言い訳は不要

 殺すなら 我が手で殺せ

罪悪感を回避することの方が ぼくには罪だと思えてしまいます

ミミズのエサと化してもいい
それが自然の営みというものです

自然の営みに抗って「癒やす」と言うのは あちらの言葉はどうか知りませんが
日本語では言語矛盾だと思います
自然の営みに沿って自然に回復していくのが 「癒」の意味するところ
自然に沿うことができる自らの身体に「信」を置くことが
「癒」あるいは「愉」へのステップ
そのステップを歩むことが ぼくのシュミです

コメント

おはようございます。

いやいや、相変わらず凄いねえ。この本からこんなに考えちゃうなんて、笑。
ワタシはこの本のことは知らなかったけど、どこかで目に触れても手に取ろるとは思えない。
表題の「作品」?にかなり「嫌悪感」を感じるから。
美しい、、かぁ、、、う〜ん。どっちだろう、やはり嫌悪感かな。「綺麗」だとは思わなくもない、思わなくもないからこその嫌悪感だろう。

いずれにしても最初の嫌悪感で「手に取らない」という“柔らかな”拒否なのだけど、おそらく読んでなお思索することはしなかったと思う。自らの嫌悪感を識るには手にとらなければならく、手に取らず知ろうとはしないことは「隠匿」なのだろうけど、それが虫唾が走るほどの嫌悪感なら逆に手にとっていたかもしれないが、それほどでもないので、柔らかな隠匿かな、笑。
でも、柔らかな隠匿・否定でも手に取るときは手に取るかな、、、気が向かわないものを全て「隠匿」ってのは面倒くさいので、単に「気が向かない」でいいよね。
前のエントリーも気が向かなかった^^;

エントリーの内容にかんして、ワタシの感覚(個的な虚構の積み重ね)でもやはり「再生」じゃないでしょ、だな。やっぱミミズに食われないとねぇ、、(実際にはアリか微生物だとおもけど、笑)、、大きな自然の円環のなかで、もとの蝶(虫)に戻るかもしれない。そういうことを再生という気がする。標本は再生ではなく、保守でしょ。
はなしは飛ぶけど、人間にしてもシロアリに食わせるどうかはおいといても、火葬より土葬のほうが円環しやすそうに感じる。人間は気体からできている、ってより人間は土からできている、ってほうが実感しやすい妄想なんだけどね。

罪悪感を隠すか否か、、、このことを感じることができる思索だなぁ。こういう思索ができる元本とういう意味で良い本なのかな。
「殺すなら我が手で殺せ」もより解ります。
あくまでも、虫も胎児も「殺さない」がやはり一番いいと思うんだけどね。

ところでさ、ワタシも虫が結構好きでつい捕まえたくなる気持ちを抑えて写真に撮っているんだけど、これもやっぱり隠匿ですか?

実は先週、断食をしていたんです。
断食明けで感覚がリフレッシュしたところで美味しいお茶が飲みたいと思って、飲ませてくれる店に行ったんですね。そこにこの本が置いてあったんです。

図書館においてあっただけでは、ぼくも手に取らなかったと思います。
偶然といえば偶然。
でも、単なる偶然でもない。
そういうのを「機が熟す」と言えばいいだと思うんですよ。


罪悪感については、もう一段、書いてみるつもりでいます。

>ところでさ、

気持ちを抑えていると感じているなら、隠蔽ではないと思いますよ。
隠蔽は感じていることを否定することですから。

〔ヒト〕に限らず、〔いのち〕というものは、まずあるわけです。
それもただあるわけではなくて、動的な平衡としてある。
動的平衡を保つことの、主観的な反応が感じる

だから、感じることを否定するのは、動的平衡を妨げることと同じです。

殺すことも、動的平衡を保つことから生じる必然です。
〔人間〕は殺すことに罪悪感を感じる。
そのこと自体にいいわるいはありません。
「そういうもの」です。

それを罪悪感が苦しいからといって、理由をどこからか探してきて、罪悪感そのものを「悪」だとしてしまう。すると隠蔽が始まる。感じる〈私〉を否定してしまう。

その否定を否定するのが「自分の手で殺せ」です。
しっかりと罪悪感を感じましょう、と。

>〔人間〕は罪悪感を感じる。・・・自分の手で殺しましょう。
繰り返しになりますが、、「殺すのなら」、、虫と人間は殺さない選択がいいと思うのですが、そうもいかないこととして食のことを想起させます。農業革命以降の罪悪感隠匿の大規模システム。

もうひとつ考えるのは、感じるはずの罪悪感が「麻痺」する、ってやつかな。

そういえば、人間を殺すことの罪悪感の隠匿、、死刑や過労死ってのがあったことを思い出した。

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