愚慫空論

『サピエンス全史』その6~想像上の秩序

当記事は 前回 および 『その5』 からの続きです


 


『サピエンス全史』シリーズは すでに第2部に突入しています

第2部 農業革命

 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇
   贅沢の罠
   聖なる介入
   革命の犠牲者たち

 第6章 神話による社会の拡大
   未来に関する懸念
   想像上の秩序
   真の信奉者たち
   脱出不能の監獄

 第7章 書記体系の発明
   「クシム」という署名
   官僚制の驚異
   数の言語

 第8章 想像上のヒエラルキーと差別
   悪循環
   アメリカ大陸における清浄
   男女間の格差
   生物学的な性別と社会的・文化的性別
   男性のどこがそれほど優れているのか?
   筋力
   攻撃性
   家父長制の遺伝子


当記事は 第6章を取り上げています

いつものように引用を多用します
今回はここから始めましょう

ここまでの数段落を読みながら、椅子の上でで身もだえした読者も少なからずいたことだろう。今日、私たちは多くのそうした反応を見せるように教育されている。



第6章は『サピエンス全史』のなかでも圧巻の部分だと思います
ここからページを開いてみるのも 読み方としては有効かもしれません
身悶えせずにいられない記述に溢れていますから

ここに展開されている記述は
もしかしたら多くの人が薄々気がついていることなのかもしれません
気がついてしまってはいけないこと
気がついてしまうと危険なこと

ヴォルテールは神についてこう言っている。「神などいないが、私の召使いには教えないでくれ。さもないと、彼に夜中に殺されかねないから」と。



想像上の秩序
ぼくの言葉で表現すると 言語現象世界秩序

本章で例として取り上げられているのは

 ハンムラビ法典
 アメリカ独立宣言


ハンムラビも自分のヒエラルキーの原理について同じことを言ってもおかしくないし、独立宣言の大部分を起草したトマス・ジェファーソンにしても然りだ。ホモ・サピエンスには自然権などないし、それはクモにも、ハイエナにも、チンパンジーにも自然権がないのとまったく同じだ。だが、私たちの召使いには教えないでほしい。さもなければ、私たちは彼らに殺されかねないから。

そのような恐れはしごくもっともだ。自然の秩序は安定した秩序だ。重力が明日働かなくなる可能性はない。たとえ、人々が重力の存在を信じなくなっても。それとは対照的に、想像上の秩序はつねに崩壊の危険を孕んでいる。なぜならそれは神話に依存しており、神話は人々が信じなくなった途端に消えてなくなってしまうからだ。想像上の秩序を保護するには、懸命に努力し続けることが欠かせない。そうした努力の一部は、暴力や強制という形を取る。



  努力し続けることが欠かせない

この「欠かせないもの」は農業革命から始まっています
『サピエンス全史』に明確に指摘はされていませんが
流れとして明らかでしょう

 人は救済と思い込んで 隷属を求めて闘う

スピノザの言葉です
救済と勘違いてしまった隷属への希求が始まったのも
やはり農業革命から

隷属を求めての闘い すなわち「懸命の努力」が
暴力や強制という形を取ることになるのは 必然です

暴力や強制の元となる心因を ぼくは
 
 【恨】 

と表現することにしていますが
これについてはまた別のところでまとめることにします

ここでは 流れに逆戻りしてしまいますが ひとつだけ振れておきます
「第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇」の中の「革命の犠牲者たち」から

人間と穀物とのファウスト的な取引は、私たちサピエンスが行った唯一の取引ではなかった。ヒツジやヤギ、ブタ、ニワトリといった動物たちの運命に関して行った取引もある。野生のヒツジを追い回していた放浪の生活集団は、餌食にしていた群れの構成を少しずつ変えていった。おそらくこの過程は、選択的な狩猟とともに始まったのだろう。


とはいえ、羊飼いではなくヒツジの視点に立てば、家畜化された動物の大多数にとって、農業革命は恐ろしい大惨事だったという印象は免れない。彼らの進化上の「成功」は無意味だ。絶滅の瀬戸際にある珍しい野生のサイのほうが、肉汁たっぷりのステーキを人間が得るために小さな箱に押し込められ、太らされて短い生涯を終える牛よりも、おそらく満足していただろう。満足しているサイは、自分が絶滅を待つ数少ない生き残りだからといって、その満足感に水を差されるわけではない。そして、牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない。



