愚慫空論

三度 『この世界の片隅に』




メインで取り上げるのは3度目です

 1度目はコチラ (^o^)っ リンク
 2度目はコチラ (^o^)っ リンク
言及した文章はたくさんあります
1度目以降をたどってもらうと 高確率で『この世界の片隅に』に出くわします
取り憑かれています (^o^)

だもんで 3度目はあるだろうなと自分でも思っていました
漫画版を読んだら きっと何か書かずにはいられない

  


実は もうすでに入手してあるのですが

ところが『君の名は。』を観てみると 語りたいことが湧き上がってきました
それで図らずも 3度目になってしまったわけです



『君の名は。』は良い映画でした
特級の美酒です
心地よく酔わせてくれます

で 後に何が残るのかというと 特段 何もない

映画を見終わって 映画館から出ていく
入ってきた通路を逆にたどって シネコンの入口に戻り
シネコンの建物を出て 街に戻る

この過程で「酔い」は醒めていきます
周囲に拡がるのは 映画館に入る前と同じ風景
時間が経過しているので その分の変化はありますが
心象的には 同じ風景 です


『この世界の片隅に』は ちょっと違います
同じはずの風景が 同じ風景 に見えない
少し違ったふうに見えてくる 見える気がする


「つながり」だと思うんです

『君の名は。』の世界とは つながりは感じられない
『この世界の片隅に』の世界とは つながっていると感じる

この違いは 何なのでしょうか?

『君の名は。』は架空の話
『この世界の片隅に』は史実を下敷きにしている

この違いはあります
だけど この違いだけで 
視聴者であるぼくの心象風景に違いが生じるとは思えません

客観的な「つながり」であるなら
影響があるのも客観的なはずで
でも 客観的には風景は変わらないのだから
「見える風景」だって変わらないはずです

それが 変わった のだとしたら
変化が「つながり」によるものだとしたら
その「つながり」は客観的なものではないはず

主観的な「つながり」であるならば 
当人が(ぼくが)つながりたいと思ったか 思わなかった
それに尽きるのかもしれませんが
そんな結論では面白くありません


『君の名は。』はラブストーリーです
天地動転して 若い男女が出会う
出会いの過程を 魔術を駆使して 盛り上げて見せた
乱暴に端的に言ってしまえば それだけです

見終わってみれば 彗星が衝突したことなんて 

 どうでもいい

ことになってしまっています
大げさな彗星衝突も 大げさだけど アクセサリーにすぎなかった

この「どうでもよさ」が「つながりのなさ」になるんだと思います


『この世界の片隅に』は その点が違います
ここの世界で描出されている風景には「どうでもよさ」はありません

いえ
本当にそうか?
確かに 戦中の暮らしぶりは 本物のように描かれいるのでしょう
だけど そのことが どうでもよくない「大切なこと」になるのか
疑問です

というのも
 「どうでもいい」
 「大切」
は ぼくにとって だからです

現在の世界にとって暮らすぼくにとって
戦前戦中の暮らしぶりは どうでもいい ことです
描出されていた風景にリアリティは感じますが
そういうなら 『君の名は。』の風景にだってリアリティはあった
現代の東京の風景など 現実そのままなんだからリアリティがないわけがない

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」は関係がありません
それはおそらく 「ふたつの現実」を生きる 〔人間〕 の特性でしょう

リアリティと「どうでもよさ」「大切さ」が関係ないなら
『この世界の片隅に』だって 乱暴に端的に言ってしまえば 
すずと周作のふたりが 「生きていることを確認する話」 にすぎません

 『君の名は。』が出会い すなわち「出発点」なら
 『この世界の片隅に』は 「確認と再出発」

これでは何の回答にもなりません


ぼくの心象風景に違いを生む「つながり」
ぼくにとっての「どうでもよさ」と「大切さ」につながっているはずです
それは『この世界の片隅に』の何処にあるのか
このことはやはり 「ふたつの現実」に関係するのだと思います


