愚慫空論

『ベビーカー利用者たちの悲しい本音』


ライブドアニュースから、ネタを頂戴。

『ベビーカー利用者56.8%が嫌な思い
 「邪魔者扱い」「蹴られた」公共機関での悲しい仕打ち』
 
言いたいことは、ただひとつ。

 ベビーカー利用者は「障害者」である。

女性が子どもを産むことは「普通のこと」。
子どもが赤ん坊のうちは、親が世話をするのも「普通のこと」。
世話の役割を主に母親が担うのも「普通のこと」。

小さな子どものいる母親といえども、社会生活を営むのは「普通のこと」。
母親が社会生活を営むならば、子連れで出かけるのも「普通のこと」。
子連れで出かけるならば、ベビーカーを利用するのは「普通のこと」。


「普通のこと」をしているだけなのに、どうして障害者なのか?

ベビーカー利用者のママたちは、この事態をどのように思っているのだろう。
一番多い回答は「事情を理解し、優しく接してほしい」で、61.6%にも上る。
次点は「不快に思う」で9.3%だった。



 事情を理解し、優しく接してほしい。

これはまさに「障害者」が望むことでしょう。
自立した障害者は「事情を理解したうえで、「普通に」接してほしい」と言うだろうけれども。


「事情を理解してほしい」と望む心は孤独です。

赤ん坊を抱えているというのは「普通のこと」なのに。
外に出かけるのは「普通のこと」なのに。
なのに、ベビーカーを使うと障害者になってしまう。

「普通のこと」なのに理解が得られない。
なぜか?

理解したくないから。
理解してしまうと、怒りを発動できないから。
本当は怒りに塗れて生きているのだけれど、
つねに怒りを発動させているのは「普通のこと」とは見なされないので、
普段は怒りを制御している。
いつも怒りを発動させる理由を探している。
怒りに塗れているものにとっては、優先すべきは他者への理解ではない。
残念ながら。

人間は優しい生き物です。
少なくとも僕はそう思っている。
同時に弱い生き物でもある。
だからこそ、集団で社会を営むことができる。

優しく弱い人間は、自分が塗れている怒りに抗えるほど強くはない。
怒る人間には怒るだけの事情がある。
ただ、その事情を忘れている。
あるいは忘れようとしている。


「障害者 定義」で、Googleさんに問い合わせてみます。
トップに出てくるのは、wikipediaの記述です。

障害者基本法では、第二条において、障害者を以下のように定義している。 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。) その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。) がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。



障害および社会的障壁により?
純粋に障害といえるのは、精神障害くらいではないのか?

社会的障壁が「障害」を際立たせます。
社会的障壁が低ければ、機能障害があったとしても、
 「継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態」にはならないでしょう。

制限を受ける原因が主に社会的障壁の側にあるとするならば、
身体障害、知的障害、精神障害、発達障害、
そしてベビーカー利用者も、同列の「障害者」です。
彼らが障害者扱いされる理由は、彼らの事情にあるのではなくて、
 社会を営んでいると自認する健常者側にあるのだから。

一次的にせよ、恒常的にせよ、社会的に不利な事情を抱えている者を
障害者扱いするという障害。
ニューロティピカル症候群の特徴だと僕は思っています。


彼らは言います。

  事情はわからなくはないけど、迷惑なものは迷惑なんだよね..

そういう言が、どれほど迷惑な言なのかに気がつきません。

  それでは伝わらない。
  伝わらなければ意味がない。


こういった言が、拒絶に響くことに気がつきません。


気がつかないということには、しかし、理由があります。
彼らには彼らの事情があります。
気がつかない方が安心だから。

だから逆に、気がついた方が安心なことには、よく気がつきます。
儀式などを経て、権威を身にまとった者の言には気がつこうとする。

プジョーSAの場合、決定的に重要な物語は、フランス議会によって定められたフランス法典だった。フランスの立法府の議員たちによれば、公認の法律家が正規の礼拝手順を踏み、儀式を行い、みごとな装飾に施された書類に必要な呪文や宣誓をすべて書き込み、いちばん下に凝った署名を書き添えさえすれば、あら不思議――新しい会社が法人化された。1896年に会社の設立を思い立ったアルマン・プジョーは、法律家を雇って、こうした聖なる手続きを一つ残らず踏ませた。その法律家が正しい儀式をすべて執り行ない、必要な呪文と誓いの言葉を残らず口にし終えると、何百、何千もの廉直なフランス市民が、プジョー社が本当に存在しているかのように振る舞った。


 


