愚慫空論

『里の在処』




まだ 『この世界の片隅に』を引きずっています (^_^;)

『サピエンス全史』シリーズに戻りたいのですが
区切りをつけないと復帰できそうにない...
前回 「余すことなく表出できた」なんて書きましたが 嘘でしたね(^_^;)

というわけで この文章を書いています


内山節著『里の在処』 の冒頭部分をお借りします
『この世界の片隅に』の印象をいろいろとアタマの中で巡らせているうち
思い浮かんできたのがこの文章だったんです

現代人は知性でものを考える習慣をもっている。その知性は、いつでも前向きだ。知性は未来へと人々を誘う。まるで未来に無限の可能性があるかのごとく。その可能性の何分の一かを手に入れるべく歩いていけと知性は教える。それにしたがうかぎり、〈里〉も〈田舎〉も必要なものとは感じられない。このような意味で、現代人とは、知的な動物である。

ところが、知性を媒介としない人間の精神の領域は私は確かにそれはあると思っているのだが――、たえず帰る場所を探している。それをうまく表現できないから、そのことを私は、魂は帰りたがっている、と表現しておく。



すずの幼なじみ 水兵になった哲は すずを「ふつう」と評しました
上掲の内山さんの文章でいうなら 

 「ふつう」 とは 「知性でもの考えない」

ということでしょう
ゆえに すずは

 知性を媒介としない人間の精神の活動の領域

で生きます


内山さんは続いてこのように書きます

もしもそうだとするなら、現代人においては、知性と魂は不調和でありつづける。知性は前に向って歩こうとし、魂はどこかに帰ろうとする。



戦争は 前に向かって歩こうとする知性の顕れです
暴力とは ほんとうのところは 知性的な行為です
もっとも残虐な暴力は 感情を廃した純粋に知的な行為です
戦争における作戦行動では 純粋な知性こそが要求されます

そうした純粋知性の末端に加わった哲の魂は 帰りたかった
どこへ?

 「ふつう」へ


知性を媒介としない人間の領域へ
それが 内山さんのいう〈里〉でしょう
哲にとって〈里〉はすずでした
それは周作にとっても同じ

すずの知性は 魂と不調和なものではないのでした



戦艦大和ですら すずの知性を通り見ると こうです
際立ってはいても 風景と調和しています
周作や哲の目には こうは映っていなかったでしょう
晴美の目にも
彼らの目には 風景と不調和をなすことで際立つ存在に映っていたと想像します
不調和を為す際立ち――「憧れ」です


大和は〔システム〕の象徴と言えるでしょう
〔システム〕は客観的現実であると同時に 〔人間〕の主観の中の存在でもある

農業は〔システム〕の発端です
〔人間〕を植物に隷属する存在とする革命でしたが
当の〔人間〕のにとっては 田畑は〈里〉の一部だったりします

もっとも「魂が帰って行くところ」を田畑だとする文化を
ぼくは寡聞にして知りませんが






アップの日付は2007年9月1日
紀州の山村で棲息していた頃の ぼくの文章です

その婆さんは私のお向かいさんなのだが、いつも一生懸命畑仕事をしているその婆さんに向って、私は尋ねてみたことがある。「なぜ、そんなに畑仕事をするの?」
こう尋ねたのには訳がある。私たちの家庭はそのお向かいさんから、いつものように畑で出来た野菜なら何やら、いろいろとおすそ分けを頂く。ウチはウチで畑があって、妻がなんやかやと作ってはいるのだが、出来がわるかったり、またウチでは作っていない種類のものがあったりで、いろいろとおすそ分けを頂戴するのである(たま~に、ウチからもお向かいさんに行くこともある)。
もちろん、ご自分の子どもたちのところにも農作物を頻繁に送っている。ときには頂きものを私たち夫婦の親戚にまで送り届けたりすることがあり、それでもお向かいさんの畑には、誰の口に入ることもなく捨てられてしまう農作物が山と残るのである。

私が質問をしたのはそうした状況を踏まえてのことであった。もう高齢で畑仕事も決して楽ではなかろうに、必要以上に畑仕事をしなくても、いわば需給調整をすればという意味で、上のような質問を発したのだった。

返ってきた答えは「これは私の趣味」というものだった。この答えに私はそれ以上なんと返したらよいか、わからなかった。ただわかったのは、その答えのそのものには意味はない、本当は趣味なんかではない。それがその婆さんの生き方なんだということであった。


この文章を書いてから10年経ちましたが
まだ お婆さんは元気にしているそうです
畑にも まだ出ているという
羨ましい限りです

婆さんに見えていた畑 と ぼくが見ていた畑
同じ畑でも 違った風景に見えていたことでしょう

婆さんにとって 畑は自身の内発性を発露させる〈場〉だったんだと思います
婆さん個人にとって 畑は〔システム:〕ではありません
ですが 人類全体で見るならば やはり畑は〔システム〕だと言わざるを得ない

畑は〔システム〕だ という言は知性的だと言っていいと思います
冷酷な響きがある言です
婆さんには理解できないだろうし 理解しようとしないでしょう
理解できたなら 不機嫌になるに違いありません


