愚慫空論

コーヒーの味と抽象概念

今、PCのキーボードを叩いている私の傍らにはマグカップが置かれている。カップの中に入っているのはコーヒー。もちろん、粉末にお湯を注けば出来上がりのもの。インスタントコーヒーは、私の相棒である。

喫茶店なんかに入って、インスタントでないコーヒーを飲むのも好きだ。好き、とはいっても実現できるのは、月に1度あるかないか。そんな数少ない機会に注文するのは、エスプレッソのようなニガ~イやつ。当然、砂糖・ミルクは入れない。ああ、そうそう、時々買い出しに出かける街にダッチコーヒーを淹れてくれる店があって、そのコーヒーが今一番の好み。飲むことが出来るのは、年に3回くらいかな?

本当は、コーヒーなんてものは気軽に飲むべきものではないことは知っている。それは、コーヒーが健康に良くないからでも日本人だからお茶を飲むべきだからでもなく、私達が気軽に飲んでいるコーヒーは多国籍企業に搾取されたコーヒー豆生産国の人たちの犠牲の上に成り立っている事実があるからなのだけれども、そうしたオツムでの理解とは裏腹に、私の胃袋はコーヒーを要求し、常にその要求が通る。つまりはオツムより胃袋のほうが重いという情けない話。


てな具合にコーヒー党の愚樵なのだが、そんな私が子供の頃、コーヒーを始めて飲んだ時のことは良く憶えている。いや、それははじめてのコーヒー体験ではなかっただろう。それまでにもコーヒーを少しは口にしていたとは思う。子供の頃よく行った銭湯で湯上りに飲むのはコーヒー牛乳だったし。よく憶えているのは、始めて喫茶店でコーヒーを飲んだときのこと。そのコーヒーの味は、不味いの一言だった。もちろん、子供の頃の話だから、コーヒーの味がわかって不味いといっているわけではない。要はコーヒーの味がわからなかったのである。子供だったから。

私の子供の頃の記憶には、両親に連れられて喫茶店とかフルーツパーラーとかでの場面がいくつか残っている。おそらくは子供を連れて歩いた両親の休憩のためだったろうが、子供にとってそれはワクワクする楽しみな場面だった。メニューを眺め、何を注文するかを考えるのも楽しかった。もっとも、大抵は両親が半強制的に注文を決めてしまうのだったが。

「ミックスジュースにしなさい。」
(ミックスジュースを知らない関西人以外の人は、説明しないから勝手に調べてください。)

だいたいはこれであったが、一番の狙いはクリームソーダ。季節が夏だと許可されることが多かった。そして大人たちはコーヒー。子供がコーヒーを飲むとバカになる、なんてことを言われて、子供にはコーヒーが許可されることはなかった。

始めてコーヒーを飲んだのは、小学校3年か4年のとき、親戚で集まって夏休みに泊りがけに海水浴に出かけたときのこと。夕方現地に到着して、私達子供はすぐに海水浴に行きたかったのだが許可されず、仕方がないので夕食までの間、子供たちだけで散策に出かけた。子供たちといっても筆頭は高校生。その高校生の誘導で喫茶店に立ち寄ったのだった。

「○○○(←愚樵)は、クリームソーダか?」
「いや、コーヒーでええよ」(←コーヒーがいい、ではなくて、コーヒーでいいよ、なのだ!)

年長の従兄弟と、こんなやり取りをしたと記憶している。とにかく、従兄弟同士の集まりのなかで背伸びをしてみたかったのだろう。コーヒーを禁じる大人がいないので、ここがチャンス!という読みもあった。

注文したコーヒーが運ばれてきて、ミルクを入れ、角砂糖を入れる。確か、1つ。2つ入れたかったけど、我慢した。そしてスプーンでかき混ぜて...。カップを口に運んで、ひと口、すする。「何じゃあ、こりゃああ!!(←その頃、ある刑事ドラマの影響で流行っていた)」と心のなかで叫びつつ角砂糖を追加したい欲求に駆られたが、虚栄心のため果たせず、澄ました顔でカップ一杯のコーヒーを飲み干した。苦いコーヒー初体験。

そんな苦い体験をしながらも、なぜか中学生になる頃にはコーヒーはごく自然な飲み物になっていた。親からも許可される、というより、いつの間にか禁止されなくなっていたし、喫茶店に入ったらコーヒーを注文するのが当たり前、といった感じになっていた。その頃はまだまだコーヒーの味などわかっていたとは自分でも思えないが、とにかく、喫茶店でコーヒーを注文するのが大人なのだと考えていたし、それが出来る自分に喜びを見出していた。

******

少し前になるけれど、瀬戸智子さんのところの『科学の共有』から始まったいくつかのエントリー。上に記したコーヒーの話は、そのなかの『分かるということについてツラツラと』『分かるということについてツラツラと その2』あたりを読みながら引っかかったことを心に留めていたら、涌いて出てきた。なぜこんなものが出てきたのか、私にもよくわからないが。

瀬戸さんのこれらのエントリーからは、子供たちに教える瀬戸さんと教わる子供たちとの交流がごく簡潔に描かれている。簡潔だけども、伝わるべきものはちゃんと伝わってくる。子供たちと瀬戸さんの間にある信頼感。

瀬戸さんのお話からコーヒーの話が涌いて出てきた理由、つまりこの2つの共通点は、その信頼感なんじゃないかな、と思う。苦い初体験だったにもかかわらず、いつの間にやらコーヒーに慣れ親しんだ私。それはたぶん、コーヒーを飲むことができる大人たちを信頼していたから。だから、苦い思いも乗り越えられた。
もし、私が大人をバカにする子供だったら、コーヒーの不愉快な体験はそのまま大人への不快感と直結して、今、ひょっとしたらコーヒーを愉しむことはできなかったかもしれない。でも、私には幸いなことに大人への信頼感があった。苦い味がわからないのは自分の未熟さゆえだとわかっていた。

