愚慫空論

『鹿の王』を思い起こす 【追記あり】


毒多さんからいただいたコメントに返答しているなかで、
 新しい〈ことば〉が名乗りを上げてきました。

 どうしようもないものをどうにかする

このままでのっぺりしていて物足りないので修飾を付けましょう。

 【どうしようもない】ものを〈どうにかする〉
 〈【どうしようもない】ものをどうにかする〉


後者の方がしっくりくるかな?

「どうしようもない」も
「どうにかする」も、
どちらも意志です。

「どうしようもない」はネガティブな意志。
だから【どうしようもない】。

「どうにかする」はポジティブな意志。
ゆえに〈どうにかする〉。

閉じた【意志】。
開いた〈意志〉。

閉じた【我】からは閉じた【意志】が。
開いた〈わたし〉からは開いた〈意志〉が。


「どうしようもないものをどうにかする」という〈ことば〉が立ち上がってくるときに
 引っ張ってきたのが『鹿の王』でした。

  


「父は、〈鹿の王〉を見たことがあったそうだ」
「我が身を賭して、群れを守る鹿?」

「飛鹿は足が速いし、断崖絶壁にも強いから、めったに狼や山犬などにやられることはない。それでもな、平地で狼や山犬に襲われると、追われて走るうちに仔鹿が遅れてしまうことがある。
 そんなとき、群れの中から、一頭の牡鹿がぴょん、と躍りでて、天敵と向かい合ったのを見たことがある、と、父は言ったんだ。もう若くもない、いい歳の牡が、そんなことをした、というんだよ」

「群れはどんどん逃げて行く。逃げ去っていく群れを背にして、その牡鹿は、ひとり狼たちの前に立ち、まるで挑発するように、跳ね踊ったのだそうだ」

「一頭になってしまった鹿は弱い。いかに体格の大きな牡鹿でも、狼の群れの前に、敢えて残るなど無謀なことだ。それなのに、まるで、目の前に迫った死を嘲笑い、己の命を誇るように跳ね上がり、踊ってみせていたそうだ」

「馬鹿な奴だ、と、父は言ったよ。いかに強かろうと、何頭ものも狼に囲まれたら逃げられん。自ら窮地に跳びこんで、自分の命を危険に晒すなど、馬鹿がやることだ、と。
 俺たちは若かったからな、むっとしたよ。そんなことはない、群れを守るために我が身を犠牲にするなんて、凄い。それこそ、群れを守る〈鹿の王〉だ、そう口々に反論した」

「そうしたらな、父は笑った。――おまえらも馬鹿だ、と
 ひとり、ひとりを指さして、父は言ったよ。おれは英雄になれる。氏族のために命を捨ててみせる、とでもおもっているだろうが、思い違いも甚だしい。
 おまえらみたいな、ひよっこはな、生き延びるために全力を尽くせ。己の命を守れたら重畳。戦の最中では、我が身を守ることすら、なかなか出来やしない。敵が圧倒的に強ければ、必死に逃げろ。逃げて命を繋ぎ、子を産み、増やせ。それがおまえたちの務めだ、と」

「だけど、逃げられない人がいたら? と、おれは父に問うた。逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の努めじゃないか、と」

「・・・お父さまは、なんと?」
「いきなり真顔になって、言ったよ。――それは、それが出来る者がやることだ、と」
「敵の前にただ一頭で飛び出して、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授かってしまった鹿なのだろう。
 才というものは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす。そんな才を持って生まれなければ、己の命を全うできただろうに、なんと、哀しい奴じゃないか、と」




後ほど、追記を書きます。



  ****

以後、追記です。


  ****

改めて自問してみます。
「それが出来る心と身体」とは、どういったものなのか。

孤独になることができる。
〔個〕になることができる。

 「逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の努めじゃないか」

「努め」と言っている時点で、違うんだと思います。
自分が所属する共同体のためではない。
まして、名誉などといった虚構のためではない。

戦士などという称号は、名誉とセットになっているものなんでしょうけれども。

〔個〕であるということの孤独感において、ヤノマミの母親たちと同じものを感じます

ワトリキでは、「命」を巡る決断は女が下し、理由は一切問われない。母親以外の者は何も言わず、ただ従うだけだ。




「王」と「母親」の間には大きな違いがあります。
誰の「命」を巡る決断なのか、という違い。

 わが子を精霊と成すか。
 わが身を精霊と成すか。

この差異は決定的です。

 男性的か女性的か。
 超越的か内在的か。


 