何百、何千もの廉直な市民。
ニューロティピカルな人たちです。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、
 妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。


 『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」』

儀式によって成立する共同幻想を
 ニューロティピカルな人たちは妄想や強迫観念だとは、思わないでしょう。
自覚がない。
自覚の欠如は障害者の特徴です。


ちなみに僕は、こうした「儀式」の意味がよくわからない。
多くの人にとって意味があるらしいことは、間接的には理解できます。
だけど、直接的には響かない。
「儀式」にはつねに強制感があります。


私はようやく知ったのだ、“姉は私とは違う考えを持っている”と。
私はそれでも、姉も私と同じように思考しているんだと思っていた。私と同じように感じ、私と同じように物事を見ていると違いないと、思い込んでいたのだ。姉だけではない。この世にいるすべての人が、私と同じように感じ考えていると思っていた。





「儀式」を共有できる人たちには
 このような「気づき」を得たときの孤独感は理解できないでしょう。
薄々理解はしても、大半は
 安心を得るために、
 理解から目を背けようとする。

ぼく自身の経験から言えることです。


いえ。
「儀式」を共有できる人たちにも、理解が届かないわけではないはずです。

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。





ここにある孤独感。
孤独からの救済感。
理解不能だとは思いません。
老夫婦は、「儀式」の意味を直観できる人ではあったでしょう。


ただ。
『歎異抄』が長らく秘書であったことを考えると、
 このような孤独感を正面から肯定することは危険なことなのかもしれないと
  思わざるを得ません。


コメント

おおお、書いたねぇ、笑

>ベビーカー利用者は「障害者」である。

後に書かれている内容が理解できずに、このセンテンスだけで噛み付いてくるベビーカー利用者(母)は多いだろうなぁ。
障害者扱いするな、って、笑
ベビーカー利用者もまたニューロティピカルなんだよね。
「普通に迷惑をかけている」とう空気に同調しているとね。
仕打ちをしている側と同じ(自称)健常者という自覚している。
でもあるとき、このエントリーの文意のように障害者になった。
これもまた二次障害だな。

二次障害を負わされたときこそ気づくチャンスだと思うのだけど、そうはならない。
二次障害であることを自覚してないってことかな。
もっとも本当の問題は負わせる側(社会の障壁)なんだけど、、、
ベビーカーが終われば「悲しい仕打ちをする」側に紛れてこんでいってしまい忘れ去られる障害である、ニューロティピカルシンドローム。

・毒多さん

書きましたとも。
大半の者の気持ちがわからない「エイティピカル」全開です(^o^)/

>二次障害であることを自覚してない

自覚に至ることをシステマチックに阻害されるだと思います。
自覚に至ることは孤独になるということですから。
安心できなくなる。
疎外されても安心へ近寄りたい。
弱いですよね。
どうしようもないと思います。

だからこそ「システマチックな阻害」をキャンセルする〈システム〉が要る。
孤独でも、とりあえず、金があれば生きています。
現代社会では、ね。

このまえね、自殺「予防」の「講演会」に行ったのね。
日本人の自殺の要因は「いじめ」「ブラック企業(過労)」「孤独」etcでした。まあ「いじめ」も「過労」もその先の「孤独」が直接の原因なんだろうけど。
「金さえアレばなんとかなる」のなんとかなった後で待ってるのも結局・・・
ニューロティピカルにとってはより一層「孤独」は耐え難い重大事項です。
ちなみに若者の死因の一位が「自殺」ね。

ところでエイティピカルって自殺するのだろうか?
あ、二次障害ではあるんか、COCORAも死のうとしていたな。
ニューロティピカルの自殺も二次障害か。
COCORAが聞いていた「声」はニューロティピカルには聞こえないな。

ちなみに講演者は元NHKのディレクターで「クルーズアップ現代」なんかを担当していた人。
「クローズアップ現代」で自殺をテーマにしたことがきっかけで、NHKを辞め、「立場」と私財を投げ打って自殺問題に取り組んだって気骨のある人なんだけど、講演の内容は不満足だったんだよなぁ、、、、長くなりそうなので、自分とこにしようかな、笑

勉強しているんですね、毒多さん。
業、いや、天命か(笑)

>「金さえアレばなんとかなる」のなんとかなった後で待ってるのも結局

まあ、そう考えるのが「普通のこと」でしょう。

このあたりはベーシックインカムの議論につながりますし、
根源は「サピエンス」の物語で明らかにしたいとおもっていますけど、
無条件で金があるなら、孤独は恐れる必要がない。
というのも、貨幣こそが、もっとも社会的なコミュニケーション手段だから。

