愚慫空論

【追記あり】 『COCORA 自閉症を生きた少女』



『自閉症スペクトラム~発達障害の当事者による「壮絶な告白」』

『現代ビジネス』の記事です。

この記事によると、



上掲の本が電子書籍に限り、
       全3巻刊行予定のうちの第1巻に限り、
       期間限定で
無料で閲覧できるようです。

現代ビジネスの記事を見ると、僕にとっては興味深いないようです。
せっかくですので、読ませてもらいます。

感想等は、後ほど。



以下、追記です。
とりあえず、第1巻までの感想を。


僕にとっては、読み進めるのがかなりつらい本です。
幸いなことに『COCORA』の著者ほどの境遇にいたわけではないのですが、
過去の体験から否応なくできあがっている、
 とある成分へのレセプターが強く刺激されてしまいます。

その成分を、僕は【怨】と書き表わすことにしています。

著者が一貫して訴えようとしていることは、ただひとつ。

 私は私

ただそれだけです。
著者にとってはそれだけのつもりだろうと、僕は感じます。

とはいえ「それだけ」になっていないと感じるのもする。
著者が生きていく道程のさなかで身にまとうことになってしまった
 【怨】が色濃くにじみ出ています。

もう、これはどうしよもない。
「私であること」と【怨】をまとっていることは切り離せない。
そうやって生きてこざるをえなかったのだから。


この【怨】は、読む者を不愉快に、あるいは愉快にします。

著者に同情を感じる者は、【怨】がかえって快感でしょう。
反発を感じてしまうと、うざったく感じられることでしょう。

こうした「感じ」は、読者が受け止めようとする「構え」によって変化してしまう。
これもまた仕方がないことです。

当然、僕にも同様の仕方がない縛り――「構え」がある。
そこからでてくる所感が、【怨】を切り離せないことの苦しさです。

 私は私であろうとしただけなのに、
 なぜ、こんな【怨】をまとわなければならなかったのか。
 どうやったら【怨】を切り離すことができるのか。


この本は、著者が長年書き溜めていた文章を、まとめたものだということのようです。
ということは、おそらく他者による「編集」が入っている。

推測ですが、著者のもともの文章に現れている【怨】は
 こんな程度のものではなかったでしょう。
編集者の手で、売り物になるように修正されているだろうと考えます。

『COCORA』といったようなタイトルで、
 一巻が期間限定無料で、2巻3巻と分割されて、
  それなりの値段設定で売りに出されることになっている。
利潤を考える出版社の意図としては、当然ではあるでしょうが、
 考えると少し不愉快になります。

発達障害関連の本は、今、ちょっとしたブームのようですし。

――こうしたことを考えてしまうのも、実は【怨】が変形した派生物なのですが、
    そう意識したとしても、やめられるものではありません。

    
では、この『COCORA』は、鬱屈した作品なのか。

そう感じる読者は多いかもしれませんが、
 僕はそう感じません。

「正直」だと感じます。
「素直」ではありません。

「素直」か否かかというなら、これは“否”です。
どうみても、「素」が「直」になっているようなものではない。
「素が直」であろうとすることが阻害されたことを、訴えるものなのですから。

阻害されたことを「直」に訴えています。
その意味で、「正しく直」。
そして「正直」と捉えるなら、これは力強い本です。


たとえば、この本には、著者が離人症を発症していく内的過程が綴られています。
離人症は、社会適応という見地からみれば、相当に重度の障害です。
では、そういう障害を負わされた著者は気の毒な弱者か?

社会的にみれば“応”です。
人間は社会的な生き物ですが、阻害なく「直」に生きれば「素直」です。
著者は「素直」ではないので、疎外された弱者だというのは、正しい見方です。

だけど、その見方は社会的でしかない。
「正直」という見方でみれば、離人症を発症したということでさえ、生命の発露です。


この本を読みながら、思い出される風景があります。
一本の木が立っている風景。
その木は檜だったと記憶しています。
断崖に一本、へばりつくようにして立っていた檜。

その檜は異形でした。
吹きさらしの断崖で風に叩かれ
 真っ直ぐ上に向かって素直に延びていくことを阻害されたのでしょう。
それでも力強く生きていました。

いえ。
「それでも」ではないんです。
「それでも」がすでに、定型の視点です。
「それだからこそ」。
異形が際立っていた。


僕たちはその木を切り倒しました。
架線を張るのに邪魔になったから。
人間の都合です。

切り倒してみると、年輪がびっしり詰まっていました。
通常ならば、大きさから推すなら50年程度の檜が
 年輪からみれば、その3倍は生きていた。

そうしたことを知ったときに、わき起こる感情は畏怖です。
罪の意識です。

けれど後悔はしていません。
「人間の都合」に流されたことには引っかかりはありますが、
そうであるからこそ、あの「異形」の正体に出会うことができた。
出会うことができたことは、素直に喜びです。




