愚慫空論

『ヤノマミ』 その2


『その1』はコチラ



同居を始めた頃、僕たちについてもヘレアムゥでこう伝えられた。

「今いるナプは敵じゃない。安心してくれ。災いを運んできたのではない。彼らはヤノマミを知りたいと言っている。みんなで教えてあげなさい。食べ物は分けてやり、一緒に食べなさい。バナナを与えるときは、こんなバナナが採れる土地は素晴らしいと言って渡しなさい。歌も聞かせてあげなさい。ヤノマミがどれほど強いかも見せて上げなさい。顔を縫って、飾った姿も見せて上げなさい。そうすれば、ナプは喜ぶはずだ。情けない姿はみせないようにしなさい。怠け者だと思われないようにしなさい。ナプより早く起きなさい。シャボノのウンゴをしたら、すぐに片付けなさい」



この記述を読んだ時は、笑ってしまいました。

その1では中国人観光客を話題にしましたが、
その昔、中原を支配していた華人の王たちも
このようなことを城砦を訪れた北狄南蛮東夷西戎たちに言っていたことでしょう。

ウンコは、片付けてくれる奴隷がいたことでしょうが...


著作『ヤノマミ』の著者は国分拓さんという方です。
NHKのディレクターだそうです。

国分さんたちがヤノマミの集落を訪れた目的の一はおそらく、
TV番組を制作すること。
その目的は、NHKスペシャルの番組となって結実していて、
NHKオンデマンドで視聴することが可能です。

著作としての『ヤノマミ』は副産物と言ってしまうのは不適切でしょうが、
取材の実りが思いのほか豊かだったために、
NHKスペシャルの制作だけではもの足りなくなって
 生まれたものなのかもしれません。

さらには、劇場用公開用の映像作品も制作されたみたいで、
そのDVDも販売されています。



映像作品の『ヤノマミ』の方(NHKスペシャル)は、
 著作とは違って、禍々しい印象は受けません。
カメラによる撮影が可能になったのは、
 上記引用のようなセレモニー(?)があってからだろうということは、
想像に難くありません。

その1で紹介した禍々しさとの遭遇は、今回引用した記述よりも前のできごと。
取材班は、災いをもたらすナプである疑いが掛けられていた。
疑いが晴れて、平穏に同居を続けることができるようになり、
撮影も可能になったということでしょう。


話はいささか変な方向(?)へ飛びます。

NHKスペシャルで放映された映像作品は、
NHKオンデマンドで視聴可能なのは、 先に述べた通りです。

NHKオンデマンドでの視聴は、有料です。
NHKの受信料を払っていても、話は別。有料なんです。
単品で、税込み216円の支払いが必要です。

ところが、無料で視聴する選択肢がある。
敢えてリンクを張りますが、「Dailymotion」というサイトで視聴可能
もちろん、無料です。

有料であるはずのものが無料で視聴可能だという事態は、
ある意味、理不尽です。
無料の方は違法なものなのでしょうが、
法的解釈はさておき、
有料と無料が同時に存在するという事態は、何かがおかしい。

現代的常識で考えるなら、無料の方は、違法で、悪しき存在。
そんなものが蔓延ると、優良なコンテンツが制作されなくなる。
つねに語られる理由です。

しかし、ぼくはそんなふうに考えていません。
システムのあり方で悪になってしまっているだけであって、
システムのあり方しだいでは、悪しきものでなくすることも可能なはずだと考える。

現行のシステムでは、著作物や映像作品には著作権があって、
どのような形で読者や視聴者に提供するかを決める権利は、著作権者にある。
これはこれで合理的な考え方ではあります。

ですが、半面、このシステムは、読者や視聴者の主体性を奪ってしまう。
読者や視聴者は、まだ観ぬ作品を購入しなければならない。

作品の価値を決めるのは、読者・視聴者です。
にもかかわらず、価格を決めるのは、著作権者です。

価値と価格は違うのか?
確かに違う。
違うけれども、まったく違うものではないはず。
価値の主体と価格の主体が、正反対の立場になってしまうほどには違わないはず。

そのようにしないと、作品そのものの制作が難しいという理屈は理解できます。
その理屈は、歴史的な経緯を経たものですから、それなりの必然性があります。
が、未来を保証するものではない。


