愚慫空論

『15歳、故郷への旅 〜福島の子どもたちの一時帰宅〜』

昨晩放映されたNHKスペシャルです



原発事故後、福島の若者の間で広まったある行為がある。15歳の誕生日を迎えた記念に、震災以来帰ることのなかった故郷を初めて訪ねるというものだ。安全への配慮から今も避難指示区域への一時帰宅は大人しか認められず、子どもは一切許されていない。許可が下りるボーダーラインとなるのが「15歳」なのだ。その年齢になるのを待ちすでに多くの若者が故郷へと向かってきた。今も時間がとまったままの街。毎日通った学校、馴染みのお菓子屋、友人と遊んだ公園、そして自宅。それぞれの場所に立ち止まって言葉をなくす者もいれば、歩いているうちに自然に涙があふれてきたという者もいる。未曾有の原発事故により尋常ならざる生活を送ることになった彼らにとって、短い故郷への旅は、失われた時間を見つめ、自分が歩んできた道のりを整理しこれからの生き方に思いを馳せる、いわば大人へと成長する旅でもある。

番組では、故郷を目指す福島の若者たちに密着する。この6年はいったいどんな歳月だったのか。帰郷により、彼らのなかで何が変わり、どう新しい1歩を踏み出してゆくのか。困難を乗り越え懸命に生きてきた福島の10代の姿を通して、人間の普遍的な成長の物語を描く。



この番組はよかったです
観てほしいと思います

 「人間の普遍的な成長の物語」

その通りだと思いました


観ていて まず違和感を抱いたのは「自宅」という言葉でした
今はそこで暮していない場所を指して「自宅」と言うことへの違和感

福島からの避難者たちは 事情はどうであれ
現在は「自宅」と呼ぶ場所では暮していないわけです
暮らしがない場所を指して呼ぶ言葉に「自宅」はふさわしいのか?

そう考えると「一時帰宅」という言葉にも違和感が出てきます

たとえば単身赴任をしている人が「一時帰宅」という場合には違和感はありません
その場合 「自宅」には当人はいないけれど
その人が支えている あるいは
その人に支えられている暮しという「実体」があるわけです

その暮しが喪失してしまった場所を指して なお「自宅」という
これは何なのか?
答えを探すと出てくる言葉があります

 虚構


「引っ越し」を体験した人は多いと思います
現代の日本では 幼少の頃からずっと同じ場所で暮しているというような人は
割合としては少数派になってきているのではないか?
「引っ越し」はごく当たり前の出来事で 誰もが当たり前に受け取ることです

福島からの「避難」は「引っ越し」です
「避難」という言葉には

 特別の事情

が含まれていますが 外形的には「引っ越し」だと言っていい

「特別の事情」が「暮し」という実体のない場所を「自宅」と呼ばわしめている
「自宅」を虚構たらしめている


引っ越しの経験はぼくにもあります
成人前の 自分の意思によらない引っ越し
親の事情による引っ越しです

引っ越しをした後も かつて自分たちの暮しがあった場所は残存しています
そこには別の人が暮していたりしますが 場所は物理的に存在する
そうした場所は もはや「自宅」ではありません
懐かしいといった感慨は湧くにしても 「自宅」とは別物になっている

土地や建物は客観的現実ですが 「自宅」かどうかは主観的な現実
客観的現実と主観的現実を結びつけるのは

 身体的意志

です
無意識下の身体的意志

成長とは身体的意志が発露することを指すと言っていいでしょう
その身体的意志を この番組はとてもよく捉えていると感じます


一般的にいう「意志」と「身体的意志」は微妙に別物です

一般的には
 「意思」は中立的な思い
 「意志」は積極的な思い
と区分します

「意志」は通常 言葉にできる「思い」を指します
対して「身体的意志」はうまく言葉にならない
安易に言葉にしてしまうと嘘になってしまう
そういう類いの「思い」です
積極的というよりむしろ受動的 いえ「受容的」です


一般的な引っ越しにおいては ごく普通に「身体的意志」が働きます
「身体的意志」の作用によって 主観的事実が変化する
かつて自宅であった場所はそうでなくなり
今 暮しているところが自宅になる

そうした身体的意志の作用を阻んでいるのが 虚構 です



虚構という言葉には 骨組みだけといったような寒々しいイメージがあります
けれど 必ずしもそうではない
虚構は 血が通っているような温かい肌触りを持つことがあります
この番組の中で作用しているのは そうした「温かい虚構」です


子どもたちの周囲の大人たちも 自らの意志で引っ越しをしたわけでありません
「避難」という特別の事情を含む言葉が そのことを示しています
特別な事情ゆえに かつての自宅は 
もはや暮らしが喪失してしまっているにも関わらず 未だに「自宅」のまま
特別な事情が「自宅」のままである続けることに許しを与えています

大人たちとて 今 目の前で血の通った暮らしをしているんです
それなのに まだ かつての「自宅」に血の通った思いを寄せ続けています

大人たちの「血の通った思い」「温かい虚構」が子どもたちに作用する
いじめの対象になるといったような子どもたちには子どもたちの事情もあります
だけど だからといって子どもたちは自身では「温かい虚構」にすがるわけではない
むしろそれができないから
何ごとに対しても「どうでもいい」と投げやりになってしまいます


そんな子どもたちが15歳を迎えて 虚構の「自宅」に「帰宅」します
彼らが認識するのは 「自宅」はもはや自宅ではない という客観的現実です
その客観的現実を自身の主観的現実とする身体的意志を作動させます