ヒトは人間に成長していくことをやめられません。
〔世界〕に向かって発展していくことはヒトの本性。
「裡なる欲求」の一部です。

ヒトが〔社会〕に向かって「素直」に発展することを阻害されたとしても。
 COCORAのように。
それでも〔世界〕に向かって成長していくことは止まらない。
〔社会〕に向かって成長できないならば、
 〔社会〕でない〔世界〕に向かって延びていくだけのこと。
その成長が、社会的には「離人症」という障害として認知される。

その認知は正しい。
正しいが、あくまで社会的という限定付きです。
〈生命〉の見地からすれば、それもまた成長であり
 〈生きる〉ことであることに変わりはない。

COCORAは、現実と空想の区別が付かなかったと書いています。
社会的な人間はそのことを障害と認識するでしょうが、
 そのように成長した者からすれば、至極当然のことです。

そもそも社会的な人間ですら、現実と空想の区別はつかない。
違いは、大多数の人間、空想の共有が可能であるというだけのことです。
共有された共同幻想は〔虚構〕として「第二の現実」になる。

もちろん、大人になれば「第二の現実」と認識することが可能になります。
が、それはCOCORAも同じこと。
自分の空想が空想であったことを把握していています。
把握できているから『COCORA』という本が出版されている。


それだけではありません。
COCORAにとっては、現実は2つではない(だろうと予想します)。
3つか、それ以上ある。
自分の空想を現実と区別できるし、社会的な虚構もまた、区別ができる。
つまり、〔世界〕をより多角的に相対的に眺めることができる。

多様な視点を獲得できること。
この見地に立てば、
 たった2つの現実しか認知できない定型発達者は障害者だということになる。
2つの現実の、肥大化した虚構に押しつぶされそうになって絶望している。

3つ以上の現実が見える者からすれば、その絶望は滑稽ですらあります。

確かに、3つめ以上の〔現実〕は、社会的認知では空想でしかない。
そうだけど、歴史を振り返ってみれば、
 私たちは2つめの〔現実〕を、空想から現実へと育て上げてきたわけです。
ならば、次の〔現実〕を育て上げられないわけない。

――途中から、COCORAと愚慫が入れ替わってしまいましたね(笑)

コメント

おはようございます。

エントリーはハイピッチ過ぎてついていけなくなってますがorz、雑談をば・・

例の面談の彼(女)は、当然ですが「採用」されました。
履歴書の写真、作文の感じの予想とは違いかなり、はっきりときっぱりと自分(言葉)を出せる方でした。いつかゆっくり話しをしたい(いろいろ教えてもらいたい)感じです、笑。
それにしても、彼(女)の作文の素晴らしさを他の理事さんたちに訴えたのですが、まったく響いてなかったようで、キョトンとされてしまいました、爆。、、、自分の浮きかたに笑えてきます。

今、「自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで」(イドケダー著)を読んでいて、ご紹介のエントリーとかぶるので、ちょっと紹介(読み終わったら自分のエントリーにて所感を書くつもりですが、、)。
重度の自閉症スペクトラムの言葉ということでは日本の東田直樹さん(跳びはねる思考)のときもかなり揺さぶられましたが、イド君はもう少し、自分の意志と身体の乖離とか、周辺の思い込みや勘違い、を分かりやすく教えてくれているので、かなり揺れ揺れです。感動しています。

自閉症スペクトラムの「出力障害」の部分が技術的に解決され、ジレンマにおちいてる多くの自閉症の人がコミュニケーションをとる手段が得られると、とても面白いと感じています。

ご紹介の書籍も読んでみます。

・毒多さん

最近、調子づいています(^o^)

>例の面談の

ああ、それはよかった。
いろいろと機縁が生まれていくといいですね。

>作文の素晴らしさを

そのことは、彼(女)に伝えられましたか?