歴史的な経緯があるとして、
では、その第一歩を踏み出したのはどこか。

『ヤノマミ』には、その一歩を踏み出す前の原初の姿があります。
原初の姿は、映像作品の方がよりリアルに伝わってくるような気がします。



 

精霊か、人間か、全てを母親が決める

ヤノマミの女は必ず森で出産する。ある時は一人、ある時は大勢で、必ず森で出産する。

女たちが森へ消える姿を初めて見たのは満月の夜で、子どもが生まれたのは東の空が白み始める直前のことだった。許されて近くに寄ると、生まれたばかりの子どもが地面に転がっていた。月明かりにへその緒や胎盤を濡らして、地面に転がっていた。

ヤノマミにとって、生まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊なのだという。精霊として生まれてきた子どもは、母親に抱き上げられることによって初めて人間となる。だから、母親は決めねばならない。精霊として生まれた子どもを人間として迎え入れるのか、それとも、精霊のまま天に返すのか。

その時、母親はただじっと子どもを見つめているだけだった。森の中で地面に転がっている我が子をじっと見つめているだけだった。

僕たちにとって、その時間はとてつもなく長い時間のように感じられた。


子どもを見つめる母親が何を考えていたのか、僕たちには分からない。僕たちが聞いても、女たちは何も答えない。精霊のまま我が子を天に送る母親の胸中を女たちはけっして語らない。ナプに対しても、身内に対しても語らない。ワトリキでは、「命」を巡る決断は女が下し、理由は一切問われない。母親以外の者は何も言わず、ただ従うだけだ。



主体性というものの原点が、ここにあるような気がします。

主体性を行使する者は孤独です。

ぼくは男なのでわかりませんが、
女性が子どもを胎内に宿している状態というのは、実に窮屈なものなのだそうです。
異物が身体の中心に居座っている感触だとか。

そのようなものを、何十時間にもおよぶ陣痛に耐えて、この世に生み出す。
医療技術が発達した現代の先進国でも、出産は女性にとって命懸けです。
技術的には未発達のヤノマミならば、その度合いはもっと大きいに違いない。

そうして生み出した我が子に対して、
 「天に返す」などという選択肢がなにゆえ存在するのか?
ここではその疑問はスルーしておきましょう。

とにかく、その選択を母親は成さなければならない。
誰も何も言ってはくれない。
孤独でしょう。
絶対的に。



映像作品では、母親の主体性が示されたあとに、
 画面一杯に満月の姿が映し出されていました。

出産の日が満月の夜だったのは、偶然か?
現代人の感覚なら偶然でしょうが、
 女性の月経と月齢に深い関係があることは知られています。

その日が偶然であろうとなかろうと、この場面に満月はふさわしい。
理由はわからない。
分析不能です。
太陽がふさわしい気もしますが、やはり違う。
三日月でも半月でもない。
満月が、もっともふさわしい。


ヤノマミは、子どもが4、5歳になるまで子どもに名を付けることがないそうです。

男の子は〈モシ〉。
女の子は〈ナ・バタ〉。

〈モシ〉とは男性器、〈ナ〉とは女性器のことで、
〈バタ〉とは、「大きな」とか「偉大な」とかいう意味。

なぜ、女には「偉大な」という形容が付くのか。
母親に課せられた生命に対する主体性を考えれば、得心が行くような気がします。


主体性をもってなされた決断を、誰もが無条件で受け容れる。
孤独と寛容の大きな対比。
この対比こそ尊厳でしょう。
尊厳の原初の姿。

この厳しい主体性を奪うのもまた寛容です。
孤独に手を差し伸べるのは、優しさ。
だけど、主体性の厳しさを侵す優しさは、人間を弱いものにしてしまいます。
果ては、【システム】に隷属していかないと生きていけなくなってしまう。