人間と家畜の関係は
【システム】と〔人間〕の関係に そのままアナロジカルすることができます



ついでにこの動画も




話を元に戻して ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言です

ハンムラビ法典は、バビロニアの社会秩序が神々によって定められた普遍的で永遠の正義の原理に根ざしていると主張する。このヒエラルキーの原理は際立って重要だ。この法典によれば、人々は2つの性と3つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)にそれぞれの性と階級の成員の価値はみんな違う。女性の一般自由人の命は銀30シュケル、女奴隷の命は銀20シュケルに相当するのに対し、男性の一般自由人の目は銀60シュケルの価値を持つ。


彼らの独立宣言は、普遍的で永遠の正義の原理を謳った。それらの原理は、ハンムラビのものと同様、神の力が発端となっていた。ただし、アメリカの神によって定められた最も重要な原理には、バビロンの神々によって定められた原理とはいくぶん異なっていた。アメリカ合衆国の独立宣言には、こうある。 

我々は以下の事実を自明のものと見なす。すなわち、万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる。



ハンムラビ法典とアメリカ独立宣言の共通点
 ⇒ともに 普遍的で永遠の正義の原理を略述するとしている

両者の相違点
 ⇒ 前者は「万人は平等でない」とし 後者は「万人は平等だ」とする

では どちらが正しいか
 ⇒ どちらも間違い

ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな創造力や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、客観的な正当性はない。



平等と人権の擁護者は、このような論法には憤慨するかもしれない。そしておそらく、こんなふうに応じるだろう。「人々が生物学的に同等でないことなど承知している! だが、私たちは本質において平等であると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。私は、それに反論する気はさらさらない。それこそまさに、私の言う「想像上の秩序」に他ならないからだ。私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じていれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪や陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。ただし、覚えておいてほしいのだが、ハンムラビなら、ヒエラルキーについての自分の原理を、同じロジックを使って擁護したかもしれない。「上層自由人、一般自由人、奴隷は、本来異なる種類の人間ではないことを、私は承知している。だが、異なっていると信じれば、安定し、繁栄する社会を築けるのだ」と。



下線を引いた部分
ここがぼくと『サピエンス全史』著者の相違点です。
ぼくは 反論する気満々です (^o^)

想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいるわけだ。



「自由」に向かうしかないのなら そのとおり
が そんなことは一体 誰が決めたのか?

想像上の秩序から逃れる方法がないことには同意します
〔ヒト〕が〔人間〕である以上 どうしようもないことです

が 想像上の秩序(言語現象世界秩序)は
ユヴァル・ノア・ハラリさんが指摘するように 造り変えることが可能なもの
今後も造り変えられていくことに間違いはありません

本書のもっとも大きな価値は

 想像上の秩序は造り変えられてきたのだ

ということを指摘しているところだとぼくは考えます
その意味において 第6章はまさに圧巻です
その上 さらに 

 どのように造り変えられてきたのか

も記述がなされている
つまり 歴史 です
この意味における圧巻は科学革命における記述だと思います
科学革命については 後述します
 
想像上の秩序がどのように造り変えられてきたのかの記述を通じて
判明してきたことは

 〔自由〕に向かっては もはや行き詰まっている

ということです

〔自由〕というのは おそらく

 〔ヒト〕が〔人間〕になろうとすること

そのものなのでしょう
ぼくとても その価値を認めないわけではありません

ですが 行き詰まっていることが明らかなのなら
価値を認めた上で 別の方向性を模索する必要があるでしょう

 もはや〔人間〕は もう十分に〔人間〕になった

だったら どうするか

 〔ヒト〕に戻る

いえ 〔ヒト〕には戻れません 不可能です
ですが そのように信じることは可能だし
そのように信じた上で 想像上の秩序を構築することも可能なはずです

問題は不可能だと理解しつつ 信じることができるのかという点ですが――

 ⇒ 愚慫空論 『自在主義』

そういうことをやろうとした人物
いえ 正確には 

 やろうとしたと 拡大解釈可能な業績を残した人物はいる

とぼくは思っています



『その7』へと続きます

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