人間ならではの特性として、直立二足歩行も挙げられる。立ち上がれば、サバンナを見渡して獲物や敵を見つけやすいし、歩行に必要だった腕が自由になり、石を投げたり合図を送ったりするのに使える。手によってできることが増えれば増えるほど、その持ち主は有利になるので、変化圧がかかり、手のひらと指には神経と微調整の効いた筋肉が次第に集中した。その結果、人類は手を使って非常に複雑な作業がこなせる。とくに、精巧な道具を製造して使える。同区の製造を示す最初の証拠は約250万年前までさかのぼる。そして、道具の製造と使用は、考古学者が古代の人類の存在を認める基準となる。

だが、直立歩行には欠点もある。私たちの祖先の霊長類の骨格は、頭が比較的小さい四足歩行の生き物を支えるために何百年にもわたって進化した。したがって、直立の姿勢に順応するのは大変な難題だった。その骨格が、特大の頭骨を支えなければならないのだから、なおさらだ。ヒトは卓越した視野と勤勉な手を獲得する代償として、腰痛と肩凝りに苦しむことになった。

女性はさらに代償が大きかった。直立歩行するには胴回りを細める必要があったので、参道が狭まった――よりによって、赤ん坊の頭が次第に大きくなっているときに、女性は出産にあたって命の危険にさらされる羽目になった。赤ん坊の脳と頭がまだ比較的小さく柔軟な、早い段階で出産した女性のほうが、無事に生き長らえてさらに子供を産む率が高かった。その結果、自然選択によって早期の出産が優遇された。そして実際、他の動物と比べて人間は、生命の維持に必要なシステムの多くが未発達な、未熟の段階で生まれる。子馬は誕生後間もなく駆け回れる。子猫は生後数週間で母親の元を離れ、単独で食べ物を探しまわる。それに引き替え、ヒトの赤ん坊は自分では何もできず、何年にもわたって年長者に頼り、食物や保護、教育を与えてもらう必要がある。



この記述において指摘されている、
 ヒトがヒトであるために払った代償は3つ。

 1.肩凝りと腰痛。
 2.出産の危険性。
 3.ヒトの赤ん坊は何もできない。

1.は大したものではないし、平等な負荷です。

2.は大きなものだし、はなはだ不公平なもの。
男性は出産の危険を負担しないし、しようがない。

3.も大きなもの。そして、平等であるべきもの。
あるべきとはいってもそれは理想で、現実はなかなか難しい。
男性よりも女性の方が負担は大きくなりがちだし、
年長者の負担は赤ん坊よりも大きい。
年長者と赤ん坊の不公平は、時間をおいて解消するしかない。

これらの代償は、ヒトがヒトであること内在しているものです。
そして、ヒトに内在している代償の機序からすると、

 「命」を巡る決断は女が下す

ことは、この上なく合理的でしょう。


〔超越〕は〔内在〕から派生します。

年長者と赤ん坊の負担の差異を埋めるには、時間が必要です。
赤ん坊が年長者になったときに、3.の負担を追うことができるようになる。
3.の負担を赤ん坊にも担ってもらうために

 「逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の努めじゃないか」

という心――「意志」が出てきます。
ポジティブに、内発的に。

〈【どうしようもない】ものをどうにかする〉意志。


内在的なものは、根源的にどうしようもありません。
どうにかしようとするならば、ヒトがヒトでなくなるしかない。

ヒトがヒトでなくなることの是非。
倫理というものの根源だと思います。

ヒトがヒトであるために生き延びることは、どうにかする余地のあるもの。
その余地がないなら、結末はひとつです。

「生き延びる」という行為は、環境との闘いです。
環境はヒトに〔内在〕するものではない。
ヒトを生み出したものではあるけれども、
 ヒトがヒトであるということが確立された瞬間に、環境もまた環境になる。
ゆえに〔超越〕が出てきます。

また、ヒトがヒトであるということの確立とは〔自我〕の成立の言い換えですから、
〔超越〕の認識と〔自我〕の成立はセットでもある。

ただし、認識の経路は
 
 〔自我〕 ⇒ 〔超越〕 ⇒ 〔内在〕

という順序にならざるを得ません。
成立の順序と認識の順序は逆転しています。

そして、〔内在〕/〔超越〕/〔自我〕までは、〔個〕です。
あくまで個的な営みです。
優れて精神的ですが、
 あくまで個的・内発的ですから、ぼくは

  身体的

と表現をしたいと思います。


精神的に身体的であることは、孤独とセットです。

〔自我〕が社会の承認を欲求し始めると【自我】となり、均衡を崩します。
そして均衡を保つために、「法」が要請されることになる――
ここのところは、記事をあらためることにします。


