愚慫空論

『君の名は。』




観ました
映画館に足を運んで観てきました (^o^)/

この映画はDVD発売までガマンするかなと思っていました
さほど期待もしていなかったし


けど、結局はミーハー(←もしかしたら死語)?
興行成績好調を伝える記事たちに釣られたんでしょう
僕の身分では高いコストを支払って観てしまいました


うん、まあ、1800円は妥当だと思います
思わぬ収穫もありましたしね




期待をしていなかったというのは本当です
「期待をしないという期待」は映画が始まってからも継続していました。


男子高校生とJK(←なぜにこの表記w)が入れ替わる
改めて指摘するまでもなく どこかで見た展開です
ストーリー展開はそれなりに工夫があった面白いのですが
気持ちはさほど入っていきません

  他人事を眺めてるのは 気楽で楽しいなあ〜

半ば突き放して ニヤニヤ眺めているという感じ



身体というのは正直です
映画館の座席に座って観ていたわけですが
にやけて観ていると身体もだらるんですね

ぼくはそうでなくてもまっすぐ座っているということが苦手なたちで
腰に負担がかかるのはわかっていても
ふんぞり返るような座り方が楽で そうしたくなってしまう

今は映画館で観ると 上映が始まる前に
ご丁寧に「あれはダメ これもダメ」って注意を促すじゃないですか
そのなかにも座り方への注意喚起がありますよね
前の座席に足を投げ出すなって

さすがにやりははしませんが できるならそうしたい身体だったりします
そういう注意があるということは 多くの人がそうしたいということなんでしょうけど

足は投げ出さないけど できるだけそういう姿勢になりたいから
前の座席の背もたれに膝をつっぱって できるだけふんぞりかえるw
が それも前の座席に人がいるとできないから ちょっと居心地が悪いww

そういう居心地の悪さを覚えつつ ニヤニヤ眺めていたわけです 前半戦


それが途中から 姿勢を正すというと大げさだけど
普通に椅子に座って鑑賞するようになっていた
惹き込まれたんですね



ストーリーの構成は
 起承転結
がセオリーと言われます

とはいえ 必ずセオリー通りに展開しなければならないわけではなくて
『君の名は』の場合 

 「起」「転」 「承」「 結」

の流れ
もう少し踏み込むならば

 「起」「転1」 「承1」「転2」 「結」

という構成です


今さらネタバレもないでしょうから具体的に書くと
「転1」は ふたりの主人公の入れ替わりが終了してしまうこと
つまり

 「喪失」

です

この「喪失」は3者にとって そう
3者とはつまり
立花 瀧宮水 三葉

のふたりに加えて

 ぼく

の3者

ここは 三者三様に「喪失」であることが大切なポイントです
三者三様でありながらも「喪失」であるから
ぼくは惹き込まれることになりました

主人公ふたりの「喪失」が何かを書くと
それこそネタバレですので触れるのはやめておきます

が ぼくの「喪失」については触れておく必要があるでしょう
それは

 「愉悦」

です
ぼくは 「起」の展開を
 他人事
 所詮は作り話
と半ば突き放しつつ だらけて眺めていただけなんですが
それでも「愉悦」はあったんです
感覚的な快楽です

その「愉悦」は ぼくが溺れたタイミングで奪われてしまいます
「喪失」に直面したぼくの身体は 「喪失」を補おうとする「運動」を始めます

一方で 「転1」に続く「承1」では
ふたりの主人公がそれぞれの「喪失」を補おうとして「運動」します
 立花 瀧のそれを「運動1」
 宮水 三葉のそれを「運動2」
しましょう

「運動1」と「運動2」を追いかけているぼく(の意識)と
「喪失」を補おうとしているぼくの身体の「運動3」

このような状況での「運動3」は ほぼ完全に無防備です
「運動1」および「運動2」が相当にデタラメあっても ほぼ抵抗なく受け容れてしまう
受け容れることで喪失を補おうとすることが「運動3」だと言ってもいいでしょう


ぼくが『君の名は。』で得た収穫は

 無防備への認識

です
 彗星が降ってきた(←「セカンドインパクト」?) 
 過去の出来事の体験(←「タイムリープ」?)
どこかで観たようなアニメ要素が 現実にはありえない形で展開されます

彗星落下ややタイムリープがありえないのは「設定」だからまだいいとしても

 三葉が住む田舎に高校なんて ありえなくね?
 本当に彗星が落ちたなら 東京だって無事で済むはずがないよね?