本当の〈いのち〉というものは、そんな弱いものではないはずです。


生きる主体としての尊厳を取り戻す。
ヤノマミのような原初の姿にまで戻るのは、僕たちには不可能かもしれません。
だけど、その方向に向かって歩み始めることは、できないはずはない。

価値と価格との一致は、その歩みの最初の一歩になると考えています。


『その3』も、たぶん、あると思います。

コメント

まだイホーw動画のほうがみていませんが、、爆

やはりここ、、、女一人で、精霊のまま天に還すか、人間になる精霊にするか決める、、、の場面に取り上げざる得ませんね。

コメントをしたいんだけど難しい箇所だよね。

ここを読んでいて、とても不思議な気持ちが渦巻いたことを思い出します。

ワタシは以前話題になりました「堕胎」のことを少し思い出したんだけど、根本的な圧倒的な違いを感じた。
ワタシの意識は今だに「殺人」が重罪であることが【システム】とは思わないし、近代文明的な(生命)倫理も働いていることが隷属とも思わないんだけど、ただ、この場面は「法律」も「倫理」もそうした何もかもがぶっとんでいる自分にがいたんだよね。
自分が空っぽになるような感じ・・・
著者は「大きな理」と書いていたと思うし、愚慫さんは「主体」「寛容」「孤独」と表したけど、どうもワタシは近代文明のなかにいてそこでの言葉で表せるのか疑問を感じてしまう。
近代文明のなかの「主体」と大きな円環のなかの「主体」は別物すぎる、、、気がする。

だから

>生きる主体としての尊厳を取り戻す。
ヤノマミのような原初の姿にまで戻るのは、僕たちには不可能かもしれません。
だけど、その方向に向かって歩み始めることは、できないはずはない。

と書いたとは思う。
ほんとワタシ(たち)は麻痺している部分が多いな。

・毒多さん

>近代文明のなかの「主体」と大きな円環のなかの「主体」は別物すぎる

【自我】と〈わたし〉の差、と言い換えるのは正確ではないかもしれませんが、
そう遠くはないでしょう。
そして、こう書き換えると、【自我】も〈わたし〉も、同一の身体の中に実存する「特性」であるという理解もできますよね。

ヤノマミにも【自我】はあります。
彼らが自分たちを「ヤノマミ(人間)」とよび、他の物を「ハプ」と呼ぶこと。
彼らにも【自我】が存在することの証明でしょう。

【自我】なくして【システム】はありません。
そして、【自我】と「禍々しいもの」の間には深い関係がある。
ならば、【システム】と「禍々しいもの」も無関係なはずがない。

ヤノマミたちの出産の様子を「禍々しいもの」と見ることは可能だと思うんですよ。
可能というより、そういう見方の方が歴史的には主流ではないかな?
古代よりずっと、文明はおしなべて男尊女卑です。
女卑になった理由がこの【禍々しさ】にあった確率は、かなり高いと思う。

ヤノマミたちは、部外者を「ハプ」だと言って区別する。
そういうやり方はなにもヤノマミの特権ではなくて、人類がみな、そうです。
近代文明の中で暮らしているぼくたちは、【禍々しさ】を隠蔽しようとしてきたわけですが、
結局うまく行かない。戦争という行為は【禍々しさ】以外のなにものでもない。

巨大なシステムを築き上げたぼくたちは、しかし、まだ、「ハプ」という呪縛からは免れてはいない。隠蔽のための虚構を営々と築き上げては来たものの、それは結局はうまく行かないことを理解し始めてもいます。

では、うまく行かないから絶望視かないのか、というと違います。
「理解し始めている」ことは、まだ、一歩を踏み出してはいないかもしれないけど、
踏み出そうとする意志は芽生え始めているということだと思うから。

