愚慫空論

『サピエンス全史』 その2~虚構とは何か


『その1』はコチラ


繰り返し持ち出すのはなんとなく心苦しいのですが、ピダハンです。

『ピダハン』ほど認知革命以前の姿を推測するのに適した「資料」はない。

「資料」という表現には我ながらいささか引っかかるものがあります。
「資料」という表現ににじみ出る突き放したような捉え方を
 僕はしているわけではない。

客観的にみるなら「資料」で間違いはないかもしれません。
だけど、それは、「資料」以上のものです。

「源像」であり「希望」です。
不幸と無縁であり、なおかつヒトなのです。
現在の自分自身の存在と無関係とは思えない。いえ、思いたくない。


不幸と無縁とは、不幸へのレセプターが欠けている、ということでもあります。
ピダハンとは違うのですが、不幸へのレセプターの欠けたイメージに、
つい最近、僕は接しています。

これです。



『この世界の片隅に』を取り上げた記事に、僕はこのように書きました。

 すずは、社会適応という側面に関していえば、障害者です。
 だからこそ、大人になっても〈子ども〉のまま。
 そんなすずは、大人にならざるを得なくなっても、
 やはり【普通の大人】にはなれない。

 「ならない」ではなく「なれない」のだと思います。
 でも、それこそが幸せへの方法。


〔大人〕を【大人】たらしめているのが、【虚構】です。

『世界の片隅に』の予告動画。
すずが号泣したのは、かけがえのないものを失ったからではありません。
愛する姪っ子を失い、自身の右手を失っても。


「二重の現実」に生きざるをえない認知革命以降のサピエンスは
〔虚構〕に合わせて、もともとの現実のほうを改変する力を身につけた。
その能力がアフロ・ユーラシア大陸ではホモ・ネアンデルターレンシスを、
ホモ・デニソワを、あるいはマンモスを、
ベーリング地峡を渡った後はエレモテリウムやメガテリウムを、
オーストラリア大陸への渡海を成し遂げたときにはディプロトドンを、
それぞれ忘却の淵へと追いやりました。

【虚構】の破壊力は、サピエンス自身にも及んでいます。
最もたるものが戦争。
それも総力戦。
別の言い方をすると殲滅戦です。

なぜ、こんなことになってしまったのか。
その疑問に答えるのは、まだまだ先になります。



〔虚構〕とは何か。
直接答えるには、けっこうな難問です。
ところがアナロジーを用いると簡単に理解できる。
実際に存在する事例の特徴を列挙し「これが虚構だよ」といえば、
わかる人には容易にわかります。

アナロジーが理解できる能力を持っているということが
 認知革命の成果なのでしょう。

『サピエンス全史』では、プジョーの例が引かれています。
フランスの自動車会社です。

アナロジーは手段ですから、別にプジョーでなければならないわけではない。
こんなことも一般的な大人なら難なく理解できることです。
日本ならトヨタでいいし、ニッサンでも、ホンダでもかまわない。
自動車会社である必要もなくて、ソニーでもかまわない。
会社である必要もない。
東京大学でもいい。
一般的に知名度がなくても、全然かまわない。
それぞれが通っていた地元の小学校でも
 十分にアナロジーとしてのの目的を達することはできます。
それどころか、もっと身近に家族だってOKです。

以下引用する文章の「プジョー」は
 自分勝手に好きなものに読み替えてもらって結構。
むしろ読み替えできることを確認してもらいたい。

シュターデルのライオン人間にどことなく似たマークが、パリからシドニーまで、至る所の乗用車やトラック、オートバイについている。それは、ヨーロッパでも老舗の大手自動車メーカー、プジョーの製造した乗り物を飾るボンネットマークだ。プジョーはシュターデル洞窟から300キロメートルほどの所にあるヴァランティニェの村で、小さな家族経営事業として始まった。同社は今日、世界中で約20万人の従業員を雇っているが、そのほとんどは、たがいにまったく面識がない。だが、彼らは実に効果的に協力するので、2008年にプジョーは150万台以上の自動車を生産し、およそ550億ユーロの収益を上げた。

私たちはどういう意味でプジョーSA(同社の正式名称)が存在していると言えるのだろうか? プジョー製の乗り物ならたくさんあるが、当然ながら、それら乗り物自体は会社ではない。たとえ、世界中のプジョー製の乗り物がすべて同時に廃車にされ、金属スクラップとして売られたとしても、プジョーSAは消えて亡くなりはしない。同社は新しい車を製造し、年次報告書を発行し続けるだろう。同社は工場や機械、ショールームを所有し、機械工や会計士や秘書を雇っているが、これらをすべて合わせてもプジョーにはならない。何かの惨事で従業員が一人残らず亡くなり、製造ラインとオフィスが全滅するかもしれない。それでもなお、同社はお金を借り、新たに従業員を雇い、工場を新設し、新しい機械を買い入れることができる。プジョーには経営陣と株主がいるが、彼らが同社を構成しているわけではない。経営陣を全員首にして、株式をすべて売却しても、会社自体は元のまま残る。

