愚慫空論

『モヒカン故郷へ帰る』


偶然が二度続く。

理由はわからないし、わかるはずもないし
そもそも理由があるかどうかもわかりません。
わかりませんが、偶然が二度続く、という現象がなぜが僕には頻発します。



映画『モヒカン故郷へ帰る』のエンドロールを眺めていて、目に留まったのが、「呉」という文字。

公式サイトにロケ地の地図が紹介されていますが、やっぱり「呉」がある。
ロケ地は呉市ではないんだけど (笑)

映画で「呉」と言えば、のんが声を演じる―― (^o^)つ 『この世界の片隅に』


どうでもいいような話から文章が始まってしまいましたが (^_^;)
まあ、そういう映画です。
そういう映画だと僕は思いました。

僕が、自分で観る映画をチョイスするなら、この映画はおそらく観なかった。
他人がチョイスしたから、観た。

面白かったです。
こういう言い方は不遜に聞こえるかもしれませんが、

映画を暇つぶしの手段の一つとしている人――映画を好きな人
 ――にとっては、暇つぶし以上の楽しさをもたらしてくれる映画です。

映画鑑賞になんらかの教訓のようなものを求める向きには、不向き。
映画に対して欲張りな人には。

映画を好きな人のための、映画。


他薦のものを見たり聞いたり、僕は結構好きです。
同じ空間で、というのは若干、いえ、かなり苦手ですが (^_^;)

僕は欲張りな質なので、他薦でないとこういった作品に出会う機会を作ることができない。
どのようなことであれ「機会がある」というのは、良いことです。


タイトルから想像されるように、コメディです。
笑いのツボがうまく押えてある。
若干、ツボを強く押しすぎじゃね? ――と感じるところもありますが、
まあ、そのあたりは、人それぞれの好みでしょう。

特筆しておきたいのは、ツボの幅の広さ。

「ツボの幅」は、わかりにくいかな。
ツボが利く対象が広い、ということ。

公式サイトのロケ地紹介分に、

 エキストラとして、下は赤ちゃんから上は最高齢100歳のおじいちゃんまで島民総出で

とあるんですが、その甲斐もあってか、
子どもからじいちゃんばあちゃんまで楽しめそうな映画。

コメディっていうのは、誰もが楽しめそうでいて、案外間口が狭いことが多い。
「常識(虚構構造)」とのズレを虚構のものとして表現することで楽しませるのがコメディですから
ある程度、「常識」が一致していないと笑えないんです。
現代のように、世代間の違いが著しい時代では、
「常識」が一致している部分というのは小さいのですが、そこをうまくすくい上げている。
これは原作者の力量でしょう。


そういう「ツボの幅広さ」でいうと、ジャンルは違いますが、思い浮かんでくるのが



このオモシロオカシイ動画が大ヒットしたのは共通する「常識の幅」が大きかったからです。
幅が大きい上に、ズレが単純で、誰もが真似できそうに思える。
それもズレが単純だから、真似をしても真似にならない。
真似する人の個性が出る。

そう考えれば、ピコ太郎さんが提供したのは「プラットフォーム」なんですね。
笑いのプラットフォーム。

こういう単純なことは、為されてしまうと単純なんだけど、
提出することは誰にでもできることではありません。
やはり才能でしょう。

そして、プラットフォームだと考えると、
これはイノベーションの構造と似ていることがわかる。
たとえば、ジョブズが提出したiPhoneだとか。

そしてそして、イノベーションが生む単純さにも、特異な才能によるものと、
広範な現象の生起のなかから必然的に生まれてくるものとがあって、
後者については、おそらく人工知能のほうがヒトよりも優れている――

おっと、話が全然違ってきましたね (^_^;)


話を戻しまして。

この映画の影の主役は、矢沢永吉さんです。

島の中学校の吹奏楽部がYAZAWAの『アイ・ラヴ・ユー、OK』を演奏するんですが、これが最高にダサイ^^;
楽曲使用には、当然、矢沢さん当人の承諾があったはずですが、
よくOKを出したもんだと思うくらい。