その点は、ぼくたちは、ヤノマミよりは「前にいる」と思う。
「ハプ」と呼んでしまうことの【禍々しさ】を自覚しているという点で。

意志はあっても、身体が動かなければ呪縛ですよね。
ぼくが常々足らないと言っているのは、呪縛への自覚です。

>どうもワタシは近代文明のなかにいてそこでの言葉で表せるのか疑問を感じてしまう

言い表せます。それが広く通用するかどうかはまた別の話ですが。
言葉は何でも言い表すことができる。それこそ、デタラメだから。

これは、よくある呪縛の症状だと思います。
子どもにも大人にもよくある症状です。

何かを成すことができない理由を、別の所に求めてしまう。
ヒトが空を飛ぶことができないのは、そういう身体構造ではないから物理的に無理です。
物理的な不可能性と、言語の言及不可能性はまったく次元が違う。
原因は近代文明の言語にあるのではない。
そりゃ、数学では言及不可能かもしれませんがね。
普通の言語では、言及できます。
その不可能性は言語の特性にあるのではなく、言語を操る〔主体〕にある。
〔主体〕が呪縛されているんです。

もっとも、〔主体〕は呪縛されているがゆえに【自我】があるとも言える。
その意味でも、呪縛を超えられないなら、ぼくたちはヤノマミと何も変わらないどころか、
【システム】に依存しなければならない分だけ、より禍々しい。

でも、一方で〔システム〕は、自身の禍々しさへの気づきと、
そこから踏み出そうとする意志を育ててもいるんです。

おはようございます。

多分ワタシにとってこの手のやりとりはずっと行ったり来たりになるんだろうなぁ、と感じています。
レスにあるようなことは、解ってはいるんですが、じゃ、本当に解っているのかと自問し直すと実感がないし、疑わしい、笑
なかなかねぇ、【システム】のなかに生まれ【システム】に育てられたニューロティピカルですよ。しかも、いまもそこのなかで生活しているわけで、体得は簡単じゃない。
でもまあ、行ったり来たりのなかで、呪縛や踏み出すことの自覚が少しづつ芽生えてきている気もするので、少しづつ前進かもしれないと、信じていくことにします。^^

・毒多さん

>この手のやりとりはずっと行ったり来たりになるんだろうなぁ

ああ、そういう感じ、ぼくも持っています。

おっと。ここは誤解のないように丁寧にいかないと。

ぼくも、毒多さんを含めた他の人とのやりとりは、ずっと行ったり来たりなってしまうと感じているんです。どうやら感じ方が違うらしいんで。

「この手のやりとり」も感じ方の違いからくるんだと思うんです。

>ワタシの意識は今だに「殺人」が重罪であることが【システム】とは思わない
>近代文明のなかにいてそこでの言葉で表せるのか疑問を感じてしまう

これも、感じ方の違いなんだろうと思います。

ぼくは殺人が重罪であることは【システム】だと思っているし
(という言い方は正確ではないのですけれども)
上のコメントで申し上げたように、言葉で表すことの出来ないものはない感じている。
「言葉はデタラメ」だなんて軽く言ってしまいますが、
これもぼくの言葉への感覚からくるものであって、
ぼくのこれまでの経験から予測すると、大半の人間は、
「言葉はデタラメ」という言をデタラメに感じると思います。

言葉を使って対話しているのに、言葉についての感覚がかなりズレている。
行ったり来たりになるのは、やむを得ないと思うんですよ。


やむを得ない「行ったり来たり」にどう向き合うか。
向き合わないなら、感覚の異なる相手は「ハプ」になってしまう。

「行ったり来たり」は原理的にどうしようもないんです。
けれど、向き合うか向き合わないからは、意志の問題です。

ぼくが強く思うのは、「原理的にどうしようもない」から終わりではない、ということ。
そこはむしろ出発点なんです。
「ハプ」という呪縛から離脱していく出発点。

ヤノマミは、まだその出発点には立っていないだろう。
ぼくたちは立っている、というより、立たざるを得なくなった。

『COCORA』の小学校編にあるのは、「原理的にどうしようもない」ことの発見です。
まだ読むことはできていないんですけど、
イド・ケダーさんや東田直樹さんの著作、栗原類さんもそうなんでしょう、
「どうしようもない」はずのことをどうにかした、ということなのでしょう。