イドケダーさんの本も、東田直樹さんも、近いうちに読んでみたいと思います。
エントリーも楽しみにしています。

今回紹介した本ですが、
というより読む前にフライング気味に取り上げてしまったのですが、
読み進めるのは、かなりきついです。
少なくとも僕にとっては。

この本も、とても「正直」です。
そう、あの『絶歌』のように。
あれよりも、ずっと自分に「正直」。

そして、それがとてもきつい。
読むに値する本だとは思いますけど、紹介して良かったのかと思うくらい。

追記します。

>自閉症スペクトラムの「出力障害」の部分が技術的に

うっかり見逃してしまう相になりましたが、ここはとても大切なことだと思います。

ただ。技術的な解決だけでは足らないと思うんです。
コミュニケーションですから。
受ける側にその構えがないと、コミュニケーションはなりたちません。

>まったく響いてなかったようで、キョトンと

みたいに(^_^;)

>(感動したことを)彼(女)に伝えたれましたか?

はい、面接の最中に、先頭をきって伝えました。が、流石に何がどう素晴らしいかは、伝えはしていませんので、ご本人も若干びっくり気味、笑。多少ワタシの深読みもあるのかもしれません。
その作文をネタに軽くエントリーしたくなってきました。

そうですか、「COCORA」はハードですか。
正直いって表紙の表情だけでも受け止めるのはかなり覚悟が入りそうな気がします。
東田さんもイドさんも、文章的にはライトですぐ読める本です。

>受け止める側に構えがないと、コミュニケーションはなりたたない。

この辺りのことは、イド君が何度も何度も言っています。
既存の治療者にコミュニケーションの意志がなく、絶望的だったようです。

>若干びっくり気味

いいですね。(^o^)
エントリー、楽しみです。

>イド君が何度も何度も言っています。

そうですか、そうでしょうね。
この種の「絶望」は、デフォルトでコミュニケーションが容易につながる者には、理解が構造上難しい性質のものですから致し方ないのですが...、
が、それを致し方ないで終わらせてしまうと、本当に絶望するしかない。
だから、「何度も何度も言う」にならざるをえないと推測します。

推測を確かめてみなければ。

>受け止める側に構えがないと、コミュニケーションはなりたたない。

「構えない」という構え、ですね。
僕の経験上、ある種の思い込みが強い人は、コミュニケーションが成り立ちづらい、成り立たない、ことが多いです。
ということは、「(何らかの)思い込みが強い」人は、「コミュニケーションの意志がない」と見られる、受けとられる、ということですね。

愚慫さん

COCORA読み始めています。
まだ最初(幼稚園が終わる頃)で、とてもとても響いてくるのですが、ワタシには「きつい」という感覚が薄いです。きついのはきついですがアタマで想像する「きつさ」で、おそらく愚慫さんの言う身体的(経験的)な「きつさ」とは異なるような気がしています。子どもの頃のワタシならば大勢と同じ感覚、行動だったと思います。(彼女の家庭はひどすぎると感じますが、、本を書いていることがアドラー的でよかったと感じています)
最後まで読んでどう感じることやら、、、

アキラさん

よこから失礼。感想なのでスルーしていただいて結構です。
>思い込みが強い
>「構えない」という構え
ヒャぁ〜、耳が痛いorz
ワタシ自身のあれやこれやそれやどれやを考えると耳が痛いです。
とはいえ、『「構えない」という構え』についても、様々な理由がありそうですね。
(定型多数の)思い込みがつよく、自分を曲げたくないという【立場】の場合もあるでしょうが、努力した結果「構えないほうがよい」と判断したこともあるでしょうし、イド君や表題のcocoraさんのように、一方的なコミュニケーションを押し付けられて「構えのないお前はおかしい」とされる場合もありそうです。

