愚慫空論

ベーシックインカムとデフレ


情報収集がネット主体になっている人は多いと思います。
僕もそうなんですが、そうなると欠かせないのはネットニュースですよね。

僕はライブドアニュースをよく見に行きます。

今日は、ライブドアニュースから拾った2つの記事をネタに。
経済関連のニュースです。

 『なぜ働かなくてもお金がもらえる「ベーシックインカム」を導入すべきなのか

 『デフレの先にある2つの地獄!

ライブドアニュースには、こういった啓蒙記事(?)がしばしば出てきます。
今日(1/24)は、僕が関心を持っているテーマがふたつ並んだので、記念(?)に、というわけです (笑)


ベーシックインカムに関する記事は、以前より多くなっている気がします。
ライブドアニュースでも、「ベーシックインカム」はトピックスになっているようで、
関連記事一覧がすぐに出てきます

ベーシックインカムの議論そのものは、ずっと以前からあります。
僕自身がブログを始めたころは、割とホットな話題だった記憶があります。

ホッとといってもごく限られた範囲でのことでしたが、
それが今は、多くの人が閲覧するであろうネットニュースのトピックスになっている。
いいことだなぁ、と思うんです。


今の社会の仕組みは制度疲労を起こしていて、もう長くは保ちません。
ベーシックインカムに関心が出てくるのも
 長く保たないという予感が拡がりが為せる技ではないかと思う。

もっとも、ベーシックインカム導入程度で
 今の社会構造の病巣が解消するわけではない。
悪くすると、病巣そのものを温存する弥縫策で終わってしまう可能性もある。

現在の社会構造の病巣、僕が【システム】と呼ぶ構造の核心は
 〔虚構〕への依存です。
ベーシックインカムは依存を解消するわけではない。

わけではないけれども、解消への大きな一歩にはなると思います。
主体的に「働きたい」と考える人が
 収入の多寡に縛られずに
働くことができるようになるハードルがぐっと下がるでしょうから。

ベーシックインカムが実現すれば
 【システム】による主体性への縛りがかなり緩くなる可能性が高い。
もし、弥縫策にしかならないとしても、 ベーシックインカム思想の底にある
 【システム】からの束縛感は変わらない。
ベーシックインカムで束縛感が緩まなかったとしても
 緩めるために〔システム〕をデザインするということの一歩は踏み出すことになる。

そういう一歩を踏み出す態勢が
 社会を下支えしている人々の集合無意識のなかに整いつつある――
そんな感想を持って、僕は、いいことだと思うわけです。


もうひとつの記事はデフレの話題でした。

こちらの記事が展開する啓蒙は、まいったなぁ、という感想です。
だから経済学はプロパガンダなんだ(怒)――
  と、お決まりの反応が出てきてしまいます(笑)

インフレ、デフレ関連の記事も良く目にします。
アベノミクスという日本の現政権の経済政策
 ――政権の経済政策はつねにホットトピックスです――
  との関連も深いですから、当然ではあります。

記事では、デフレは悪いことになっています。
それはその通りなんですが、そうなってしまう暗黙の「前提」がある。
実はこの「前提」こそが、上で振れた【システム】の核心なんです。

そもそもの経済というのは、「お金のこと」ではないんです。
人々の暮らしのこと、です。
「暮らし」が「お金」に完全に置き換わってしまっている。
置き換わることが「良いこと」だと思ってしまっている。
「良いこと」だとプロパガンダしている。
置き換えることを「合理的」だとし、置き換えることでどのような利益があるかを考える。

考えることはでき、その通りに行動したとしても利益にならないことも多いんですが。
それはなぜかというと、「合理的」と考えることが間違っているから。

経済学を眺めていて、僕なんかがいつも思うのは、順序が逆だということです。

経済学を合理的ならしめる要素は、貨幣です。
経済現象を貨幣に置き換えないと、合理的な理論が構築できない。
理論が構築できないから、貨幣に置き換えることは合理的でなければならない

合理的でなければならないから合理的だなんて、天地逆さまです。

合理的と考えることは可能です。
が、合理的だと考えないことも可能です。
合理的と考えたとしても、敢えて不合理な行動をとることも可能。

こうした可能性を、現実に可能ならしめる存在が〔主体〕です。
つまり個々の人間です。

お金がないという状態は
 社会とのコミュニケーションなしでは生存不可能な〔主体〕の行動を制約してしまいます。

貨幣というのは、コミュニケーションツールです。
経済が実はコミュニケーションだから。

コミュニケーションというのは、情報のやりとりをだけを指すわけではない。
いえ、情報のやりとりを指す言葉がコミュニケーションなんですが、
 コミュニティを維持するというコミュニケーションの効用を考えると
経済もまた同じ効用をもつ営みだと言うことができる。

そして経済のための集約情報(←こういう用語はありません、適当に当ててみました)
 が、貨幣なんだから、
貨幣はコミュニケーションツールだと言っても、的は外れていないはずです。

詳細は長くなるのでまた別記事にまとめますが、
貨幣をコミュニケーションツールだと考えれば、デフレは「良いこと」です。

理由は単純。
貨幣コミュニケーション(今日の意味での経済)の比重が、
人間が為すコミュニケーション全体に対して、下がるから。
別の言い方をすると、時間に余裕ができる。