これはなにも、プジョーSAが不死身だとか不滅だとかいうわけではない。仮に判事が同社の解散を命じれば、工場は存在し続けるし、従業員や会計士、けいえい人、株主は変わらず生き続けるが、プジョーSAはたちまち消えてしまう。要するに、プジョーSAは物理的世界とは本質的には結びついてはいないようだ。それでは、同社は本当に存在しているのだろうか?



構成員。
構成員が集う場所。
構成員が構成員たる旗印。

その旗印を認知できさえすれば、虚構は成立。
ただし、それはそう簡単ではありません。

プジョーSAの場合、決定的に重要な物語は、フランス議会によって定められたフランス法典だった。フランスの立法府の議員たちによれば、公認の法律家が正規の礼拝手順を踏み、儀式を行い、みごとな装飾に施された書類に必要な呪文宣誓をすべて書き込み、いちばん下に凝った署名を書き添えさえすれば、あら不思議――新しい会社が法人化された。1896年に会社の設立を思い立ったアルマン・プジョーは、法律家を雇って、こうした聖なる手続きを一つ残らず踏ませた。その法律家が正しい儀式をすべて執り行ない、必要な呪文と誓いの言葉を残らず口にし終えると、何百、何千もの廉直なフランス市民が、プジョー社が本当に存在しているかのように振る舞った。

効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって膨大な数の人間を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるかだ。想像してみてほしい。もし私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教育、法制度を確立するのは、どれほど難しかったことか。



「法的手続き」を儀式、呪文、宣誓といった言葉に置き換えてあるのは
レトリックでもアナロジーでもありません。
実際にそうなのです。

ここのところが『サピエンス全史』を読み解くカギです。
一般的感覚ではレトリックに見えそうなところが、「本当のこと」に思えるかどうか。
レトリックに見えるのは「時代の常識」に囚われているからなのですが、
実は虚構は、「時代の常識」がないと機能しないのも事実だから難しいところ。

ちなみに僕は、「本当のこと」以外の理解はできません。

ついでに引用しておきますが、ここはレトリックとしておくほうが無難でしょう。

アメリカでは、有限責任会社のことを、専門用語で「法人」と呼ぶ。これは皮肉な話だ。なぜなら「comproration(法人)」という単語はラテン語で「身体」を意味する「corpus」に由来し、これこそ法人には唯一欠けているものだからだ。法人には本物の身体がないにもかかわらず、アメリカでは法人を、まるで血の通った人間であるかのように、法律上は人として扱う。


レトリックに読みようがないか(笑)

サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。一方には、川や木やライオンといった客観的現実が存在し、もう一方には、神や国民や法人といった想像上の現実が存在する。時が流れるうちに、想像上の現実は果てしなく力を増し、今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ。




余談ですが、僕はこの文章を読んだとき、別の本のとある記述を思い起こしました。
それはイスラム法学者中田考さんの発言で
 内田樹さんとの対談本で読んだのだと記憶しています。
曰く、

 イスラームにとっての最大の敵は法人だ

イスラームとは
 アッラーを唯一の虚構として認める思考体系だということのようです。
森羅万象はすべて霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを称えているとする。
「アッラーを称えている」というところを除けば
 ピダハンたちの世界感に近いものがあります。

近いけど、決定的に違います。
〔虚構〕は、それほどに決定的なもののようです。


引用する部分を少し遡ります。

プジョーは法的虚構のうちでも、「有限責任会社」という特定の部類に入る。このような会社の背景にある考え方は、人類による独創的発明のうちでも指折りのものだ。ホモ・サピエンスは、有限責任会社なしで幾千年、幾万年とも知れぬ月日を暮らしてきた。有史時代のほとんどの期間、資産を所有できるのは生身の人間、つまり二本の脚で立ち、大きな脳を持った種類の人間に限られていた。



著者が施した「指折り」という形容表現を、僕は皮肉だと受け止めています。
指折りだということそのものは、中立的に評価して、その通りだと思う。

が、歴史というストーリーに中立ということがありえません。
正当か不当か。
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリさんは不当だと捉えているらしいと
僕は捉えているいうのは、前に記した通りです。


