愚慫空論

虚構の肌触り

前の記事で「温かい虚構」なんてことを書きました

「温かい虚構」というと すぐに思い浮かぶのがこちらのシーン



『北の国から '87初恋』のラストのワンシーン

お金は虚構です 虚構中の虚構
お札は虚構が物質に憑依して現実化したもの

お金には「冷たい」感触があります
虚構の中の虚構だから
「札束で頬を叩く」なんて表現がありますが
この表現の「冷たさ」は「氷柱で頭を殴る」というのに匹敵します

とはいえ その虚構も血の通った人間が扱うもの
だから扱い方で血が通って温かくなったりもします


このシーンのなかで お金という虚構に「暖かさ」を付与するのは「泥」です
が これもまた虚構です
それも二重の意味で

ひとつめの意味は これはあくまでフィクションだということです
フィクション 作り話
‘FICTION‘を訳すると「虚構」です

もうひとつの意味は これがたとえ作り話でなくてもやっぱり虚構だということです
「泥」に「温かい」という意味などないんです
それはノンフィクションであろうとなかろうと 変わらない
「泥」というのは「言葉にできないこと」の象徴です

この動画の後半 その「言葉にできないこと」が表現されていて
それが観る者に伝わる
ドラマを観る者はそれを知っているから 「泥」がなにを象徴しているのかが理解できる

「知っている」ことは フィクションでもノンフィクションでも どちらでも有効
これが虚構の凄いところです 厄介なところです


では 虚構の凄さはどこから来るのか
『この世界の片隅に』を評した岡田斗司夫さんの話が参考になります

9分20秒あたりから



『この世界の片隅に』の片渕監督は 
主人公の「すず」というキャラクターを「すずさん」と呼ぶんだそうです

なぜか
「すず」の実在を「信じている」から

もちろん 客観的事実として信じているわけではないでしょう
あくまで 片渕監督の主観的事実として「信じている」
片渕監督は すずが実存するという自身の「信」を観客に伝えるために
『この世界の片隅に』という映画を作った

もとより「すず」は虚構です
だけど 作り手の「信」が結実すると 「血の通った」虚構になります


岡田斗司夫さんは「言葉にできないこと」についても少し語っていますから
そちらも是非
3分15秒あたりから


前回取り上げたNHKスペシャルのなかにある虚構は
申し上げたように「血の通った」「温かい」虚構です
それゆえに 子どもたちを縛ることになる
温かいから 子どもたちの方から自発的に縛られていく
そのほうが居心地がいいから 縛られていく

「自宅」という虚構を子ども語り聞かせる大人にとっては
虚構はもとより主観的事実ですが 客観的事実でもある
正確に書くならば 「客観的事実だった」と過去形にするべきでしょうが

過去であれ それが事実であったことに疑いはありません
ですから わざわざ主観的事実として「想い為す」といったような操作は必要ありません
大人たちが繰り出す虚構は もとより「血の通った」虚構
これが温かくないはずがないし
そこに子どもたちが居場所を見つけることは自然というしかない

この「自然」を認めることは「優しさ」です
「優しさ」は「信頼」をもたらします
子どもにとって「信頼」は 生存のベースです

だけど それは同時に「弱さ」でもある
子どもは信頼する存在から 信頼される存在へと「自立」していかなければなりません
「優しさ」「信頼」を糧に 成長しなければならない

他者から与えられた虚構は それがいかに血が通ったものであったとしても
やはり他者のものです
「自立」には 他者のものは他者のものとして切り離す過程が必要です
そこには〈いのち〉そのものの「強さ」が要ります






またしても と言わなければなりません

J・S・バッハ 『マタイ受難曲』 
カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ合唱団と管弦楽団の演奏

演奏者たちはイエスの「神の子としての実在」を信じています
それも切実に

この〔人間〕の「信」をぼくは信じることができます
といって 彼らの「信の対象」を信じることができるわけではありませんが

でも もしかしたら その「信」は本当に「信の対象」を現実化せしめたかもしれない
イエスは死の三日後に 本当に復活したのかもしれない
そんなふうに思わなくはありません

「信の対象」は虚構です
もし「復活」があったとしても もはやぼくには確かめようがありませんから

ぼくは「信の対象」まで信じることは
「信」の在り方しては むしろ過剰ではないかと思っています
過剰は過激を生みます

それは「優しさ」であっても同じことです
「優しさ」も 静的なものとなってしまって そこに拘ると虚構になる
すると「優しさ」は過剰なものとなり 過激さが生まれます

虚構の中の虚構である貨幣も 同様の作用があります
貨幣は静的なものだと捉えられていて だから「冷たい」感触がある

このあたりの詳細を語るのは 別の機会に譲ることにしましょう


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