『君の名は。』と同様に 『この世界の片隅に』も
 起承転結
で語ってみましょう

『この世界の片隅に』は セオリーの通り

 「起」 「承」 「転」 「結」

の順序で構成されています

「起」に相当するのは すずが結婚するまでの暮らしぶり
「承」に相当するのは すずが結婚してからの暮らしぶり

結婚は「転」ではありません
自然に「起」から「承」へと推移する 「ふつうのこと」に過ぎない

すずが結婚して呉へ移り住んでから
水兵になった幼なじみが すずが嫁いだ北条家に訪ねてくる場面があります
危うい展開になる場面ですが
そこで水兵の水原哲は すずに幾度も「ふつう」という言葉を投げかける

すずは危うい言葉も吐きますよ

 水原さん
 うちはずっとこういう日をまちよったきがする・・・
 ・・・・
 うちは今 あの人にハラが立って仕方がない・・・!


このすずの言葉に
哲はすずの主人から暗黙のうちに了承されていたであろう「企て」を放棄して

 あーあー 普通じゃのう
 当たり前のことで怒って 当たり前のことで謝りよる
 すず お前はほんまに普通の人じゃ


この成り行きは 恋愛や結婚を「転」あるいは「結」とする
『君の名は。』的世界からは了解不能のものでしょう

けれど すずのこの「ふつう」は行きすぎでもある
ぼうっとしていて 「ふたつの現実」のうちのひとつに気がつかなくて
だからこそ 「ふつう」でいられる



 すぐ目の前にやってくると思うた戦争じゃけど
 いまはどこでどうしとるんじゃろう


この動画の20秒過ぎにでてくるすずのセリフです

 「いまはどこでどうしている」 ですと?
 目の前にあるではないか
 すずは 戦争がある日常生活に生きいるではないか


視聴者であるぼくには 戦争 は見えている
すず以外のキャラクターにも見えている
水原哲は 戦争という日常生活 に生きている
だけど すずだけは 単なる「ふつうの日常生活」を営んでいて
戦争が見えていない
いえ 戦争もまた日常生活だと思っている
戦争を異常だとは思っていない
戦争の異常さを認識できていない

すずにとっては 兄の戦死も「どうでもいい」ことです
そのことを「曲がっとる」と すず自身自覚するシーンもあります

 鬼いちゃん死んで 良かったと思ってしまっている


その「曲り」は別の形 それももっと過激な形で現れています

玉音放送を聞かされた後の すずの怒りのセリフ

 そんなん覚悟のうえじゃないんかね?
 最後のひとりまで戦うじゃなかったんかね?
 いまここへまだ五人も居るのに!
 まだ左手も両足も残っているのに!!
 うちはこんなん納得できん!!!


この怒りの後に訪れるのが「転」です

 暴力で従えとったという事か
 じゃけえ暴力に屈すという事かね
 それがこの国の正体かね
 うちも知らんまま 死にたかったなあ・・・・。


余談ですが、このシーンと真逆の「転」をぼくは思い浮かべることができます
暴力と思っていたものが 実は「思いやり」だったということを理解するシーン
 
 (^o^)っ 『小さな〈折り合い〉が織りなす大きな〈世界〉』

すずはずっと〈織りなす世界〉に棲んでいました
棲んでいるつもりでした

冒頭に掲げた画像は そのことをよく表現しています
すずの心象風景です


「結」においてすずが為すのは 再選択 です
それまでは 自覚できなかったがゆえに
無自覚に行っていた「選択」を
こんどは自分の意志で為すという「再選択」

不安ベースの【不機嫌】な世界を
【不機嫌】へのレセプターに欠けていたがゆえに
〈上機嫌〉に内発的に生きていた すず

そのすずにも【不機嫌】へのレセプターが生じます

【不機嫌】への芽生えのシーンは
姪御と右手を失った爆発から意識を取り戻したときです

 昨日 ない事を思い知った右手
 六月には 晴美さんとつないだ右手
 五月には 周作さんの寝顔を描いた右手
 ・・・


これらのセリフがハウリングする
すずの「ゲシュタルト崩壊」がよく表現されています


このシーンを 少し別の視点から眺めてみます

これは「喪失」です
『君の名は。』では 「喪失」が「転」になりました。
「喪失」が「転」になったのは  主人公ふたりの「喪失」と
 ぼくの「喪失」とが一致したからでした

