愚慫空論

『天国への階段』




MoonLight Sonata
月光ソナタ
ベートーヴェンです

ぼくはもう ほとんど聴くことがなくなりました
陳腐に思えてしまんです

youtubeで こんな動画を見つけました
月光ソナタの第三楽章
ハデなところをエレクトリックギターで奏でたもの



なかなか面白い――
と思ったものの すぐに飽きてしまいました
楽曲が持つカタストロフを電気的に増幅しただけ

いえ 「だけ」は言い過ぎだけど 
感覚的なところの基本部分ははそう言って差しつかえない
ぼくはもう この手の刺激はすぐ「お腹いっぱい」になってしまいます

こういった刺激を欲する向きは多いと思うし
現にこうした刺激は満ちあふれていますけど
こういったものを求めて止まない心身というのは 異常事態なんだと感じます


そうした刺激を欲しているのなら それを求めるのは悪いことではない
それがその時の欲求であるのなら 節制などせずに従うのがいいと思う
だけど その状態は異常事態なんだということは
知識としてでいいから 頭の隅に置いておいたほうがいい
そうしておくだけで 異常でない状態への探求がいずれ始まる
自然な心身とはそういうものだと ぼくは思っています

そうあって欲しいという ぼくの願望かな...


それはともかく
エレキ版『月光ソナタ』に出会って 思い至ったことがあります
これは【不機嫌】な音楽なんだ と
言い方を変えれば 「怯え」
不安がベース

出だしは神秘的です
富士山にはお月さんがよく似合う
月光に輝く秀麗な富士の山容は 『月光ソナタ』の響きに似つかわしい

しかし
『月光ソナタ』を作曲したころのベートーヴェンの心身からはかけ離れていた
瞑想してみたら 奥底の情念を吹き出してきた

 第1楽章 瞑想
 第2楽章 平穏
 第3楽章 激情

と 言葉にしてみて またふと思い当たりました
『月光ソナタ』をエレクトリックにオーバーアチーブすると これになる



『月光ソナタ』 1801年の出版
『天国への階段』 1971年に発表

170年の時間を隔てて世に出された作品に 似通っているものがあったとしても
それは単に偶然かもしれませんし そう考えるのが普通でしょう
が 普通には考えないのが ぼくの流儀 (^o^)

大胆に(いつものように?)言ってみます

 平穏の奥に激情が隠蔽されている
 この構造はキリスト教の精神構造だ



前回 こういう音楽を紹介しました



J.S.バッハの『マタイ受難曲』 その核心部分
  「このお方は神の子なりき」

この驚愕と畏怖には沈黙せざるを得ません
沈黙といっても 維摩のそれとはまったく正反対
前者は言葉を奪われる 後者は言葉を超える

言葉を奪われてしまうと 平明になったように感じられます
だけど 真に平明になったわけではない
自ら言葉を鎮めて瞑想・沈黙へと至ると 隠蔽されていた激情が吹き出してくる
そして その激情を「救済」だと勘違いしてしまう

洗脳 とまで言ってしまうと言い過ぎでしょう
〔人間〕は 自ら求めてそうした隷属を求めるところがありますから


おまけ

こちらも前回紹介したヴィヴァルディの『四季』の一部を
エレクトリックにしたものの紹介
「冬」の部分です
嵐の描写です



このご機嫌さも【不機嫌】か?
そう聞えなくはないですね

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