話を『鹿の王』に戻します。

絶望的な環境に陥った戦士には、ふたつの選択肢があります。

ひとつは、「王」となること。
もうひとつは「人間」になることです。

「王」になるには、孤独へと帰還していかなければならない。
「人間」になるには、社会へと帰還していけばよい。

逃げて命を繋ぎ、子を産み、増やせ。それがおまえたちの務めだ



「王」という精霊――精神的な存在――になるのも、
「人間」という実在の存在でありつづけるのも、
 どちらも個的で孤独な選択です。
〈【どうしようもないこと】をどうにかしよう〉とする意志に基づく行為です。

個的で孤独な選択に際しては、
 戦士であるといったような社会的な関係はどうでもよい。

個的で孤独な決断に、誰も異論を差し挟むことはできません。
これもまた「命」を巡る決断。
ただし男に許されるのは、自らの命についての決断だけ。


女はわが子について。
男はわが身について。
それぞれ無条件に決断を下すことができる資格がある。

これを規範と呼ぶなら、根源的な規範だと言えます。
【システム】は、
 この根源的規範が破られることがその根源だろうというのが、ぼくの仮説です。

社会規範と根源的規範の逆転。
【システム】とぼくが呼ぶものの核心です。

コメント

おはようございます。

「鹿の王」は未読ですが、面白そうですね。

追記をまってからがいいのかもしれませんが、

>閉じた【我】からは閉じた【意志】

が、働いている自覚はあるんですよ。おそらくそれが【システム】の呪縛にとらわれていることだろうという自覚も、またニューロティピカルである自覚もあります。
そこに気づいた以上甘んじるつもりはありませんし、どうにかしなければ、という気持ちもあります。
というか、ここんとこタテ続けてそこを考えさせられる本に出会ったし、てんでお話にならない【システム】のなかの「物語」の講演を聞いて、それは「違う」と自覚したということもある。

気がついたワタシ自身が、どう実行して(生きて)いこうかは、始まったばかりのような気がします・・・ずいぶん齢も食ってしまい死期も近いというのに・・・orz。存在を知らないものに気づく、ことはなかなか困難なことかもしれないとつくづく感じています。

>行きつ戻りつ

は、ワタシ自身のことです。それを確かめるために、わざとここに書いているのかもしれない。

・毒多さん

『鹿の王』、面白いです。
持って行かれます(笑)。

送りましょうか?

>どう実行して(生きて)いこうかは、始まったばかり

責任を感じてしまうのは、自意識過剰かな?
そうであったとしても、そうでないとしても、
ぼくには責任は取れないし、責任を取ろうなんてことが傲慢ですよね。

>ずいぶん齢も食ってしまい死期も近いというのに

それはぼくとて同じですが、わくわくしていますよ。(^o^)
あ、社会的には無責任でいられるということは、同じじゃないな..(^_^;)

「鹿の王」の件、、、ありがとう。
今、別の本を読んでいて、そのあとcocoraの続きとサピエンス全史を読みたいと思っていますので、とりあえずはいいです。
今年はなんとなく、そちらの方面へ行くような気がしてますので、その機会が実現したならそのときお願いします。

>ぼくには責任とれないし、、、

当たり前すぎて笑いました。^^
大丈夫です。責任を迫りません。
社会的責任といえば老夫婦(親)が死ぬまでと子どもが高校を出るぐらいまでは「共助」の精神でいこうかな。
わくわくはいいな、それでいきたいと思います。

>殺人

【システム】はどんどん進んでいき、たとえブログのコメ欄でも「殺人もOK」などと書こうものなら、共謀罪でパクられるなんてことになるかもしれませんね。
【システム】を遵守する気は毛頭ありませんが、【システム】に身体を拘束されることがないよう、そこは気をつけたいと思っています。

【システム】のなかの監視委員のみなさん、「殺人もOK」なんて嘘ですよ〜、と、とりあえず訂正しておきます、爆!!