矢沢さん当人はともかく、YAZAWAの純粋なファンなら、
 このダサさにはキレても不思議ではないと思います。

コメディを生むズレは、一方で、つねにキレられる危険性も孕んでいます。
それは、ズレの対象になる「常識」に、その人がどれほど依存しているかによる。
「常識」を相対化し依存から自立している人は、
 すなわち「常識」によってアイデンティファイされていない人は、
  そうしたズレが見えるし、笑うことができる。

いや、これは逆か。
笑わすことができれば相対化が起こる。
ヒトの身体は、たぶんそういう機序で作用する。


また話がアッチヘ行ってしまいました ^^;
映画のほうへ戻っていきましょう。

矢沢さんが楽曲使用を許可したということは
つまりキレなかったということから推測されるのは、
矢沢さんはご自身の作品をすでに相対化している、ということです。

そういうことがわかると、ひとつ期待が生まれる。
もしかしたらこの映画に、矢沢さん自身が出演するシーンがあるのではないか?

そう期待させる場面があるんです。

YAZAWA大ファンの父親が、ガンを患って、死期が近い。
それで息子が父親の希望を聞き出すわけです。
死ぬまでに叶えておきたいこと。
すると父親は「えーちゃんにあいたい」という(笑)

お、これでもし本人が出てきたら、グレート(笑)だな、と。
残念ながら、その期待は叶いませんが。


キレられるといえば、危ういと感じた場面をもうひとつ。
結婚式のシーン。
キリスト教式なんですが、いくらコメディとはいえ
 おちょくるにもほどがあるかもなぁ、と思わなくはない。
厳粛さが欠片もない。
これ、キリスト教原理主義者がみたら、キレるかも?

コメディとしては、そういう危険なもののほうが引き立つわけです。
そうした構造はフランスでテロを招いたジャーナリズムにも当てはまること。

どうせ脱線だらけなので、ついでに言及しておきますと、
このとき、欧州を中心に起こった"Je suis Charlie"は、ダサいと思いました。
オマエら、九鬼周造を読め、と。



シャルリー・エブドがやったのは、ズレを露わにすることです。
このことは、九鬼の基準で言うならば「いき」なことです。
YAZAWA流に「グレート」かどうかは知りませんが(笑)

露わになったズレにガチギレするのは、ダサい。野暮です。無粋でfす。
その野暮に対して"Je suis Charlie"は、これまたダサい。

"Je suis Charlie"を裏打ちしている「常識(虚構構造)」は言論の自由ですが、
これを持ち出すことがもう、ダサい。
イスラーム側は、別の「常識(虚構構造)」をもっているのだから。
そうなると、ガチ対ガチにならざるをえない。

常識≒虚構=アタマvs身体(からだ)という構図で見ると、このダサさがよく見える。
明治時代の日本の知識人には、まだまだこういう構図が生きていたんですね。
それは『逝きし世の面影』の反映であり、ピダハンという源像に近いものだと思います。

(上のように、他者を批判する僕も、【アタマ】vs〈からだ〉:の構図の〈からだ〉の側に立って振る舞うことができるかというと、まだまだ十分にはできていません。
方法論は見えてきたように思っています。
その方法論が正しいとするならば、〈からだ〉の側に立つことを阻んでいる【傷】が僕の中にある。
この【傷】によって生じている歪みによって阻害が起こっていると推測されるので
歪みを修正する構造改革をしないといけない。

「普通」に生きて行く分には、別に構造改革など必要ないのだけれど、
自分の伝えたいことを、純粋に伝えたいと思うなら、その必要が出てくる。
無粋にならず〈いき〉に振る舞う必要。)


またもや話は戻って (^_^;)
この映画での結婚式の場面です。
無難に済ますなら、神式あたりを採用したほうがよかった。

もっとも当映画にキリスト教徒がガチギレするような機会は、まず、ないだろうけど。
『PPAP』ほどに欧米人受けしないだろうから。

そういう意味でも、これは日本人のための映画です。
結婚式という儀式(虚構構造の表現)を相対化して用いることができる。
『逝きし世の面影』を、あるいは『神神の微笑み』の系図に加わる作品だと言えなくはない
――けど、苦しいかな?


やっぱり、純粋な映画好きよりも欲張りな文章になってしまいました (^_^;)

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