とか ツッコミどころは各所にあるんですが
そんなことはもはや どうでもいい んです

極めつけだと思ったのは 彗星の破片の隕石が落下して
集落が破壊されていくシーン
こうした悲劇的なシーン(悲劇が連想されるシーン)には悲劇的な音楽が相応しいはず
それなのに 背景で流れるのはポップな音楽
そこだけを切り取れば 感覚的にありえないと思うんだけど
文脈的にはありだと感じてしまう
デタラメさを感じない

「喪失」を補おうとする身体の本来的な動きをうまく利用して
相当にデタラメでツッコミどころ満載であったとしても

 どうでもいい

という状態に身体を誘導してしまうこと
この「誘導」が『君の名は。』の魔術の正体です

魔術はデタラメではないんです
そういう現象が起こる機序がある
その意味では科学と同じ
ただ 魔術の場合 機序が理解できるとその有効性を解除することができます
その点は 科学とは違う
科学は 機序を理解しようがしまいが 万人万物に平等に働きます


『君の名は。』の意地が悪いところ(←称賛です)は
この「魔術」が二段構えになっているところです

「承1」で展開される主人公ふたりの「運動1」と「運動2」は
視聴者であるぼくの期待通り
ふたりの邂逅という形でいったんは実現します
するが すぐに「転2」になって またしても奪われる
しかも 互いに認知したはずの互いの名前まで互いの記憶から「喪失」する

なぜそんなことになるの?
理由はありません
デタラメです

でも 魔術にかかっているぼくにはもはや どうでもいい
重要なのは またしても「喪失」したということ
またしても「運動」が始まったということです

『君の名は。』のタイトルの由来が「転2」にあることは明白です
が このタイトルがこの物語を端的に表しているわけではない
『君の名は。』の主題は「喪失」です


思い返せば 『秒速5センチメートル』もテーマは「喪失」でした


もそうでした
してみると 新海監督のテーマが「喪失」なんだろうという推測が立つます



こちらも

これら3作品は 「喪失」というテーマが 描かれ方は異なるけれど 剥き出しで出ている
その意味で 作品に監督個人のメッセージ性がある
その点 『君の名は。』は 視聴者の欲求に寄り添っています
そうすることでエンターテイメント性が高まった
では その分 メッセージ性は失ってしまっているのか?

相対的にはそうかもしれません
エンターテイメント性が大きくなった分 メッセージ性の比重は小さくなったとは言える
だけど そのエンターテイメント性の源泉もまた「喪失」にあるわけだから
内実的には より充実した作品だと言えるのではないか


「喪失」というテーマは 〔人間〕にとって 相当に根源的なテーマだと思います
ということは 「喪失」の「埋め戻し」もまた〔人間〕には根源な欲求だということです

『君の名は。』の興行収入が
多くのジブリ作品を抜き去って上位にランクインしていることが話題になっています

宮崎駿夫さんの作品と比較して感じることは 思想性です
宮崎さんの作品には 某かの思想性がある
一方 新海さんには思想性はあまり感じられないんですね

そういった作品が エンターテイメント性だけで 興行成績とはジブリ作品を凌駕している
実はぼくは 残念なことだな と思っていたんです
「期待していなかった」というのは 思想性は期待できないと思っていたから

けれど 視聴後の感想は違います
残念などでは 決してない
それだけの作品だと思う
言葉でできた思想性より深いも深い 感覚的根源性があると思います
リピーターが多いのも頷けます

もっとも ぼくは もう一度観たいとは思いません
魔術の仕組みが理解できてしまって 次 観ても もう魔術にはかからないだろうから



余談ですが 『君の名は。』を観た後
また 『この世界の片隅に』も観てきました

ぼくにとっては 『君の名は。それだけの余力を残してくれる作品だったわけです
『この世界の片隅に』については 近いうちに 三度 語りたいです

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