愚慫空論

『サピエンス全史』その8~想像上のヒエラルキーと差別

『その7』はこちら (^o^)っ リンク

 


当文章のサブタイトルは 『サピエンス全史』第8章のタイトルそのままです
この章に関しては どこかのCMのセリフではありませんが

 何も足さない 何も引かない

がベストであると思われます

でも それでは(ぼくにとっては)物足りないので
少しだけ 足してしまいます(^_^;)


農業革命以降の何千年もの人類史を理解しようと思えば、最終的に一つの疑問に行き着く。人類は、大規模な協力ネットワークを維持するのに必要な生物学的本能を欠いているのに、自らをどう組織してそのようなネットワークを形成したのか、だ。手短に答えれば、人類は想像上の秩序を生み出し、書記体系を交換することによって、となる。これらふたつの発明が、私たちが生物学的に受け継いだものに空いていた穴を埋めたのだ。

だが、大規模な協力ネットワークの出現は、多くの人にとって、良いことづくめ打破なかった。これらのネットワークを維持する想像上の秩序は、中立的でも公正でもなかった。人々はそうした秩序によって、ヒエラルキーを成す、架空の集団に分けられた。上層の人々は特権と権力を享受したが、下層の人々は差別と迫害に苦しめられた。たとえばハンムラビ法典は、上層自由人、一般自由人、奴隷という序列を定めている。上層自由人は、人生の楽しみを独り占めしていた。一般自由人はそのおこぼれにあずかった。奴隷は不平を漏らそうものなら、叩かれた。



第8章冒頭の記述です
以下 展開されるのは ヒエラルキーの多様性とその実体(差別)の例示です

自由人と奴隷、白人と黒人、富める者と貧しい者の間の、以上のような区別は、虚構に根ざしている(男性の女性のヒエラルキーについては、後ほど論じる)。だが、想像上のヒエラルキーはみな虚構を起源とすることを否定し、自然で必然のものであると主張するのが、歴史の鉄則だ。




ヒエラルキーは重要な機能を果たす。ヒエラルキーのおかげで、見ず知らずの人どうしが、個人的に知り合うために必要とされる時間とエネルギーを浪費しなくても、お互いにどう扱うべきなのかを知ることができる。



この記述には注釈を加えておく必要があると思います

 浪費しなくてもよい

ではなくて
 
 浪費することができない

〔ヒト〕が他者の認知に費やすことができる時間とエネルギーは有限です
社会の成員が数を増すにつれ 認知に要求されるエネルギーは指数関数的に増大します
その要求の許容限界が 生物学的本能の限界です
虚構の効用は 生物学的本能の限界を突破することではなくて

 認知に要するコストを簡略化すること

です
現代的な言い回しでいうと

 レッテルを貼る

ことが虚構の効用
認知コスト簡略の方法論は 

あらゆる社会は想像上のヒエラルキーに基づいているが、必ずしも同じヒエラルキーに基づいているわけではない。その違いは何がもたらすのか? なぜインドの伝統的な社会はカーストによって人々を分類し、オスマン帝国の社会は宗教によって分類し、アメリカの社会は人種によって分類するのか? ほとんどの場合、ヒエラルキーは偶然の歴史的事情に端を発し、さまざまな集団の既得権がそのヒエラルキーに基づいて発達するのに足並みを揃えて、何世代もの間に洗練され、不滅のものとなる。




社会のヒエラルキーのなかで 男女間の格差についてだけは
100パーセント虚構に基づくといえない部分があります

 生物学的差異 ⇒ 「セックス」
 虚構に基づく差異 ⇒ 「ジェンダー」

です
ジェンダー論については さまざまなところで展開されていますし
特に『サピエンス全史』の記述が目新しいとは感じません

ただ この記述は目を惹きます

生物学的に決まっているものと、生物学的な神話を使って人々がたんに正当化しようとしているだけのものとを、私たちはどうすれば区別できるだろうか? 「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」というのが、有用な経験則だ。生物学的作用は非常に広範な可能性のスペクトルを喜んで許容する。人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ。生物学的作用は女性が子供を産むことを可能にする。一部の文化は、女性がこの可能性を実現することを強いている。生物学的作用は男性どうしがセックスするを楽しむことを可能にする。一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる。

文化は、不自然なことだけを禁じると主張する傾向にある。だが生物学の視点に立つと、不自然なものなどない。可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。自然の法則に反する、真に不自然な行動などというものは存在しえないから、禁じる必要はない。男性が光合成することや、女性が光速より速く走ること、マイナスの電荷を帯びた電子がたがいに引きつけ合うこと、わざわざ禁じようとした文化など、これまで一つとしてなかった。



 生物学の視点に立つと 不自然なものなどない
 可能なことは何であれ そもそも自然でもあるのだ

逆もまた然り

 不可能なことは何であれ そもそも自然であるのだ

この視点は 男女間の差異のみならず
「発達障害」と呼称されるヒトの個体間の差異についても及び得ます

「障害」は自然な現象です
自然なはずの現象を 「障害」だとするのもまた虚構の効用
すなわち社会現象にすぎません

もちろん 生物学的な障害も存在します
「発育障害」も自然現象ですが 生物学的です

「障害」には淘汰圧がかかります
淘汰圧に引っかからなければ「障害」としては認知されない
「障害」が生物学的なものか社会的なものかの差異は
淘汰圧に着目すれば判明します

社会的な淘汰なのか?
生物学的な淘汰なのか?

淘汰は「システム」の中の作用です
生態系も社会も 共に「システム」です

ぼくの記述では生態系システムの中の社会システムが〔システム〕です
社会的〔システム〕が生態学的システムを撹乱する場合には【システム】とします

ヒエラルキーによって出現した社会的不公正は

 【システム】による生態学的システム障害

であるというのが ぼくの認識です


『その9』へ続くとともに
こちらへも派生します



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