「どうにかしよう」と思うことができさえすれば、どうにかなるんですよ、きっと。
僕たちの文明も、「どうにかしよう」と想い為されることで築かれてきたもののはずなんです。

ぼくは、この「どうにかしよう」という意志を〈善〉だと考えるんですよ。

追記。

話をヤノマミの母親に戻します。

「主体」という言葉を使いました。
「どうにかしよう」と意志を発動させる者が「主体」です。

生まれた赤ん坊は、「どうにかしなければならないもの」です。
精霊と人間の狭間にいる存在。
ヤノマミにとって「どうにかする」は、精霊するか人間にするかを決めるということです。

精霊か人間かを決めるというのは、合理的な選択とかいった行為とは、まったく別次元です。
「どうにかする」は、自身の全存在をかけて為すべきこと。
いや、「べき」というのがもう違います。
「べき」と行った瞬間に合理性が混じってしまいます。

 「全存在をかけて為されなければ「どうにかする」にはならない」

といったふうに、否定形でしか語れないもの。

それと比較すると、「合理的な選択」とやらは、
たかだか「【自我】が実現できる方策を考える」程度のことです。

「考える」のも主体とはいえるでしょうが、
いろいろな選択肢を引っ張ってこられるだけ、
つまり社会的であるというわけだから、孤独でも何でもないんです。

社会的に孤立している者は孤独と感じるでしょうけれど、
それはあくまで社会的なものであって、根源的ではない。
ヤノマミのそれは、社会的につながっていながらなおかつ孤独。

この差異は大きいけれど、でも、絶望的だとはぼくは思いません。

>ワタシの意識は今だに「殺人」が重罪であることが【システム】とは思わない

このあたりのことは、愚慫さんは違うんだろうし反感を買うんだろうなぁ、と知りながら書きましたし、実を言うとワタシ自身もよくわからなくなっているままに、あえて、結構自分の言葉を疑いながら書きました。まぁ呪縛に引っ張られている、んでしょうね。

殺人については、ピダハンがダンを殺そうとしたときに違和感がなかったことを思い出しながら、またピダハンには「法律」が一切ないことに不便さを感じずに、むしろそれこそ自然であると快く読んでいたことを思い出します。
もちろんヤノマミの女の選択の場面もです。
罪とか罰とか法律という発想はまるで無縁でした。

さほど絶望してませんので、ご心配なく。^^
絶望はしてませんが、かなり厳しい道程だとは感じます。
もちろん、ワタシには、、、、です。

・毒多さん、おはようございます。

念のため申し上げておきますが、反感はまったくありませんよ。

「殺人」が重罪であることが【システム】だと考えることは、危険なことです。
ネットの片隅なんで大丈夫だろうと思ってはいますが、
あまり大勢の人には知られたくない議論です。
良い影響が出るとは考えにくい。

ぼくの方が反感を持たれるのが社会標準だと思います。
ですから、ぼくの方が反感など、ないですよ...(^o^)

>ピダハンがダンを殺そうとしたときに違和感がなかった

ノンフィクションなのに。
毒多さんも危ないことを書いておられる(^_^;)
本音は危ないものです。
その危険を抑制するために「法律」が要請される。

「目には目を。歯には歯を」

の目的はまさにそれ。抑制だったわけですから。
均衡を取る必要があった。
均衡を取る必要があるということが、もはや不自然なんですけどね。

もし何千頭ものチンパンジーを天安門広場やウォール街、ヴァチカン宮殿、国連本部に集めようとしたら、大混乱になる。それとは対照的に、サピエンスはそうした場所に何千という単位でしばしば集まる

『サピエンス全史』には上のような記述がありますが、直観的に理解できますよね。
その意味では、ピダハンもヤノマミも、チンパンジーと変わらない (笑)


>かなり厳しい道程だとは

案ずるより産むが易しかもしれませんよ?

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