『この世界の片隅に』においては 
すずの「喪失」と ぼくの「喪失」は 一致しません
なぜなら すずがこの場面において崩壊に至った「ゲシュタルト」は
ぼくにとっては とうの昔に崩壊済みのものですから
いまさら「喪失」ではない
だから ここでは 新海誠監督が労したような「魔術」は働きません

原作のこうの史代さんと監督の片渕須直さんが用いるのは魔術ではありません
だから その機序が理解できても 効力は霧消しない

すずは ぼくたちが知らずのうちに崩壊させてしまっている
 「ゲシュタルト」を見せつけてくれます
それは 戦争がそのなかに含まれていようがいまいが

 「ふつうの日常」を生きる

ということです
ぼくたちは 戦争を含む日常が「ふつうの日常」ではないことを すでに知っています
それは『この世界の片隅に』によって知らされたのではなく
この映画を観る前からすでに知っていたことです
すず以外のキャラクターもみんな知っていることです
幼い晴美でさえ知っていること
ただ すずひとりだけが知らないこと

それが【不機嫌】へのレセプターが生まれ
玉音放送を聞かされたことで

 ぼくたちと「同じ」になる

すずは その特殊性を消し去ることで 特別な存在になりました
ぼくたちがイメージできない「現実の二重性」が生まれるさまを
すずは劇的に見せつけてくれる
劇的に ぼくたちと「同じ」 になることで 

 特別に「同じ」存在

だというポジションに座ることになります

それまでのすずは 特異な存在だったんです
象徴的なのは たとえば 憲兵に詰問される場面です

呉軍港を写生していたすずは 憲兵に見とがめられ 間諜だと疑われる
憲兵はすずの特異性を知らないので その当時の情勢からすれば 当然でしょう
でも 家人は笑わずにはいられない
特異なすずには ありえないことだから

だけど 「転」以降のすずは違います
特別な存在ではあっても 特異な存在ではありません

そのすずが
ぼくたちと「同じ」になったすずが もう一度

 〈上機嫌〉な存在たるべく再選択

します
それが「この世界の片隅に」というタイトルの意味ですね


話を「どうでもよさ」「大切さ」に戻します

ぼくにとって大切なことは 日常 です
ぼくにとってどうでもいいことは 戦争 です

すずは「大切なこと」しか見なかった
いえ 見えなかった
見えるようになって以降も 「大切なこと」を見ようと再選択した

そのすずの「同じ」から「再選択」への意志が
ぼくにとっては「大切なこと」です

「どうでもいいこと」が 
「どうでもいいはずのこと」になって
 いつの間にやら
「どうしようのないこと」になってしまった結末が 戦争です

「大切なこと」は
 本当は
「大切にしたいこと」です
意志が入っている

すずの「再選択」は ぼくの中にもある「意志」を再確認してくれます

「二重の現実」の中で生きているぼくたちは
「どうしようもないこと」から免れることができません
だから 知らずのうちに【不機嫌】になってしまっている

 「したいこと」をする人間は〈上機嫌〉
 阻害される人間は【不機嫌】

ごく単純なことです

そんな【人間】であるぼくにも 〈上機嫌〉への〈意志〉はある
その確認ができたことが「つながり」です

そういうふうに「つながり」ができて
ぼく自身の「意志」のありようが変わると
自身の心象風景も変わります

当たり前に「どうしようないこと」として受け容れていた風景が
「どうにかなるもの」として見えるようになる


「どうしようもないこと」を受け容れてしまっている者にとっては

 「どうにかなるもの」として見える

ということが「魔術」に思えるでしょう
そうした者にとっては 『この世界の片隅に』も『君の名は。』と同等の

 消費物

にすぎませんです。
【不機嫌】な日常からの 一時的な避難場所

この視点から見れば、『君の名は。』のほうが おそらく上等です
興行収入がその傍証です

『この世界の片隅に』はクラウドファンディングで育った作品だと聞いています
この事実が示すのは

 『この世界の片隅に』という作品そのものが
 「どうにかなるもの」として育ってきた

ということなんだろうと ぼくは思っています

※ やっと 3度目にして 感じたことを余すことなく表出できたような気がします (^o^)




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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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