愚慫空論

『いなか、の、すとーかー』『ウォークイン・クローゼット』

ふたつ続けてケチをつけるような記事を書くのは心苦しいのですが...
でも 心苦しさは振り払って 書きます
心苦しさに負けて 正直であることを放棄するのがいいことだとは思いません





期待外れな読書になってしまいました

弁解をしておきますが 残念な読書になってしまった原因は ぼくにあります
作者にはなんらの責はありません
ここは明言しておきます

決して残念な作品ではないと思います
ただ ぼくが読書前に持っていた期待とは違ったものだったというだけのことです



綿矢りささんのこれらの作品を読んでみようと思ったのは
佐藤優さんの著書で紹介されていたからです



『嫉妬と自己愛』について書いた文章の中でぼくは

 > 佐藤優さんは「自らが「絶望」を識っている」ことを知らないのではないか?

という疑問を持ちました

この疑問に ぼく自身 腑に落ちないものがあったのですけど
『いなか、の、すとーかー』『ウォークイン・クローゼット』を読んでみて
腑に落ちなさがなんだったのかが判明したように思います


佐藤優さんと綿矢りささんに共通すること
それは

 自らを他者の自己愛や嫉妬の被害者であると位置づけている

ことです
加害者意識の方は希薄 つまり

 自身のなかにあるはずの自己愛についてはスルー

なんです
これでは「絶望を識っている」という見立ては撤回しなければならないかもしれません
むしろ

 絶望を知ってはいるが識らない

のほうが正解だったかもしれません
絶望を識ろうとしていることは間違いないと思いますが

でも 自らの腐臭に気がつかないなら 
死に至る病という意味での「絶望」は識り得ない...




綿矢氏もストーカーの被害を何度も受けたことがあると思う。



「綿矢氏」と書くのは佐藤さんですが
その佐藤さんも つきまとわれた体験があると書いています

ぼくはつきまとわれた経験はありません
むしろ つきまとう側だったかもしれません

ですので 佐藤さんや綿矢さんの実感は共有できませんが
『いなか、の、すとーかー』が
綿矢さん自身の体験を元に書かれたであろうことには同意できます
つまり 主人公の石居透は 綿矢さんの分身なのでしょう


石居は ふたりのストーカーにつきまとわれてしまいます
ひとりは熱狂的なファンが度を超してしまった女性
もうひとりは 幼なじみの女性

ふたりのストーカーが石居に絡んでいく展開は
そんな経験の無い第三者が読んでいても ちょっと怖い
少しでもそういう実体験があった人にとっては 相当の恐怖感があるかも

ここは『いなか、の、すとーかー』の読みどころです


(ぼくにとって)問題は その展開の収束の仕方です

石居は ストーキングを引き起こした責任の一端が自分にもあったことに気がつきます
それまでは当然と思っていた自身の上昇志向が
彼女たちのストーキングのトリガーになっていたこと

その「気づき」が石居の行動に変化を持たして
つまりは「成長」して 事態は解決に向かう――
ふたりの女性がどんなふうになるのかは 触れられずに事態は収束します


この成り行きこそ 佐藤さんと綿矢さんが共通して抱く希望なのでしょう

自身はあくまで被害者です
自身の振る舞いに 過剰な自己愛に溺れてしまっている人たちを刺激するところはあった
そのことを意識し 振る舞いを改める
確かに「成長」です

そして その「成長」の目指すところは過剰な自己愛者を回避すること

『いなか、の、すとーかー』の展開の収束は
ふたりの女性ストーカーが(なぜか)登場しなくなり
新たなストーカー候補者が現われて
その者には 「上手に」対応する石居が描かれて終わりになる

石居はおそらく綿矢さんです


ここにないのは 過剰な自己愛を刺激してしまったのは
実は自身が抱えている自己愛なんだという発見です

田舎で生まれた石居は東京へ「出るのが当然」だと思っていたのではなく
「東京へ出なければならない」という過剰な思いがあった

だけれども それが過剰だとは気がつかない
時代そのものが「過剰」だから
時代に適応するには「過剰」になるのが「当然」だと感じたにすぎなかった


こうした社会適応と自己愛の二重構造への気づきは
自身が抱える自己愛への自省がなければ生まれません
自己愛と社会適応との間に生まれる亀裂がルサンチマンであるということも
二重構造が見えれば見えてきます

だけど その方向へは佐藤さんも綿矢さんも その方向には進まない
社会適応の方向へと進む
適応が困難になった社会の中で より高度な適応へと進む

その自画像を描いたのが『いなか、の、すとーかー』であり
より高度な適応策を身につけるために
「今の時代」を映し出した小説を読めと薦めるのが『嫉妬と自己愛』というわけです



『ウォークイン・クローゼット』も 同様の視点を持った作品です

主人公の早希は これまた綿矢さんの分身なのでしょうね
『ウォークイン・クローゼット』は 早希の「成長」の物語です

物語の設定/構造が若干『いなか、の、すとーかー』と異なるのは
主人公に絡む過剰な自己愛者が 主人公の友人だという点です

『いなか、の、すとーかー』では 自己愛者は敵認定でした
なので主人公は上手に回避できるよう「成長」する

『ウォークイン・クローゼット』では味方認定で
やっぱりトラブルに巻き込まれる(というより自ら介入する)のですが
そのトラブルを糧に「成長」するという物語になっています


回避するにせよ 糧にするにせよ
いずれにしても 「上手に対処」です
つまり 自分自身のことではない

 自己愛は他人事

という視点であるわけで
その点が ぼくにとっては残念なことでした
期待していたのは

 自己愛の当事者

の物語でしたから

でも そういう期待は ぼくの勝手に過ぎません


それにしても思うのですが

 自己愛は 自分への愛だから 自己愛

なんですね

綿矢さんは「自己愛」なんて言葉を使わないし
もともと 自らの「成長」を表現しようと小説を生み出したのでしょうから
ぼくの勝手な期待に応えていない批判をすれば 
それはそれこそ ぼくの自己愛の発露でしかありません

けれど正面切って 自己愛を批判する佐藤さんは違うと思います
自己愛を批判するのはいいんだけれど
その批判の矛先は 最後に自分自身に向かわないと拙いんじゃないかな? と思います

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