愚慫空論

音色に哭く

American Idiot
先日、とある人の勧めで音楽CDを購入した。そう、ロケンロール。ここ1週間ほど、時間を見つけてはGreen Day の american idiot を聴きこんでいる。

正直なことを言うと、ロックは私の好みではない。好みではないどころか、積極的に嫌いといっても良いかもしれない。なぜ、ロックが嫌いなのか? 迂闊なことに深く考えてみたことはなかったのだが、このGreen Day のCDのおかげでそれがよくわかったような気がする。

1曲目はアルバムタイトルと同じ american idiot。“バカなアメリカ人”といった意味だろう。エレクトリック・ギターソロに続いてすぐにドラムスが入ってくるアップテンポなイントロ。そして、ボーカルが

Don't wanna be an American idiot.
Don't want a nation under the new mania.
...

そう来たか。って、タイトルからそう来るのは予想できるんだけど。でも、わかるような気はする。叩きつけるようなビートと奇妙にポップなメロディとこの歌詞とが訴えるメッセージ性。かなりアイロニカル。

だが...。わからなくはないけども、どこか落ち着かない。音が耳障りに感じられてしまう。これはロックを聴くときにはよく感じること。いつもという訳ではないけれども。

つづく2曲目、3曲目、4曲目。やはり落ち着かない。5曲目 Are We The Waiting 。これは、いい感じ。いい感じだけど、何か引っかかる...。

飛んで11曲目、Wake Me Up When September Ends(9月の終わりに私を目覚めさせよ?)。 アコースティック・ギターの音色にホッとする。エレキよりアコースティックのほうが断然いい。ひとり呟くようなイントロで、落ち着いて音楽に入っていくことができる。内省的な歌もいい。途中から入ってくるエレキにはやっぱり眉をしかめてしまうが、身体に入り込んだ音楽の流れを妨げてしまうほどではない。メロディーは同じようなものを繰り返しているように聞こえるが、微妙に転調がなされていて(ロック的にはコード進行と言えばいいのか?)、単に楽器が増えて音量を増やしただけで盛り上げているのではない。ちゃんと音楽にストーリーが感じられる。歌詞のストーリーに寄り添った、けれども音楽独自のストーリー。

けれど、もっとも“感じた”のはサビともいえないサビ(同じようなメロディを異なった響きで支えてサビを作っている)の後の、エレクトリック・ギターのソロ。私にはエレキの荒れたような音色は波長が合わないことが多いのだが、ときどき、その音色の痺れさせられることがある。これは、まさしくそれ。ソロのメロディは、イントロのアコースティックのそれと同じだが、メロディが同じなだけに音色の差が際立つ。


エレクトリック・ギターの音色に痺れている自分を意識したとき、はたと思い当たることがあった。同じ頃、別の音楽も聴いていて、その音楽を奏でる楽器の音色にも痺れていたから。その楽器とは、津軽三味線である。津軽三味線の名人とされている高橋竹山のCDは以前から所有していたが、papillonさんの自慢話を拝読したのがきっかけでその音色を改めて聴き直した。その音色の記憶とエレキの音色がリンクしたのである。

三味線もエレクトリック・ギターも、その音色にはどこか荒れたようなところがある。濁っているわけではないが、澄んだ音色というのとは明らかに違う、クセのある響きがする。改めて考えてみれば、三味線ロックなどという音楽ジャンルもあるようだから(一時、吉田兄弟なるものがよくメディアで取り上げられていた)、この2つの音楽の共通性は広く認められているわけだ。

papillonさんによると、津軽三味線は“哭かせなくてはならぬ”そうである。そして津軽三味線は、弦をバチで弾いて音を奏でるのではなく、叩くのだそうだ。叩いてこそ、三味線は“哭く”。してみれば、エレキもまた、“哭く”のではないだろうか。

Wake Me Up When September Ends 冒頭のイントロ、アコースティックの音色は“泣いて”いた。目に涙を浮かべているのか、はたまた涙がすうっと頬をつたって流れ落ちたのか。けれど、エレキの音になると、もうこれは声を上げて“哭いて”いる。もしかしたら、哭きながら身も心も踊っているのかもしれない。make dance but not for joy.