映像というのは凄いもので
身体的意志を発動させる時に現れる機微をしっかりと捉えて伝えるのですね
「言葉にならないもの」がしっかりと伝わってきます
だから 「言葉にならないもの」を自身の感性で確認して欲しいと思うわけです




余談です

子どもたちの機微を眺めながら ぼくの中で思い当たることがありました
それは 断食 です

 (^o^)っ 愚慫空論『大根の煮汁が美味かった』

このとき以来 ぼくは半年に一度くらいのペースで三日間の断食をすることにしています
そして 何度か繰り返すうちに気がついたことがある

やせ我慢になってしまうと断食は辛い (^_^;)

まあ、当たり前なんですが。
だけど 断食をしようという意志が肝にまで届いていれば たいして辛くはないんです
となりでだれかが食事をしていても平気
会食の席にだって ふつうに座っていられたりする
(周囲の人は迷惑かもしれませんが (^_^;)

やせ我慢になるか 肝に届くか

「断食しよう」という 言葉になる部分の意志は同じです
だけど 明確に違うことがある
その「意志」を ぼくの身体がきちんと受容しているかどうか
受容できていれば 身体的意志になっている

「きちんと受容」なんて その詳細を言葉に載せることは不可能です
不可能だけど 身体感覚としては まぎれもなくあります
あるとしか言いようがない



ぼくが感覚しているものと 子どもたちが感覚しているであろうことが
同じという保証はどこにもありません
ぼくの感覚は誰とも共有できないぼく固有のものだし
子どもたちもそれぞれに固有の感覚・思いを抱いていて
それらは共有不能でだからこそ言葉にならない

だけれども 同じ〔ヒト〕ではあるはずです
そういう確信がなければ 「普遍的な成長」だなんていう言葉が出てこないし
そういう言葉に接しても受け容れられないはずです

この番組には3人の子どもたちが登場します
もちろん3人だけで普遍的とは言い切れません
エビデンスとしても不十分です

そうかもしれないけれども
子どもたちの「成長」を自分の中に重ね合わせた時 感じられるものがある
少なくともぼくにはある

それは「普遍的」と断言するには足らないものだけれども
その可能性を示唆するものではあると思います


信じることができるのは「可能性」です
普遍的であるかもしれない「可能性」
こういった「可能性」は
信じることによってしか現実化・普遍化していかない類いのものだと思います


コメント

最近「虚構」に気づきはじめたばかりのワタシにとっては、サピエンス全史の影響で陰謀的作為的な、ほんと、寒々しいイメージで捉えていました。だから「逃れられない」という否定的な言葉が発せられていますね。もっとも常に否定的に捉えることにも多少の疑問、「矛盾」がワタシのなかにはあったのですが。
おっしゃるように、たしかに「虚構」には、「温かい虚構」もあるんでしょうね。日本語でいう「物語」というのは、むしろ「温かい虚構」に当てはまる言葉かな、と感じます。
これからは「物語」である可能性も加味して思索したいと考えました。
ご紹介の番組は観ていません。
再放送などで機会があれば、みてみたいと思います。

最近になって虚構に気がつき始めた?
ずっと以前から虚構については話題にしていたじゃないですか (^o^)

まあ、けれど、仰りたいことはわかります。

「知る」と「識る」の違いですね
知ってはいたけど識らないというのは よくあることです

でも 毒多さんは識ってもいたと思うんです。
毒多さんの写真の ことに街の中のモノを捉えたやつ
あれらに写っているのは 「モノそのもの」というより「モノに憑依している虚構」であるような気がします。ほんのり温かい虚構です。

「知っているのに識らない」ということもあれば、
「識っていることを知らない」ということもあります。
「識っている」は身体知。
身体知が言語化されると「識っていることを知る」になります。


>「逃れられない」という否定的な言葉

「逃れられない」というより自発的に「逃れたくない」んです。
だから厄介なんですよ、虚構は。

再放送は水曜の深夜だったかな?
オンデマンドでもやるようですし、ネット上にはすでにあります。
是非ご覧になってみて欲しいです。

自発的に逃れていくことができない「優しさ」が観て取れると思います。

こっちも観たよ

子どもはキツイな。
でもツラさだけでもない。
ほんと、言葉にできないけど、伝わってくるものがある。
どの子も同じかどうかは解らない。
すくなくとも番組に出てきた子たちはすごいな、と感じた。
絶望している大人よりもずっと大人。
もうひとつの番組の大人とはまるで違う。
この子たちの感性を羨ましいと感じる。

ご覧になりましたか。

>どの子も同じかどうかは

ええ。わかりません。
邪推かも知れませんが、「絵になる」子どもたちだけをピックアップしたのかもしれない。
でも、そうだとしても、なんだか力をもらえるような気がします。

なんていうのかな。
止まっていた(主観的)時間が、現実を知ることで動き出した。
止まっていた分が、一気に経過した。
そんな感じです。


>もうひとつの番組の大人とはまるで違う
そう。そうなんですが、では、彼らにそうでない「大人」になる選択肢はあるのかというと、社会が今のままでは厳しいと思うんですよ。なかには【社会】からの疎外を撥ね除けて〈子ども〉の感性を伸ばしていくことができる者もいるでしょうけれど、その手助けをしてやれる方法をぼくたちは持ち合わせているのか?

はなはだ心許ないですね。

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