愚慫空論

『シン・ゴジラ』

取り上げるつもりはなかったんですけど (^_^;)



観たのは もう半年ほど前になりますか
劇場で観てきました

「まあ そこそこ面白かったんじゃない?」

何をどう面白いと感じたのか 「感じ」の記憶はほとんど残っていません
ただ 「そこそこ面白かった」という言葉を脳裡に浮かべた記憶は残っています

言語化された部分の記憶がのこっています
逆に言えば 感覚の記憶はあまり残っていない
刺激的ではあったけど それだけだった
なので 特に何かを書き残そうという気にはならなかった


ところが残っていなかったわけではなかったんです
残ってはいたけど それは「面白い」という言葉を貼り付けた部分ではなかった
それが



を観たことで引っ張り出されてきたわけです


『シン・ゴジラ』でもっとも快感を感じたのは
なんのかんのといっても特撮のシーンでした
そのスペクタクルには 単純に スゲェナァ...と感嘆しました

まあ でも それはその場限りの快感で
映画館を出たら忘れてしまうような刹那的なもの


『シン・ゴジラ』の面白さはそれだけではない――

というような批評を 実は映画を見に行く前にいくつか読んでいました
それらによると 『シン・ゴジラ』は人間ドラマでもあると

確かにそうだとは思いました
で それが面白かったかというと そうでもなかった
中途半端な印象でした


中途半端になってしまったのはリアルにこだわったからだろうと思うんです
よとりゴジラなんてモンスターはこの世には存在しません
そんなことは作り手も視聴者も前提としていることです

その前提の上で でも もしゴジラのような「標的」が出現したら
映画の中では「標的」とは別の言葉が使われていた気がするんですが
そしてそれは 実際に自衛隊が使う言葉のはずなんですが
そうした言葉遣いも含めて 
今 この日本に実在する実戦部隊が実際にどのように行動することになるのか?

ゴジラは架空だけど 実戦部隊は架空ではない
その実戦部隊を指揮し命令する組織も架空ではない
架空を元に実在のものを動かすというフィクション


特撮シーンのリアルさは〔ヒト〕がもつ感覚装置を
言葉は悪けれど 欺すことから生まれる
感覚を欺す技術の追求 つまり 特撮のテクニカルな問題です

人間ドラマの方のリアルさは
実存する虚構に基づいて実在する組織をもとにすることで追求されていた
その追求は確かに興味深かったんだけど
何か一味欠けていたような気もしもしました

だからでしょう
やっぱり面白かったのは特撮だったよね ということになった
人間ドラマの方は 前もって読んだ批評を以上のことは感じなかったし




初代の『ゴジラ』には「怨念」を元に製作されたことは定説になっています
水爆実験と被害もそうですが それ以上に太平洋戦争の被害
ゴジラの東京侵攻ルートが
3.10東京大空襲の時のB29の飛行ルートと重なっている
そうした指摘をどこかで読んだ記憶があります

とはいえ ぼくにはそうした怨念はまったくありません
ぼくの記憶によれば ぼくが最初に観たのはおそらく『ゴジラ対メカゴジラ』
こんな作品に怨念もへったくれもありませんし
そもそも太平洋戦争の怨念なんてものがない
「戦争を知らない子どもたち」なんだから


『シン・ゴジラ』の方も「フクシマ」と重ねられていると見る向きがあります
製作者がどのように語っているのかは知りませんが
製作の出発点にあったと見るのは 自然なことだと思う
あれだけの出来事なんだから そうした製作が無いことのほうが不自然でしょう


考えを邪な方へ向かわせてみます

『ゴジラ』には「怨念」があった
『シン・ゴジラ』にもあった

『ゴジラ』の場合 「怨念」の対象はアメリカです
アメリカだけど あからさまに「怨念」を表出することは憚られる
「ゴジラ」というキャラクターが生まれた背景には
当時の政治的な背景も影響したのかもしれないし
当時の人たちは そうしたことを『ゴジラ』のなかに敏感に察知したのかもしれない
『シン・ゴジラ』で多くの人が察知したのと同様に

