愚慫空論

立春

昨日は節分でした。
鬼は外はやらなかったけど。
僕自身が鬼のようなもの(異世界のもの)なので(^o^)

したがって、今日は立春です。


一年の区切りにも、いろいろあります。
代表的なものが、「年」です。
今年は西暦で2017年。
平成という年号を用いるなら、29年。
遡ること35回の日の出にプラス6時間ほど前に、2016から2017へ。
あるいは、28から29へと切り替わりました。

この区切りは国際標準でもあります。


「年度」という区切り方もあります。
3月末で終わり、4月1日から始まる区切り方。
この区切りは日本国マイナーです。
日本国の行政が用いる区切り方。
学校制度と関係が深いので、若い人にも馴染みが深い。

3つ目が、節分/立春という区切り。
歴史的といえばいいのか?
どのような根拠に基づいているのか、僕は未だに把握していませんが、
それでもなぜか、この区切りがもっとも身体的なような気がする。


あ、誕生日という区切りもありましたね。
他に、一部の人には結婚記念日とか。
区切りにもいろいろありますね。



立春はもはや社会とリンクした区切りではありません。
ゆえに、社会からの統制は何もない。
いつもの朝です。

今は冬です。
冬は身体が渇きます。
就寝中は水分の補給が出来ないので、起床時の渇き感はなかなか強烈です。

教えに従って、白湯を飲みます。
1時間くらい時間をかけて、1リットルくらいは飲む。
飲むというより、飲めてしまう。
この朝の時間は至福のひとときです。
生きていることが実感できる。
大げさなようですが、本当に感じます。

身体に水が行き渡っていく感じと共に、覚醒感も強くなってきます。
十分に覚醒したと感じたら、コーヒーを淹れます。
今朝はモカ・イルガチャフェでした。

豆で買ってきてあって、
カリタの安い手引きミルでゆっくり挽く。
このときの香がいい。
機械でガーっとやってしまうのは、もったいないことです。

イヌどもを散歩に連れて行くのを忘れていました。
白湯を飲む1時間の間に、イヌの散歩にも行きます。
今日のように日差しが豊かだと、心地よい。
身体の起動感がより大きくなります。




「年」という社会的な区切りで見たとき、
 愚慫と名乗るぼく――ブログ上の人格――にとって昨年の最大の収穫はこれでした。

 


この収穫を活かすことが、今年の課題だと思っています。

一方、身体的と感じている節分までの区切りで言うなら。



 『この世界の片隅に』

まだ再度の鑑賞を果たせてはいないのですが、
 そうでなくても余韻は未だに強く残っています。

三度語るのは、ちょっと気が引けますが、別の作品と合わせて語ることにします。




ヤナーチェクのこのオペラについては、以前に一度、取り上げています

自身の文章を改めて読み直してみて、自身で共感しています(^_^;)
書き足りないところはたくさんありますが。

以前の記事に書きましたが、ぼくはこのCDを一度、手放しています。
再度購入したのですが、実は、そのCDもまた手放した。
興味を持ってくれた友人がいたので、対訳の本と共に進呈したんです。
そして三度、購入した。

ぼくは進呈したつもりでしたが、友人のほうは借りていたつもりだったようです。
それで、先日、返却されてきた。
というわけで、今、ぼくの手元には同じCDが2組ある。

返却されてきたCDジャケットを眺めながら、ふと、思い当たりました。

『この世界の片隅に』の絵を見ながら、なんとなく感じていたこと。
渇望感のようなもの。


ぼくはずっと、この物語をアニメで観てみたいと思っています。
なぜだかわかりません。
この音楽には、アニメがしっくりくるとずっと思っています。
それも日本のアニメーションです。


実はこの作品には、イギリスBBCが制作したアニメがあって、
YouTubeで観ることができます

そのことを知ったときにはとても期待して観てみたのですが、
ぼくにはしっくりこなかった。
残念な思いをしました。
もちろん、BBCには何の咎もありません。

なんというか、優しくないんです。
諧謔が勝ってしまっているというか。
キツネもヒトも、カエルもトンボも全部同じ生命ですが、
 人間と他の生命との間に、抜きがたい区切りがあると感じてしまう。
その区切りを前提に、
 人間をヒトという動物として、
 敢えて区切りの向こう側の存在として描いているような印象を受けます。
だからとても諧謔的。


