愚慫空論

『夕凪の街』


『この世界の片隅に』のマンガ版を読んでみようと思いました
注文しようと思って ネットのページへ行くと 目に留まったのが

 『夕凪の街 桜の国』

でした
同じ作者の 『この世界の片隅に』よりも前の作品です

 先にこちらを読んでみるかな
 『この世界の片隅に』は 必ず読むだろうから

そんなふうに思って 『夕凪の街 桜の国』を手にすることになったのでした



こちらを先にしようと思ったのは 先にしたいと感じたのは
少し軽いものを期待したからかもしれません
ここのところ重いものが続いていたし
感性への負担を和らげたかった

『この世界の片隅に』は柔らかい作品だけど 手応えはずっしり重い
こちらは過去作だから 軽めだろうと勝手に思い込んでんですね

ところが...

ぼくの勝手な期待は見事に裏切られることになりました
30ページあまりのマンガを見ただけでお腹いっぱいになってしまって
その先の『桜の国』を まだ読み進めることができていません
読み進めるためには、少し僕の思いを吐き出す必要があります


舞台は『この世界の世界の片隅に』と同じく 広島です
場所は同じだけど 時間は違って 『夕凪の街』のほうは戦後
戦中であっても戦後であっても
作者の目線というか タッチというか 筆遣いというか
そうしたものは変わらない
絵がとても柔らかい


本書を眺めてみて改めて気がついたのは
この柔らかさのカギは 背景画にあるということ

マンガといえども 骨格は「物語」です
そして物語を織りなすのは「人間」
ということは マンガも人間中心
当然のことです
だから 当然のなりゆきで 絵もキャラクターが中心になる

ところがこうの史代さんの絵はそうではない
背景には もしかしたら キャラクターの造形以上に重きが置かれいるかもれない

読者は無意識のうちにキャラクターに焦点を合わせます
描き手の「当然のなりゆき」と読者の「無意識」が重なると
キャラクターが際立つ
もちろん それは悪いことではありません
ひとつの特長です

こうのさんの絵は それとは違う特長がある
読者は無意識のうちにキャラクターに焦点を合わせるのだけど
背景の作画がキャラクターと同等に丁寧だから際立たない
融ける
輪郭ははっきりあるのに 「感じさせない」というか
「引き算」があるというか
その「感じさせない感じ」を、読者は「柔らかい」と感じる

あ 「読者は」ではなく 「ぼくは」ですね (^_^;)


こうした感じは アニメ映画『この世界の片隅に』にもあることです
今 思い返しても際立った印象があまりない

強い印象が残っているシーンはありますよ
いろいろ
でも それは際立つというのとは違う
強いて挙げるなら、爆弾の絵かな
米軍が街を空襲するシーンの爆弾の絵
あれは際立っていた
一瞬 CGか? と思ったくらい


『夕凪の街』のページを開くと、そんな感じの絵を眺めることができました
好きです こういう絵
懐かしい感じすらします
始まるストーリーも、優しい物語
ここまでは期待通りだったんですが


『夕凪の街』の物語の特徴を一面だけ切り取ってしまうなら
悲恋の物語です
といって 「悲恋」という言葉からイメージされるような際立ったものは ない

どう言えばいいのか
そう 「芽が出ない」という言い方がいいかもしれません

なるべきものが そうならない
そうならない悲しさ
ならずに壊れていく悲しさ


生命というのは ある種の奇跡です
物理学的な法則があって
化学的な法則があって
その上に生物学的な法則がある
さらに生物学的な法則の上に 種それぞれの生態学的法則がある
その上に 人間の場合 歴史的・文化的な積み重ねが法則として作用する
恋などといった現象は そうした厖大で奇跡的な組み合わせの中で生まれた奇跡です

ただ 人間はそうした奇跡を意識しません
奇跡の上に積み重なった歴史的・文化的な「現実」のなかに生きていますから
若い男女が恋をするのは ごく自然なこととしか感じない
そしてごく自然に、「なるべきもの」をイメージします