なんだか、いろいろ考えてしまいます。

・アキラさん

この本が告発しているのは、「(何らかの)思い込みが強い」というのは周囲の「思い込み」であるということです。


当人には十分にコミュニケーションの意志はある。
というより、コミュニケーションの意志がない「人間」なんていません。

「ヒト」のコミュケーションへの意志がいかなる経路をたどって発展し、「人間」になっていくのか。アキラさんがよくご存知の分野だと思います。


>「コミュニケーションの意志がない」と見られる

そのように見なされるのは、事実としてそうでしょうが、
それが良いかどうかは別問題ですし、
その別問題を切り捨てるのは、それはそれで「構え」です。

ここの文脈でいう「受け止める側の構え」というのは、
そこを別問題として切り離さない、という構えのことです。

・毒多さん

>愚慫さんの言う身体的(経験的)な「きつさ」

そうです。
僕の場合は経験的です。

だとしたら、紹介していただいて読もうと思っている本も、僕にとってはきついかもしれませんね。
頑張ってみるつもりですけど。

愚慫さん

あっ、わかった、すまん。
COCORAのなかで、定型発達がつくる環境によってどう「きつく」感じるかいちいち説明入りで書いているのにもかかわらず、どうもすぐにそれがリアルと繋がらない。ワタシにやぁホント「傲慢」が染み付いてますわ。
イド君のもとてもキツイ気がします。
あんまりムリせんといてや。

・毒多さん

お気遣いありがとうございます。
ご心配なく、大丈夫です。
たぶん。

苦しいことは苦しいですが、それに溺れてしまうようなところにはもはやいないと思いますので。

殺生をしてきてよかった...? (^_^;)

>どうもすぐにそれがリアルと繋がらない。

いえ、それでいいんだと思います。

著者はつながってほしいと思っているかもしれませんし、
そういう作りの本ではあるんですが、
そういうつながり方は、本文追記で記した【快感】にしかならいので、
むしろ邪魔です。

たんに、つながらないとだけ、わかってもらえればいい。

そういうところ(心情的なところ)ではつながらなくても、
〔現実〕(←いろいろなレイアがあります)はつながっているんですから。

むしろ「つながらない」ということの認識が、
現実は「つながっている」とことの認識を際立たせるようになります。

僕がいつもいう経済がそのひとつです。

「つながっている」「つながりたい」と願ってしまうと、
 それはまごう事なき〔善意〕なんですけど、
むしろ別次元のつながりへの認識を阻害してしまいます。

その阻害を阻害として感じえないのが、ニューロティピカルだと僕は思っています。

こういう問題って、必ず自分にも相手にも「返す刀」になりますよね。

僕は、自分の側に返ってくる「返す刀」問題を、どう受け止め、どのように咀嚼し、どう自らは行動していくのか、そこに強い興味があります。
そのための「告発」?は、とても重要だと思います。
それが無自覚な僕らへの「返す刀」になりますから。

で、僕の興味は、そうして、その「告発」なるものをした本人に今度は「返ってくる刀」を、どう受け止め、どのように咀嚼し、どう自らは行動していくのか、そこなんですね。
ま、いつも繰り返し言ってしまうことですけど。 (^_^;)

・アキラさん

>必ず自分にも相手にも「返す刀」になりますよね。

ええ、そうです。ホントにそう。
そこは避けて通れない。だから剣呑になる。
避けるのは問題そのものを避けるしかないんだけど、
でも、やっぱり私たちは避けずにきたと思っているんですよ。

かつては同じ人間なのに、奴隷がいるのは当たり前だった。
人種差別も当たり前だった。
男尊女卑もまだ根強く残っている。
今でも奴隷はいるだろうし、差別がなくなったわけではないけど、
でも、当たり前ではなくなってきている。
先はまだまだ見通せませんけど前進はしている――と信じたい。

それも、やっぱり剣呑であることを避けない人がいたからだと思います。
そういう中で剣呑に押しつぶされた人は、押しつぶされずに成果を残すことができた人の、
何倍も何十倍もいると思う。

でも、そんな「冷静な話」は僕には関係のないことです。


>今度は「返ってくる刀」を、、、、どう自らは行動していくのか、

見ていてください、としか言いようがないです。
それこそ「構えのない構え」で。

どんな生き方をしていようが、リスクのない生き方なんてありません。
どんなリスクをどう取って、どう生きようが、それはその人の主体性の問題です。
たとえ殺人であっても――
――というと、大きな石を投げ込むことになりますが、今回はスルーでお願いします。

僕の関心は、突き詰めればただ一つ。
リスクで身動きが取れない、コミュニケーションが取れない、そういうことだけはなんとかならないものか、と。その現実を放置したままで「どう生きようがその人の問題」と言い放つのは、無責任だろうと。

「返す刀」は、まったくその通りです。
ですけれど、その「刀」は甚だ不公平なものです。
万人に平等なものでは、けっしてない。

「どう生きようがその人の問題」だと言っていいようになってほしいし、その方向に沿って生きたい。なんのためらいもなく「返す刀」と言えるように。

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