『この世界の片隅に』は、表面的には、「人間の物語」です。
ストーリーだけを抜き出せば「人間の物語」以外のなにものでもない。
だけど、映画作品の絵は、そうではない。
ヒトも、野の草花も、同じように描かれていると感じます。

BBCの『女狐』も、同じといえばそうです。
だけど、同じくあちら側。
『この世界の片隅に』の絵には、あちらもこちらもない。

あちらもこちらもないといえば、すずが作中で描く絵がそうです。
海上の白波を白ウサギが飛び跳ねるように描いた絵。
ああいった絵は、あちらこちらの区切りがあったらならば出てこないと思うし、
『この世界の片隅に』の絵が、そういう絵だと感じる。


あちらこちらがないといえば、ジブリの絵もそうです。
あちらこちらはないが、自我は立っている。
キャラクターもそうだし、ストーリーもそうです。

そして『女狐』はといえば、これもまた自我が立った作品です。

でも、なぜか、『女狐』にはジブリの絵ではないと思う。

なぜか。
おそらくは、その自我が殺されてしまうからです。
主人公のビストローシュカは、密漁されて、襟巻きになってしまいます。
はなはだ理不尽です。

だけど、娘が生き延びる。
生き延びて、生のサイクルが異なるものと再会する。
年老いた森番。
ひい爺さんの、そのまたひい爺さんから伝え聞いているというカエル。

それぞれにそれぞれのサイクルがあって、
それぞれに生きていて、
それぞれが全体として「大きな輪」になっているという結論。

この結論の前では、自我は「いろどり」です。
仏教の言葉で言うと「色」でしょうか。
儚いからこそ、鮮やかで、美しい。

『この世界の片隅に』にも、そうした趣があると感じます。
理不尽はあるけれども、
そしてそれは巨大なものだけれども、
それぞれがそれぞれに生きている。

自分が中心だとは言わない。
片隅だという。
「大きな輪」の一部。

「この世界の片隅に」は、
この言葉だけをみれば自己否定のように捉えてしまいがちだけど、
でも、本当の意味は真逆です。
大きくてしなやかな自己肯定。

この世界こそが〈私〉の居場所。
大きな世界のなかの、「この場所」に生きている。
それは「たまたま」そうなのであって、
「たまたま」だからこそ、その「いろどり」が鮮やかに映える。
ヒトも、野の花も同じ。


『この世界の片隅に』も、『利口な女狐の物語』とならんで、ぼくの宝物になりました。




コメント

>この結論の前では、自我は「いろどり」です。


そうだ、これ、これですね。
僕の感覚的にすごくしっくりきます。
僕としては「自我」というより「わたし」ですけども。


>大きな世界のなかの、「この場所」に生きている。
 それは「たまたま」そうなのであって、
「たまたま」だからこそ、その「いろどり」が鮮やかに映える。


「鮮やかに映える」、あるいは「鮮やかに映えて見える」必要があるのかどうかは 僕には疑問ですが、でも言いたいことには同感です。 (^^)

・アキラさん

そうです。そこです(^o^)
ここさえ共感できていれば、あとのことは、ほんの些細なことだと思います。

でも、些細なことだけど、それだかこそ、大切だったりするんですよねぇ~(^_^;)


>「自我」というより「わたし」

そうですね。その方がぼくにもしっくりきます。
「「自我」が立っている」と書いてしまったので、その流れで行ってしまいましたが。
「立つ」というと、やっぱり「自我」になってしまうんですね。
「わたし」だと、際が曖昧で、「ある」とか「いる」になっても「立つ」にならない。