だけれども だとした 『シン・ゴジラ』の場合
あからさまな表出を憚る事情とは何か

太平洋戦争は相手があって
その相手に無条件降伏という結末を迎えた出来事です

「無条件」を呑んだとはいったって 「怨念」はどうしても残ります
『ゴジラ』はそのジレンマが生み出したと言っていいのかもしれない


『シン・ゴジラ』にも「怨念」があるのはいいとして
その表出は しかし 「ゴジラ」に託さなければならなかったものなのか?
初代の『ゴジラ』は 事情を理解できます
けれど『シン・ゴジラ』の方はよくわからない

私たちは いつ 東京電力や安倍政権に無条件降伏をしたのか?



もう少し穏やかな見方もあります
日本という邦(くに)にある文化的な伝統に無意識のうちに沿っている

たとえば


あるいは



源氏物語も太平記も 「鎮魂」の物語です

いうまでもなく 「鎮魂」は「怨念」があってのもの

源氏物語が書かれたのは 藤原氏が栄華を極めた時代でした
なのに 架空の物語の中で映画を極めるのは 光源氏
では 光源氏のモデルが藤原氏かというと そうではない

『太平記』はタイトルが内容と逆さまです
鎌倉時代末期から南北朝時代へと移り変わる戦乱の物語で
敗者の側がヒーローとして描かれている
大楠公などは大スターです
湊川の戦いで討ち死にするんですが

しかし太平記には 楠木正成らを凌駕するスターがいます
日本の大魔王 讃岐院崇徳上皇です
崇徳上皇が讃岐から京都へ遷御することでもって
明治維新が開始されたほどの超大スター

太平記の後半は 魔王に変化した上皇が暴れ回る物語です
魔王の暴虐が「鎮魂」になっている


現実では敗北した者が 架空の物語の中では成功する
成功しているように描く
これは 日本の伝統的な「鎮魂」の様式です

その視線で『シン・ゴジラ』を観ると 面白いものが見えてきます


『太陽の蓋』は「フクシマ」で敗北した官僚組織が描かれています
それも 敗北すべくして敗北した姿が

『シン・ゴジラ』では その官僚組織が勝利する
ゴジラが仮に「フクシマ」の「怨念」の象徴であるなら
架空の物語の中でカンリョウソシキはフクシマに勝利する
あのアメリカのガイアツさえ 撥ね除けています


穏やかな方向へ考えるつもりでしたけど 過激さが増してしまいました..(^_^;)

だけど 「怨念」を抱えているのはカンリョウソシキなのか?
どう考えてもそうではない

『太陽の蓋』が隠密行動で製作されなければならなかった理由
フクシマをゴジラに託して描こうとした理由
それらの背景にはカンリョウソシキの「勝利」があると考えるのが妥当です

そのカンリョウソシキが『シン・ゴジラ』の中では「鎮魂」されている
いえ 「鎮魂」と言葉を当てはめるのは間違いです
勝者に対しては「鎮魂」とはいいません
「ヨイショ」というのふさわしい


もし 光源氏のモデルが藤原道長だとしたら
読む者は鼻白むでしょう
光源氏のイメージ形成に藤原氏が参考にされていなかったはずはありませんが
光源氏が藤原氏そのものだとしたら
もし 源氏物語が藤原氏を「ヨイショ」した文学だとしたら 
名作という栄誉を勝ち得ていたかどうか?
微妙なところでしょう

同じことが『シン・ゴジラ』にも言えるかもしれません
あくまで「しれない」ですし ぼくの勝手な想像ですけれど
それでも敢えて言わせてもらうと

『シン・ゴジラ』は日本の伝統を腐らせてしまった 迷作 です

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