ヒトは こういうことにはとても敏感です
己が不機嫌になってしまうことには 理解に先立って不機嫌なんです
理解を経て不機嫌になるという過程を踏まない
先立って不機嫌になり 理解を拒むという態度に出る

ヒト一般に広く見られるこの態度は 
実はぼくにとっては 不思議な現象だったりします
ぼくには なぜか 
理解に先立って不機嫌になるという回路 が存在しないようなのです

この回路の有無も ニューロティピカルとエイティピカルの差異なのかもしれません
そしてぼくは
この回路こそが 〔システム〕を【システム】たらしめる元凶だろうと 疑っています




というわけで(?)
やっと『サピエンス全史』シリーズへと戻ることができそうです
まだ先は長そうだし その先もありそうな予感がしています
なので 「寄り道」は控えて 少しペースアップしてみたいと思っています
思ってはいますが....(^_^;)



ショパンのピアノコンチェルト
都会への「憧れ」に満ちていた若き頃の作曲ですが
この演奏で聴くと 魂の帰還願望の音楽 のように聞こえます



「希望」や「憧れ」と「郷愁」は 〔人間〕の精神の裏表なのかもしれません

コメント

そりゃ そうでしょう。
だって愚慫さんは、自分のいいようにしか「理解」しないじゃないですか。 (^o^)

・アキラさん

あはは、端的なコメントありがとうございます(^o^)

そうなんです、どうやらぼくは「魔境」にいるみたいです。

でも、ここが「魔」かどうかは疑問です。
ここが「魔」だとすると、ぼくが見ている「希望」はいったい何なのか?
どうやらみなさんには見えないらしい。
「希望」が見えないなら、その場所こそが「魔」ではないのか?

みんなで仲良く絶望を眺めていても、仕方がないでしょうに...
「仲の良い場所」が「絶望」だなんて、ほんと、「逆接」ですよ。

いずれにせよ、しばらくは「魔境」から見える風景をお届けします。
お楽しみ頂ければ、幸いです(^o^)

「仲の良い場所」だって「絶望」だって「希望」だって、どっちにしたって「虚構」じゃないですか。 (^^)

「仲の良い場所」は虚構だというのには同意です。
「希望」も同意できます
ですけど、「絶望」は同意できません、僕には。

「絶望」は「妄想」だと言う方がむしろ近いです。
なぜなら、共有不能なものだから。

そうか、もしかしたら、アキラさんにとって「絶望」とは共有可能なものなんですか?

独り言

「希望」は「可能性」と言い換え可能です。
では、「絶望」は「不可能性」と言い換え可能か?

「絶望」の「不可能性」への書き換えは、誤変換だと僕は思います。
むしろ「妄想」のほうが「不可能性」への変換としては妥当でしょう。


「絶望」は「共有不能」と同一と言えるかどうかは疑問ですが、極めて近いと感じる。
極めて個的なものです。

「妄想」「不可能性」は実現可能性はないが、共有することはできる。
「希望」「可能性」は、共有可能なのはもちろん、実現可能性もある。

「虚構」とは、
 1.共有不能
 2.共有可能/実現不可能
 3.実現可能
の3つのヒエラルキーのなかの、3.に属するものだと思う。

実現可能だけれども、未だ実現されない“虚ろな”構造。
『サピエンス全史』で扱われている「虚像」は、そうした虚像。
すなわち『サピエンス全史』は、虚像の発展史だといえる。

たとえば西暦1500年の時点で、「月面到達」の言は、確実に「妄想」だった
それが1950年には「虚構」へと“昇格”していた。
2000年にはさらに「現実」へ昇格した。

サピエンス社会に存在する大半のモノは、物質的なもの、サービス、データを問わず、
かつては「妄想」だったはずのものが「虚構」を経由して「現実」となったもの。
サターンロケットも、原爆も、コンピュータも、国家も、民族も、資本も、貨幣も、全部、そうした過程を経て「現実」化したもの。

原爆は、最初はアインシュタインやオッペンハイマーやフォン・ノイマンの頭脳の中にある「虚構」に過ぎなかった。それがサイエンスという卵子と受精し、テクノロジーという胎盤に育まれて「実現」したもの。

「サイエンス」も「テクノロジー」も、もとは誰かの頭脳の中にあるだけの「虚構」でしかなかった。コンピュータも、国家も、民族も、資本も、貨幣も。故郷ですから、そう。

「虚構」は「妄想」から選別育成されて、さらに「現実」へと成長していく。
そうして誕生した「現実」は、「妄想」を新たに選抜し直し、新たな「虚構」を育み始める。
これは「マーケティング・イノベーション」の原理そのものと言っていいかもしれない。
そうした原理があるから、「虚構」は発展すると言い得るし、ゆえに歴史を形成することになる。

ひと言だけ。 (^_^;)
「可能性」=「希望」(あるいは「可能性」≒「希望」)とは言えんでしょう。
「可能性」は「可能性」だし、「希望」は「希望」でしょう。 (^_^;)

・アキラさん

ご指摘ありがとうございます。
仰るとおりです。

「希望」は「妄想」の可能性大ですからね (^_^;)

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