だからこそ、自由主義というイデオロギーは貨幣を基盤に成り立っている。

貨幣という安心があれば、人間は失敗を恐れずにコミュニケーションに挑むことができる。
逆なんです、現在は。
コミュニケーションに失敗すると、貨幣というもっとも社会的なコミュニケーションを奪われてしまう。

貨幣は怯えの象徴になってしまっている。一般的な人間にとっては。
そこさえひっくり返れば、いろいろな意味で社会現象が逆転していくとぼくは予想しています。
そしてそれは、技術的にはもはや可能。
あとは、「怯えを隠蔽すること」を「安心」だと思い込んでしまっている強迫観念症を治癒できれば。

勉強っていうか、業です、笑

まあ、先のエントリーをまちますが、確かに「金の切れ目が縁の切れ目」って言葉もありますね。
いまどきは金でコミュニケーションも買えるってことでしょうか?
コミュニケーションができるところには金も集まるのか?
なんとなく、そのコミュニケーションに物悲しさを感じるのは貧乏人のうえに貧乏根性丸だしだからかな、爆^^;

逝きし世の面影、、、がちらつきます、笑

先になるべくわかりやすく語るつもりではいますが、ちょっとだけ。

買うという行為は経済行為です。
経済行為はモノ(サービスを含む)とモノとの交換ですが、
交換に先立って、情報交換が行われる。

コミュニケーションとは情報交換に他なりませんから、
モノとモノとの交換に先立って、コミュニケーションが行われるということです。

では、貨幣はモノなのかという話です。
貨幣は虚構、データ、情報です。

お金でモノやサービスを買うということは、実は情報と実態のあるモノとの交換に他なりません。
つまり、実体的な交換行為にコミュニケーションが食いこんでいるわけです。

実体的な交換行為となすことができる情報、すなわち「信用(クレジット)」ですが、
「信用」と言ってみたところで実態が実体のない情報であることに変わりはない。
そして情報はコミュニケーションでやりとりするものです。

貨幣は言葉と同様のコミュニケーションツールでありながら、実体的な交換も為すことができる独特の機能を持っています。貨幣がこうした機能を持つことができるのも、人間が交換行為に先立ってコミュニケーションを為すからなんです。

つまり、貨幣がないという状態は、コミュニケーションにおいて言語がないという状態と同等です。
言葉を奪われるとコミュニケーションができない。
民主主義体制下において言論弾圧は悪と見なされますが、
不思議なことに、貨幣というコミュニケーションツールが奪われることは、必ずしも悪ではない。
なぜかというと、貨幣を未だにモノだと考えているからです。

「働かざる者食うべからず」という発想は、モノの発想です。
一方で、金融商品などという情報操作での金儲けも為されている。
情報操作と、モノやサービスの生産消費は、本来はまったく次元の異なる行為なのに混同されてしまっている。こんなことが起きるのも、認知革命後の人間が「二つの現実」で生きているから。

ものやサービスの生産は、「ひとつめの現実」。
貨幣操作は「ふたつめの現実」。
人類の歴史の大きな流れは、「ふたつめの現実」が「ひとつめの現実」を圧倒していくものです。
圧倒されてしまうのは、「ふたつの現実」が混同・混乱しているからの他ならない。

「ふたつの現実」をキチンと切り分け、整理すれば、
交換行為に先立つコミュニケーションツール(貨幣)の剥奪が、
言論弾圧と同等以上の悪行だということが認識されるはずです。

そして、交換行為に先立つコミュニケーションが保証されるなら、
人間は安心して交換行為に先立つコミュニケーションを行い、しかるのちに交換行為を為すようになる。

現在は、というより、有史以来ずっと、交換行為の方が先に来ていた。一部の特権階級のみが先にコミュニケーションを行なうことができた。経済行為の自然なあり方とは逆になっている。すなわち【システム】です。

顕著なのが資本主義社会です。貨幣を得るためには労働を売らなければならない。労働という実体が先、貨幣という情報が後。おかしいでしょう?

なぜそんな始末になってしまったのかは、後ほど語ります。
このあたりの事情が理解できれば、難解な『資本論』なども、もっとスッキリと解きほぐせそうな気がします。やってみなければわかりません、というより、ぼくにやれるかどうかはわかりませんが。

(『サピエンス全史』にその答えが記述されているわけではありません。ヒントはありますが。)

貨幣はもっとも単純なコミュニケーションツールでもありますから、よほどの知的障害でもない限り、その機能を理解することはたやすい。コミュニケーションが断たれる可能性は、言語以上に少ないんです。

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