ヤノマミの映像観ました。本のほうがインパクトあったなぁ、、、
まあいいんだけど、笑

追記部分について

>社会規範と根源的規範の逆転。
>【システム】とぼくが呼ぶものの核心です。

仰ることは解ります。が、、、
では聞きます。
現代の日本の「堕胎」とヤノマミの女の「選択」についてはどうですか?
共に根源的規範だと考えますか?
以前ワタシはかなり強く現代日本の「堕胎」について否定的に書いたことがあります(覚えてますよね)。
ピダハン、(逝きし世の面影)を読みそして決定的場面の記されたヤノマミを読んだこと、このエントリーの追記でも再度考えこんでいます。
正直にいえば、現代日本でもヤノマミのように「自分の手で殺す(選択する)」してこそ根源的だいうことを、思ってしまいますが、以前のワタシ自身の感性を正当化しようとしているだけかもしれず、果たしてそうした問題かどうかも解りません。
今なお、現代日本とヤノマミの両者にはなんとなく決定的な違いがあるような気もしますが、なんとなく、です。
【システム】にひっぱられ堕胎したのか、女性の根源的な意志により「選別」したのか、ワタシが判断できることではないような気がしてきました。どちらにしても「男」のワタシがとやかく言う問題ではないかもしれません。
以前のワタシの考えが「社会規範」に引っ張られていたのかどうかがワタシの問題なのでしょうが(ワタシの問題なので、ここでどうこう書くことではないと思いますが、、、)。

・毒多さん

映像ご覧になりましたか。
広く公開されることが前提なのでしょう、インパクトという意味では、周到な注意が払われているんだと思います。さすがはエヌエッチケーw

ところで、ぼくのほうはDVD買っちゃいました。まだ観ていませんが、こちらは多少、インパクトは期待できるでしょう。


で。
毒多さんの文章は覚えています。
忘れるものですか。いろいろな意味で。(^o^)

>現代の日本の「堕胎」とヤノマミの女の「選択」についてはどうですか?
>共に根源的規範だと考えますか?

現代日本の場合は根源的だとは考えません。
よって、現代の堕胎をぼくは支持しません。

根源的ということは、それが生存に直結するということです。
個のみならず集団の生存に、です。

一人の赤ん坊の生死がその赤ん坊が所属するであろう集団に及ぼす影響の大きさは
ヤマノミと現代日本では比べものになりません。
そして、もうひとつ比べものにならないのは、社会の豊かさ。

ここでいう「豊かさ」は物質的なものです。
現代日本は、圧倒的にヤマノミ社会より物質的に豊かです。
赤ん坊一人を生存させるに足る資源は有り余っています。
資源分配の方法は、ヤマノミたちの方法に比べるとクソですけどね。

けど、この「クソ」をもって「根源的」とする議論にぼくはまったく賛成できません。
現代日本の母親が社会全体は物質的に豊かであるにもかかわらず
分配の方法がクソであるために
赤ん坊の生存が難しいという状況に直面する可能性が高いことは
容易に想像できます。
そのような母親に対して
「自分の手で殺せ」と言い放つことの残酷さも自覚しないではない。

ですけどね。
その残酷さを批判することで、クソな分配方法を是認してしまうのは
それこそオオグソです。

それとこれとは別、といった議論もぼくは認めません。
結果としてそうなるのです。
そうなるのですが、そこを指摘するのは危険なこととして排除されてしまうから
結果を認識できないのです。

現代の人間は、女性に限らず
根源的な意志など保持できないし、まして実行などできません。
そんな人間は危険な存在としてシステマチックに社会から排除されてしまいます。
ニューロティピカルがニューロティピカルを「健全」だと見なす社会の

 【システム】

です。

丁寧なレスありがとう、m(_ _)m

・毒多さん

納得いただけたのなら嬉しいですが、危ないですよ(^_^;)


少し追記。

>現代の人間は、女性に限らず
>根源的な意志など保持できないし、まして実行などできません。

ただし、意志を持つことはできます。

そうした意志を持っていて、なおかつ、
ぼくのように剣呑でない方法で表現できる人もいます。

上橋さんとか
たかのさんとか

なぜか女性なんですよね...

いえいえ、言葉上は納得はできるんですが、ワタシの裡での消化は長い長い課題だと思っています。

ところで、ヤマノミではなく、ヤノマミ、、、ね(^o^)

>ところで、ヤマノミではなく、ヤノマミ

おっと、そうでした(^_^;)

本文ではないので、そのままにしておこうかなw

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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