エレキの音が“哭いて”いるとするのなら、Are We The Waiting で引っかかったものも氷解していく。津軽三味線が雪の降りしきる津軽の冬に哭くものであるとするなら、エレキは摩天楼が立ち並ぶ街の冷たさに哭くものなのだろう。弦の振動が電気的に増幅されることもまた都会的な冷たさを際立たせているのかもしれない。だが不思議なことに、双方とも荒れた冷たさの向こうに人の温かさははっきりと感じられる。どちらも人が奏でる音楽、ということか。

ひとつ氷解すれば、またひとつ、ひとつと聴こえなかった響きが聴こえてくる。前々から意識はしていたけど、私のロック嫌いはエレキの荒れた音色に馴染めなかったことが大きかったのだ。そこに合点がいくと、聴こえてくる。荒れた音色も意味を伴って染み込んでくる。もはやロックは、嫌いでなくなったかもしれない。少なくとも Green Day は嫌いじゃない。

それにしても、同じ荒れた音色でも、津軽三味線には違和感を感じることはなかったのに、エレクトリック・ギターには落ち着かなかった理由は何だろう?


Green Day のこのアルバムの締めくくりは、Whatsername(どういう意味?)。単調にも聞こえるベースのリズムは、着実な人生の足取りを表しているかのようだ。思い出を積み重ねつつもそれを消化し、得るべきものは取り込んで心の栄養となす。マイナーな響きのなかにしなやかな力強さがある。


蛇足だけれど、“哭く”音楽というと、私にはどうしてもJ.S.Bach の Chaconne(シャコンヌ)が思い起こされる。津軽三味線やエレクトリック・ギターの音色に“美しい”という形容詞を冠するのは躊躇われるけれども、ヴァイオリンで奏でられるこの音楽は文句なく美しい。

コメント

愚樵さんとロケンロール?

愚樵さん,記事に取り上げていただいてありがとうございます.ほんとは記事は目立たぬように置いときたかったのですが(^o^)/
ところで,愚樵さんはクラシックのはず.なんでまたGreen Day ?なんぞを?私,知りません.ある人の勧めだとか.簡単に他人の勧めに乗るようなお人ではないような気がするのですがねぇ・・
でもGreen Day のエレキは『哭く』のですか.それが発見できてよかったですね.

70年後半から,ロックは私にとって雑音になってしまいました.息子が聴いてるのも私には雑音ですが,Green Day を知ってるか聞いてみます.

ヤクがひどくなってからのロックはどうも受け入れ難いです.その前まではギンギンでも好きだったんですけどね.

>Wake Me Up When September Ends 冒頭のイントロ、アコースティックの音色は“泣いて”いた。目に涙を浮かべているのか、はたまた涙がすうっと頬をつたって流れ落ちたのか。けれど、エレキの音になると、もうこれは声を上げて“哭いて”いる。もしかしたら、哭きながら身も心も踊っているのかもしれない。make dance but not for joy.

愚樵さん、これ、少なくとも私個人の考えるロケンロールの本質にぴったり合致しています。
私の血肉となっているバンドの一つにThe Whoという4人組がいます。彼らのTシャツに誇りを持って大書されていたフレーズが、「Maximum!!」。
感情と論理を電気で増幅する表現。「うるさい」「耳障り」であることは勲章でもあるのです。
そしてリーダーのピート・タウンゼンドは、「ロックは人を悩みを抱えたままで躍らせる」と語ったのでした。そしてもうひとり、ブルース・スプリングスティーンは、「生きてることを喜ぶことは罪ではないと信じるものたちのために」Badlandsに立って呼びかけたのでした。
しかし、アコースティックの静謐にもロックが流れる瞬間があることもまた事実です。

三味線とエレキギターにまつわる感覚は、私にとっては逆なのですが、自分自身について考えるにあたっても重要なヒントをいただきました。

で、whatsernameですが、たぶんwhat is her nameです。人生のある時期においてとてつもなく重要な意味をもっていた、今では「顔は覚えてるけど名前は思い出せない」「名もなき女」。リズムとビートによって、踊りながら深い内省の中に落ちて行き、過去を辿り直しながら今現在の立ち位置の確認と決意表明を行う、そういう曲だと理解しています。

息子は知っていた

Green Dayのこと,息子は知っていました.さも当然,というような言い方でした.でも最近,ほとんど会話がないので深いお話はできていませんのです.(^o^)/
今度CD借りて聴いてみます.話しかけるきっかけにすることの方がメインの目的だったりして・・・
私の若い頃の話は興味ないでしょうが,言えることだけ少し書きます.その頃はVocal無しの(instrumental)曲も多かったのです.ロケンローは歌詞でメッセージを送りますよね.でも津軽三味線やinstrumentalは音だけです.(もっともじょんがらにも歌詞はありますが,どういうわけかじょんがらの歌詞には全く魅かれません)

instrumentalでじょんがらのように音の洪水に埋もれてしびれていた曲はベンチャーズの『朝日の当たる家』です.繰り返し繰り返しレコードで聴いていました.

