愚慫空論

再び、『この世界の片隅に』



『世界の片隅に』について、もう少し追記。

最初の記事はコチラ (^^)っ 『この世界の片隅に』
当文章の、出発点はコチラ (^^)っ 『サピエンス全史』 その2~虚構とは何か


〔大人〕を【大人】たらしめているのが、【虚構】です。



予告動画にはすずが号泣するシーンがあります。
すずが激しくなく理由は、かけがえのないものをうしなったからではありません。
姪っ子を失い、自身の右手も失った。

「喪失」という現象を、〔からだ〕は受け容れます。
受け容れることが出来なければ、死にます。
生きているということは、受け容れたということです。

「号泣」は抗うことです。
「嘔吐」と同じとは言えませんが、似ています。
「突き上げてくるもの」があるんです。

すずは玉音放送を聞いて初めて、「突き上げてくるもの」を感じた。
ここで初めてレセプターができあがってしまった。
レセプターが存在するようになったから、【疎外】と感じるようになった。


「戦争のある生活」を、【疎外】が当たり前に存在する暮らしを、
 すずは当たり前に受け容れてきた。

この「当たり前」は、【大人】の感じる当たり前ではありません。
【疎外】を感じるレセプターをもつ〔大人〕は、
 【疎外】を感じつつも
  それを「当たり前」のことだと自らを欺瞞することで【大人】になる。

すずには〔大人〕のレセプターがなかったがゆえに欺瞞も生まれなかった。
自然に〈当たり前〉なのと、欺瞞によって【当たり前】なのと。
同じ「当たり前」でも、まったく正反対のものです。

この映画に危険なところがあるとしたら
 それは、〈当たり前〉と【当たり前】が混同されてしまうことです。

〈当たり前〉のときの〔からだ〕と
【当たり前】の〔からだ〕は違います。
欺瞞のある【カラダ】と素直な〈からだ〉が同じであるわけがない。

ところが言葉を経由してしまうと、それを同じものだと解釈できてしまう。
だから言葉はデタラメで危険なんです。


言葉によって組み上げられる【虚構】から出てくる反応と
〔からだ〕の素直な反応を峻別できる者にとっては、
『この世界の片隅に』が、危険な映画であることはありえません。

また、【虚構】からの反応より〔からだ〕の反応を優先する者、
 すなわち〔主体〕のある者にとっても危険はありません。

〔からだ〕の反応を優先できず、【虚構】に〔主体〕を奪われてしまう人間には、
 もしかしたら危険な映画であるかもしれない。
すずの〈当たり前〉を【当たり前】だと権威によってすり替えられたとき、
 それに抗うことができない。
抗うどころか、すり替えに隷属することを「社会善」だと感じるようになってしまうでしょう。


矛盾するようなことを申し上げます。

本当は、この『世界の片隅に』という映画はとても危険な映画です。

誰にとって?
【システム】にとって、です。

〔からだ〕に素直であることを促す作品だから。
そして、誰もが〔からだ〕に素直になってしまうと、
 【虚構】によって編まれた【システム】が保たない。

象徴的な言い方をすれば「戦争ができなくなる」ということです。


ですが、残念ながら、そうした危険性が露わになることは、まずない。
ほとんどの者がこの映画を虚構だと受け止めて終わるから、です。
つまり「消費」されて終わる。
消費という構造の中を循環することで、【システム】への危険性は無害化される。
【システム】に支えられた毎日の暮らしのなかで
 現実問題としてすずのようには生きられないし
  そういう人間が実在したとしても、愛すべき例外であるにすぎない。
そのように考えて、自身を無害化してしまう。

すなわち、怯懦です。



※追記

大切なことを書き漏らしていました。

『この世界の片隅に』は
 クラウドファンディングで資金を集めて製作されたという事実。

この映画が【システム】にとって危険な映画であるとしたら、
 この事実は、その危険性が大きくなったことを示します。

瑞兆だと思います。

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