私にとってコーヒーと逆の例は、タバコ。私が子供の頃は今と違い、大人がタバコを吸うのは常識だった。親父もタバコを吸っていた。だから大人がタバコを吸うことには違和感を持っていなかったけれど、中学生の時分、タバコを吸う同級生をバカにして見下していたからタバコを吸わなかった。あんなやつらと同じになりたくないというだけの理由。それ以来、心のどこかにタバコを吸うやつはバカだ、という意識が刷り込まれてしまっていて、大人になった今でも抜けていない。不思議なことに、いまだに私より年長の喫煙者にはバカだなんてちっとも思わないんだけど。

瀬戸さんに教わる子供たちは、算数と数学の壁を乗り越えられないでいる。この壁は子供たちにとっては苦いもののはず。でも、子供たちは苦さを味わいながらも乗り越えていく。子供たちを乗り越えさせるのは、瀬戸先生への信頼感だろう。抽象概念を理解する大人の具体像としての瀬戸先生。その瀬戸先生への親しみと信頼感。それが子供たちが自発的に高みへ上っていく原動力になる。

その乗り越え方はみなそれぞれで、こうしたら間違いなく乗り越えられるという方法はない。そこが瀬戸さんの悩みの種のようだけれど、もし、数学の抽象概念の理解とコーヒーの味の理解とが同じような脳の中の仕組みでなされるとしたなら、それは仕方がないだろう。コーヒーの味は、わかるようにならなければわからないから。

ただ、コーヒーの味と数学の抽象概念に大きな違いがあるのは、それは理解の仕組みよりも理解の社会的な重要性。コーヒーの味がわからなくても社会的にやっていけなくはないが(同じ嗜好品でも酒はそうもいかないが)、抽象概念に親しんでいないと競争社会を勝ち抜いていけない。抽象概念を理解できるか出来ないかで、それも定められた期限内にできるかできないかで社会的な上下関係が決まってしまう社会。現代は残念ながら、そうした社会。

社会的にはともかく、裸の人間としての豊かさで言えば、抽象概念理解もコーヒーを味わえるのも同じようなものにしか私には思えないのだが。まあ、これには同意できない人が多かろうが。

******

コーヒーの話が出てきた理由と思われるものを、もうひとつ。それは、やっとこの歳になって(中年オヤジです)ロケンロールに触れられた気がしたこと。私は中学時代あたりからクラシック音楽に傾倒していたゆえに、ロックはバカにしていた。このあたりはタバコをバカにしている理由と被るのだが、バカにしていたゆえに、これまではクラシックと比較してロックを嫌う理由ばかり探していたような気がする。けれど、信頼感ある人から薦められたCDでそれは変わった。人間なんて、そんな程度のものではないのか。

コメント

土からの贈り物

こんにちは。
お元気でいらっしゃいますか???

実は昨日、散歩コースで愚樵さんちに来て、
エントリーを拝見して、嬉しいやら恥ずかしいやら、
「うわっ~~~」って感じでした。
まだまだ修行中の私。
これからもポカばかりしますが、宜しくお願いいたします。

さて、今日はねぇ。
もう一つ、素敵なお話をお伝えします。
同名の方から贈り物がありました。
土の匂いと優しさと、その方の思いが伝わり、とても嬉しく思いました。
愚樵さんが言われる「つながり」。
今日もじっくり感じています(^.^)

では、またね、、、

冷めたインスタントコーヒーが相棒

夜の、犬(注・私も避妊手術は受けさせられない)の散歩以外は一日中家の中にいて、仕事や受験勉強(生涯現役を目指して)をしている私には、いつも側にある冷めたブラックのインスタントコーヒーが相棒です。熱い苦味の利いたコーヒーはもちろん大好きなのですが、いつのまにか冷めたコーヒーが美味しいと思うように慣れ親しんでしまっています。それと私も抽象概念が特に苦手で、瀬戸さんのブログに出てくる少年と同じで、Xってなんだろう?何故Xなんだろうと理解できなくて悩んでしまい、以後の数学が嫌いになってしまいました。その後、就職試験の時に再度必要に迫られて、数学を自力で勉強し直してみると、嫌っていたほど難しくも無く、自分でゆっくりと考えれば、結構面白いし、案外に難しくなかった思いでもあります。ちょっと食わず嫌いで損した感じを覚えています。それではまた。

西岸良平氏のマンガで

あの「3丁目の夕日」の作者さんが「蜃気楼」とか(ちと違う題だったかな?)ので、
>Xってなんだろう?何故Xなんだろうと理解できなくて悩んでしまい、以後の数学が嫌いになってしまい
一元、2元、3元[多元]連立方程式を男女関係の記号論に置き換えて、「アじゃあ、これは複数乱交PARTY」とか言いつつ、鼻ジ出すエピソードを描いておられましたよ。
なかなか可笑しかったです。
あ、前半を読んでいた時には、もっと高尚な話を展開する予定が・・。カフェオレ下り[オリ]になってしまった・・。

水出しカフィ

カフィは私も煙草とならんで生活必需品であります。去年メーカーを仕入れて500ml一気につくって飲んでおります。でも水出しは経験がありません。こんどトライしてみたいとおもいます。 さて、数学は私にとって・・・宗教だぁあ! おじゃまいたしました。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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