『その3』へと続く

コメント

このシリーズエントリーだんだん面白くなってきました。

虚構は虚構だからそれが在るもの錯覚してしまうとなかなか実感できませんね。しかもだからこそ人間(除くピダハン)と言われると、、、
法人・会社への実感に疎いワタシの例えはどうしても「国家」を考えてしまいます。考えてしまう、つまりこの錯覚(虚構)の呪縛からなかなか完全解放されずにいます。

とは別に、、、映画です。

ワタシは感動も絶賛もしませんでしたが、すずが時限爆弾によって手を繋いでいた子ども(姪)と自らの手を失ったあとの「たんたん」にはかなり見入りました。手を繋いでいた子どもが爆破されたことも右手が吹っ飛んだことも、文明に染まったワタシには超ショッキングであり、いまならまだしも、すずの年齢である当時のメンタリティでは耐えきれなかったでしょう。発狂レベルです。ところがすずは違った。
チンパンジー的な、ピダハン的な「たんたん」のような気がします。「子ども」と表現していいのかどうかは、解りませんが。
多少の傷心はあったものの絶望が薄い、と感じました。で、希望も薄かったのかな? 
希望/絶望も虚構でしょうか?・・・感情は虚構ではないでしょう。すずの感性は豊かだと感じます。そうした面では「子ども」かもしれません。その感性は将来の希望へ繋がるものではなく、たんたんと日常へむける目線なのかもしれません。・・・それにしても、結構語るなぁ、笑
・・・にしては、なぜワタシは感動しなかったのだろう?、と、そのことへの愚慫さんの診断はなんとなく分かりますが、、、爆!!

・毒多さん

当シリーズ、お気に召していただけそうで嬉しいです。

> つまりこの錯覚(虚構)の呪縛からなかなか完全解放されずにいます。

あいや、いや。
解放は危険です。
解放されるとアナーキストにならざるをえない。
これは大きなリスクを背負います。

もっとも毒多さんは、青カンたちの接触の経験から、アナーキスト気質の危険性はよくご存知でしょうけれども。


> とは別に、、、映画です。

はい。

> いまならまだしも、すずの年齢である当時のメンタリティでは耐えきれなかったでしょう。発狂レベルです。ところがすずは違った。

この一文、おおいに共感すると同時に、危険性を感じます(笑)

すずが違うのは当然です。
個々の身体が違うという以前に、すずは架空のキャラクター。身体を持たないんです。
なのに毒多さんは、あたかもすずが具体的身体を持っているかのように記述します。

これは、そういうふうに感じたからだと思うんです。
何を隠そう、僕もそういうふうに感じるんです。

つまりは虚構と身体の区別がつかない。
自他の区別、と言っていいのかもしれない。

ここでまた「定型発達」の話を持ち出すのは危険かもしれませんが、場としては適っていると思います。
話題にしている「認知」とは、暗黙のうちに「定型」なのですから。

「定型」もそうでない者も「二重の現実」で生きていることに変わりはない。
「二重」でありならが、虚構と身体の区別をつけながら暮らしていく。
ところが、「定型」とそれ以外では、区別の付け方がどうも違うらしい。

定形外を自認している僕は、
「すずは虚構上の存在であることは百も承知だけれど、具体的身体を持っているように感じ」
ます。それどころか、この『サピエンス全史』のような多分に学術的な記述の本でさえ具体的身体を感じてしまう。漠然とし輪郭は不明瞭なのですが、確たる感触があるように感じるんです。文中で、

>ちなみに僕は、「本当のこと」以外の理解はできません。

と書いたのは、そういうことです。

すずに具体的身体を感じる程度は、どうやらまだ「定型」の範疇のようです。というのも、そういう実例がいっぱいあるから。
2次元に「萌える」ことが出来るwためには、そういう感じ方が欠かせない。



> 希望/絶望も虚構でしょうか?

虚構です。

> 感情は虚構ではないでしょう。

さあ、どうでしょう?
虚構のほうに入るのかもしれません。
アドラー心理学の視点である「目的論」にたつなら、つまり、人間は感情を、無意識のうちに目的に沿って使いこなしているとするならば、虚構だと考えるのが合理的といえます。
感情はおそらく虚構と身体のグレーゾーンなのでしょう。

> たんたんと日常へむける目線なのかもしれません。

そういう「たんたん」だと僕も思います。

> と、そのことへの愚慫さんの診断はなんとなく分かりますが

いえ、診断に自信はないというか、ここらあたりの領域は、もはや他人がどうこうというしてよいところではないと僕は思うようになっています。それをしてしまうと「先生」になる。
自身でこうだと「想い為す」しかない領域です。
自ら主体的な意志をもって「想い為し」を探ることを、僕はずっと「思考」とは別の「思索」だと呼んでいたんだと思うんです。

是非、ご自分で「思索」をなさってください。

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