いえ、この言い方は精確ではないです。
時間に余裕ができるようになるはず、です。
はずなんだけど、今の【システム】においてはならないでしょう。

本来、そうあるはずのものがそうならない。
つまり【逆接】です。

時間に余裕ができるはずが、なぜかそうならない。
ミヒャエル・エンデを思い起こします。



では、なぜ、そうあるはずのものがそうならないのか。
どんな理由で【逆接】が生じたのか。

この歴史を明かすのが、
現在展開中の『サピエンス全史』シリーズ(のつもり)です。


それにしても。

『なぜ働かなくてもお金がもらえる「ベーシックインカム」を導入すべきなのか』
『デフレの先にある2つの地獄!』

【システム】からの束縛感を緩和する方向性の記事と、
  それとは逆のベクトルを持つ記事が
同時に並ぶという現象。

興味深いです。
ただの偶然でしょうけど。

けど、本当に偶然なの? という疑問も湧かなくはない。
この現象にだれか固有の〔主体〕を求めると、陰謀論になります。
陰謀論の否定は、不可能性の証明という言語の弱点の問題が出てきて、アウトです。

だけどだけど、アウトになってしまうということが、これまた面白い。
言語で言い表すことができない
 人々の集合無意識の為せる技だという気がしないでもない。
だとすると、人々は、〔虚構〕への依存心も強く持っているということになります。

束縛からの解放への願望。
束縛への依存への願望。

その両方が、バランスを取ったのかもしれません。

コメント

デフレ、ベーシックインカム、そしてソーシャルキャピタル

こんにちは、ごぶさたしております、

私も貨幣とデフレ、ベーシックインカム、ソーシャルキャピタルに興味を持って考え続けているつもりです。

http://hpo.hatenablog.com/entry/20090115/1231989568

なんというか、リアルな世界の「もの」に対して貨幣はデフレを起こし、旧来からのソーシャルキャピタルに対してネット上の認知(という信頼通貨と私は呼びます)はデフレを起こしていくように想います。で、前半のこれからの人工知能アシステッドな仕事は人の時間に対して生産性が相当にあがっていくだろうと。一方、仕事を失っていく人も相当にでてくるだろうと。そういうバランスを取り、なおかつ、ソーシャルキャピタルを肩代わりしすぎた行政サービスは、ベーシックインカムによって行政サービスでも、民間商品でも選べるようになり、かつシンプルな構造になっていくのではないかと想像します。

ものも、貨幣も、ソーシャルキャピタルも、ネット上の認知(信頼通貨)も、すべての基本は「モモ」が気づいたように人に許された時間に対してにのみよってのみ価値がはかられる社会がそう遠くない将来に到来するのではないかと考えています。この意味で、id:fromdusktildawnさんの10年前の予測は相当にいい線いってらっしゃったと。

http://hpo.hatenablog.com/entry/2017/01/13/233000

素人床屋議論のたわごとをながなが失礼いたしました。

・ひできさん

お久しぶりです。
コメントいただいて、嬉しいです。

リンク先の記事も拝見しました。


>ものも、貨幣も、ソーシャルキャピタルも、ネット上の認知(信頼通貨)も、すべての基本は「モモ」が気づいたように人に許された時間に対してにのみよってのみ価値がはかられる

おお、そういうふうにお考えなのですね。
それはおおいにあり得る話かと思います。

僕の考えている方向性とは異なりますが...
僕は、それらの諸価値(価値計測基準)が、各々相対的になればいいなぁと思っているんですよ。

「時間に対してのみ」ということは、価値測定基準が一点に集約されるという構造ですよね。
一神教的なものの考え方と言えましょうか?

僕は多神教的に考えているんです。
すべての価値は相対的なものとして認知され、諸価値にどのように重きを置くのかは、各々の〔主体(個人)〕に委ねられる、といったような。


それにしてもソーシャルキャピタルです。
この言葉が投げ込まれてきたことに、少し感動(?)しました。(^o^)

ソーシャルキャピタルなる概念が指し示す内容は理解できます。
漠としていますが、イメージするのはさほど難しい概念ではありませんよね。

その概念が“ソーシャル”は良いとして、“キャピタル”と呼ばれることの違和感。
「自然資本」なる概念がありますが、僕は、こういう言葉遣いに違和感を覚えるんですよ。

おそらくはその違和感をキャンセルしたくて、多神教的なものの考え方をするのでしょう。

ひできさんへ、追記。

コメントと記事を拝見しながら、ジェイン・ジェイコブズの『経済の本質―自然から学ぶ』を思い起こしていました。この本は、そちらのブログで存在を知って読んでみたものです。興味深く、僕にとっては共感のできる内容でした。

(この本では、自然を「資本」と読んでいましたっけ?)

改めて考えたのですが、ベーシックインカムが導入されると、ひできさんが指摘されたように、ソーシャルキャピタル・デフレが促進されるような気はします。人間の社会活動の元になる「複雑な関係性」が、これまで以上に「単純なもの」へと置き換えられ価値判断されるようになっていく。

「単純なものへの置き換え」にどこで歯止めがかかるか。僕の関心事はここだったりします。

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