『この世界の片隅に』の絵が、「ある」とか「いる」の絵だと感じます。


>「鮮やかに映える」、あるいは「鮮やかに映えて見える」必要があるのかどうか

ありがたい問いかけです。
必要なんて、ないですよね。

「鮮やか」「映える」「見える」...。
これらも全部、「たまたま」なんだと思います。

「ある」のが、「いる」のが「たまたま」なら、
鮮やかに映えたり、くすんで見えたりするのも、「たまたま」
見る者の「見方」「ありかた」でどのように見える。

「鮮やか」「映える」「見える」は、「たまたまの二乗」と言っていいのかもしれませんね。


「色即是空 空即是色」は、そういうことを言っているのだと勝手に合点しました。

「ある」「いる」が「たまたま」だというのが、色即是空。
その「たまたま」から、重ねて「たまたま」に「鮮やか」だったりするのが空即是色。



そうか。
「色即是空 空即是色」はこのままテトラレンマなんだ。

>「ある」のが、「いる」のが「たまたま」なら、
鮮やかに映えたり、くすんで見えたりするのも、「たまたま」
見る者の「見方」「ありかた」でどのように見える。

「ある」「いる」が「たまたま」だというのが、色即是空。
その「たまたま」から、重ねて「たまたま」に「鮮やか」だったりするのが空即是色。


同感です。 (^^)

なんかいい感じのコメ欄だなぁ、こういうの好きです。
「この世界の片隅に」もこんな風に映っていたのですね。
いまさらながらなるほど。
ワタシにはその時々の二度と無い、たとえば花やら光やらの「いろどり」のほうがピンとくるので、響くところも人それぞれかもしれませんね。
映画を観てさほど響かなかった自分を卑下するのはやめときます、笑

「大きな円環」ということでいえば、やはりピダハンみたいな方がワタシにはピンとくる。どうも戦争などの【システム】が円環に干渉してくると、もう円環そのものが壊されていているような気がして仕方ない。
とはいえ、ひどい干渉がありながらも、すずのようなたんたんと生きるということには素晴らしいと感じますし、そうしたなかにも「空即是色」を感じるのも素敵だと思います。
あっ!?、結構すずを良いと感じているんか、笑

・毒多さん

>「この世界の片隅に」もこんな風に映って

はい。
冷たい雨の中に咲く梅の花のように。

響くところはそれぞれ違うし、
表現の仕方もまた、違う。
同じ人間であっても、時と場合によって違ったりもする。


ぼくはここでは「いろどり」と表現しましたけど、
同じことを〈かたち〉と言っていたりもします。
《たましい》とも。

風の谷のナウシカのセリフならば、
 「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」


>すずのようなたんたんと生きる

ほう、毒多さんには、すずは「たんたん」なのですね。
ぼくは「あざやか」だと言いたいけれど。

「すず」というキャラクターを通じて、「たんたん」と「あざやか」が結びつく。
言葉って、なんとデタラメなんでしょう(^o^)

ピダハンたちは、こうした言葉のデタラメさからはおそらく「自由」なんでしょう。
だから自在でいられる。
ヒトでありながら、大きな円環から外れることがない。

僕たちはデタラメな言葉を駆使して、生きるしかない。

 色即是空 空即是色

なんてのも、考えてみればデタラメなもんです。
それに意味があると想い為すから、
 思いに意志を込めるから、
デタラメであっても意味を生み出す。

デタラメだから「たまたま」が「空」であり、同時に「色」でもあり得る。
「たまたま」が「空」であり「色」であると一本道筋ができると「いろどり」へもつながって、
「たまたま」「いろどり」「空」「色」で〈輪〉ができる。

かくのごとく〈輪〉を作るのは〈わたし〉。
「自我」はそういう〈わたし〉を発見することはできる。
そういう〈あなた〉も、発見できるかも。

発見され表現された〈わたし〉や〈あなた〉は、
その瞬間に〈わたし〉や〈あなた〉ではなくなってしまうんだけれども。

おはようございます。

雨にうたれて咲く梅に「あざやかさ」を感じましたが、「たんたん」と咲いているとも思いましたよ。
「あざやか」も「たんたん」も同時にいられる、、というより、「たんたん」でなければ「あざやかさ」もない。
「空」と「色」はセットですね。

いま、ワタシの気持ちとして別の言葉を提示するなら、「安心」です。すずも梅の花も、またまたピダハンも逝きし世も「安心」です。
付け加えるなら類君もイド君も東田君も「安心」です。
「たんたん」が「輝いている」ことの「安心」。

ところがワタシは「不安」に導かれる(惹かれる?)ようです。COCORAしかり自殺志願者しかり、、苦笑
不思議なものです。業ですwww


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