ところが そうならない
物理的なところで、生物学的な法則に沿わないことが起こってしまう
物理学的な法則には沿っているんだけど、生物学的ではない現象が起こる
そのような現象は人間にとっては不自然なことです
その不自然を人間が引き起こす

不自然な現象をわが身をもって引き受けてしまったときの情景
それが際立ったものなしに表出されている


際立ったものがあれば、読者としては救われるんです
際立ち方は個性ですから、自分とは異なる存在として認識しやすい
異なる存在と認識できれば、同情できるんですよ
同情して「悲しい思い」を愉悦として消費することができる


 嬉しい?

 十年経ったけど
 原爆を落とした人はわたしを見て
 「やった! またひとり殺せた」
 とちゃんと思うてくれとる?


愉悦が感じられるのは、このセリフくらいのものです
これだけは ちょっとだけ 際立っている
際立っていて チクリと痛くて
だから 他人事を感じることができる

「他人事」という表現は違うな。
恨みを感じさせる思いを吐き出してくれて、ホットしたというか。

「なるべきものが そうなる」
一言でいうと 「育つ」
『夕凪の街』は「育たないお話」しです
それが『桜の国』で どう育つのか

やっと前へ進めそうです




余談ですが

育つといえば
映画『この世界の片隅に』の完全版が制作される運びになったという話です

ラウドファンディングで資金を集めたんですね

これは迂闊でした
もっと早く知っていたら支援したのに
支援することができれば ちょっとした「誇り」になったろうに

作品の収益力に期待して「投資」する
作品の未来に期待して「支援」する

方法として使われるツールは 投資も支援も 同じ
貨幣です
でも 「何か」が違います

その「何か」をどう言えばいいか
「思い」という言い方がもっとも妥当かもしれませんが
ぼくは敢えて違う言い方をしたい

 「OS」

オペレーティングシステム
社会現象の基盤

でも 実はOSという言い方は正確ではなくて
正確にいうならば やはり「思い」のほうでしょう

比喩的にいえば 「投資OS]の上に「支援アプリ」が走った
たまたま 作品にその力があった

こうのさんの原作があって
それを映画化したいと思う人がいて
それを支援したいと思う人たちが拡がって
映画が実現した

現時点は ここ です

そこからさらに「育とう」としている
とてもいいことだと思います

ぼくが考えて続けているのは こういうことです

今回は たまたま 作品に力があったから
「投資OS」の上に「支援アプリ」が走った
人間社会はコンピュータよりずっと融通が利きますから
こういったことも起こりえるんですね

でも「起こりえる」というだけであって「起こりがち」ではない
「起こりがち」にしたいならば「OS」を書き換えなければならない
では その「OS」は何でできているかというと「虚構」でできている。


『夕凪の街』のなかで一言だけ出てきた「原爆」

この物体は「なるべきものが そうなる」ことを阻んでしまいました
が 一方でその物体は
「投資OS」上で「なるべきものが そうなった」だけのことでもある

このOSが書き換われば
「支援」といったことが
「育てる」「育つ」といったことが
「たまたま そうなる」のではなくて
「なるべくして そうなる」になる

「育つ」「育てる」は ヒトという種の生態学的仕組みに基づいた「OS」
 というより「BIOS]です
「アプリ」なんかではない
ところが 優れた「アプリ」でなければ走らないような「OS」になってしまっている
「BIOS」に実装されていることが「OS」によって阻害されて
 「アプリ」として走らせなければ実現できなくなっている


『この世界の片隅に』をめぐって起こっている現象は
そうした「OS」による逆転現象を浮き彫りにしていると ぼくは思います


では どうしたらいいのか?


余談の余談ですが ぼくはこういう記事に共感を覚えます

  『このご時世に「政府」はいつまで古いOSのままなのか?』



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