papillonさん

papillonさんの自慢話を勝手に取り上げてすみませんでした。このCDとpapillonさんの記事の邂逅がなければ今回の発見はありませんでした。感謝です。

>簡単に他人の勧めに乗るようなお人ではないような気がするのですがねぇ・・

はは。そうお感じになるのは自分でもわかります。いつも独りよがりの文章を書いてますし(笑)。けれど案外、他人の勧めには簡単に乗るほうなんですよ、これでも。さすがに詐欺には引っかかったことはないですが。

****

なめぴょんさん

>少なくとも私個人の考えるロケンロールの本質にぴったり合致しています。

そうなんですか。それは嬉しいです。

うん。でも、告白しておきますが、この文章はとあるクラシック批評文からの剽窃なんです。

吉田秀和著『私の好きな曲』~ベートーヴェン《弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131》より
「かつての彼には、なんと英雄的で、誘導者的なみぶりがつきまっとっていたことだろう! 《エロイカ交響曲》といわなくとも、《アパッショナータ・ソナタ》にしても、《皇帝協奏曲》にしても、あすこで叫び、とびはねていたのは、常人並み以上の存在だった。その超人ぶりは「瞑想」の時でさえ、失われていなかった。同じころ書かれ、以上のようの記念碑的なものではない作品、たとえば、《ラズモフスキー四重奏曲》をとってみて、作品59の1のヘ長調の中のアダージョ・モルト・エ・メストを、後期の四重奏曲の中の同じヘ長調の曲、つまり作品135の中の緩徐楽章レント・アッサイ、カンタンテ・エ・トランクィロと較べてみるがいい。ふたつは、ともに最も典型的なベートーヴェンの緩徐楽章に属する。というより、最もベートーヴェン的なるものが、そこにあるのだが、そうであって、同時に両者の間にある違いの大きいこと。前者では、彼は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。彼が膨張したとはいわないが、その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。ところが、後者はすすり泣きでさえ、もう、ない。ただ、声はきこえなくとも、彼の両目には涙が光っている。」

同 モーツァルト《クラリネット協奏曲 K.622》より
「このアダージョを両側から取り囲む、第1楽章アレグロと、第3楽章のアレグロ・ロンドについては、何を付け加えたらいいだろう?
 ある人が[私はこの2つのアレグロにぴったりあった言葉としては、《冬ものがたり》の中のつぎの句以上のものは思い当たらない]といっていた。
 《Heart dances, but not for joy》
 気のきかない話だが、私は、その人の真似をしたい。
 ことに、第1楽章は、管弦楽がはじまった時は、それと気づかないうちに、踊りのリズムにのってしまう感じだが、少ししてクラリネットが入ってくると ──A管特有の哀愁を帯びた響きのせいもあるが、音楽へ差し込む日差しの色が変わってくるのが感じられる。心はたしかに踊っている。しかしそれは、よろこびのためではない。」

ロックであってもクラシックであっても、それが音楽である以上、本質的なところを辿っていくと同じところに行き着く。いや、それが音楽でなくても、人間の表現である以上、同じところに行き着く。まだまだそうとは確信を持てませんが、このCDはその確信への一歩になったような気がします。

>感情と論理を電気で増幅する表現。「うるさい」「耳障り」であることは勲章でもあるのです。

これは、今の私にはよく理解できます。それが“生きさせろ!”の叫びであることも。

私、彼らがしばしば行うチャリティーなんかに疑いの目を向けてたんです。他人にとって耳障りなノイズを発してそれを勲章とする輩にとって、他人の不幸など“そんなの、関係な~い”なのではないのか、チャリティーなど偽善的な売名行為ではないのかと。
けれど、今はその勲章とチャリティーとが繋がっています。“生きさせろ!”と叫ぶ人は他者の生存も認める。“生きさせろ!”の叫びが深いものであればあるほど、他者の生存にも大きく許容する。それがロックなんだろうと。

私がコメントを書いている間に、papillonさんからコメントがもうひとつ。

>Green Dayのこと,息子は知っていました.さも当然,というような言い方でした

たぶん、そうなんでしょうね。私もGreen Dayは初めてでした。最近復活したと話題になったレッド・ツェッペリンなどは知ってましたし、多少は聴いてもいました。バカにするためにσ(~ ~;) ベンチャーズは名前だけ。

>ロケンローは歌詞でメッセージを送りますよね

歌詞つきの歌である以上言葉にメッセージ性が入るのは当然ですが、やはりロックもまず音楽ですから、音の論理が第一かと思います。特に音楽として優れていればいるほどそうでしょう。歌詞は音楽理解の参考、程度にしか私は考えていません。

息子さんとの会話の為にも、ぜひお聴きになってください。とはいっても、慣れない者にはかなりヘヴィーです。体調の良いときにどうぞ。

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