愚慫空論

『サピエンス全史』 その1~認知革命



 


「その0」で書くべきことを書き落としてしまっていました。

『サピエンス全史』は、著者ユヴァル・ノア・ハラリさんが語る「ストーリー」です。

どのような本であれ、また、ブログエントリーであれ、「ストーリー」であることは本質的に変わらないと思います。
もちろん、歴史も。

本書には、そういうことをわざわざ言いたくなるようなものがある。

すべての事実を網羅することはできません。
できたとしても、そのデータ全体は、なんらの意味も持ち得ない。
誰かが編集して、意味を構築しなければならない。

『サピエンス全史』も、そうして意味を持たされたものです。

興味深いのは、その意味の持たされ方。
著者は、ある種の異端者だと僕は感じます。
全体として、絶望的な趣がある。
それはことに、最終章で顕著になりますが...

私たち人類世界を、通常とは違う感覚で眺めている気がする。


そもそも歴史とは正当化のためのツールです。
私たちは正しいんだ、と言わんがための記述が歴史です。
いろいろはバリエーションはあっても、最終的に「正しい」が目的です。
本書はそうではない。



第1部 認知革命の構成は、以下の通りです。

 第1章 唯一生き延びた人類種
   不面目な秘密
   思考力の代償
   調理をする動物
   兄弟たちはどうなったか?

 第2章 虚構が協力を可能にした
   プジョー伝説
   ゲノムを迂回する
   歴史と生物学

 第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし
   原初の豊かな社会
   口を利く死者の霊
   平和か戦争か?
   沈黙の帳

 第4章 史上最も危険な種
   告発のとおり有罪
   オオナマケモノの最期
   ノアの方舟

サピエンスを「史上最も危険な種」だと認定し、有罪だと断じている。
これはレトリックに見えなくはないし、著者もそのつもりかもしれません。
著者がどうであれ、多くの人がレトリックと捉えるのは間違いなさそうですが、
レトリックという捉え方で、本書のようなストーリーが語れることが可能なのかというと、
僕には疑問です。


さて、本題の認知革命です。

本書が提示する3つの革命(認知革命、農業革命、科学革命)の中で、最重要のもの。
にもかかわらず、それがどういったものかについての直接の言及はありません。

学者たちはこのような乏しい実績に照らして、これらのサピエンスの脳の内部構造は、おそらく私たちのものとは異なっていたのだろうと推測するようになった。



認知革命は「推測」にすぎないんです。

「乏しい実績」とは、以下のような事柄です。
 ・サピエンスは、15万年前に東アフリカで誕生した。
 ・7万年前までは、他の人類種と同じく、取るに足らない種でしかなかった。
 ・なのに、なぜか、7万年前に突如変化をした。

この「推測」は、しかし、そんじょそこいらの推測ではない。
進化論と同等の威力を持つ「推測」です。

進化論と同様に、異論を唱える余地はあります。
余地はあるけれど、合理的に考えるなら、納得せざるをえない。
進化論と同様に、もっと合理的な推測の可能性を排除はできないけど。


なぜ認知革命という推測が大きな合理的説得力を持つのか。
それは、認知革命後の私たち人類の描写が、非常に的確に思えるからです。
ことに「第2章 虚構が協力を可能にした」の記述。

サピエンスは認知革命を経ることによって、「二重の現実」の中で暮らすようになった。
この「二重の現実」がどういったものなのかは、記事を改めて紹介します。


ここではその前に、「二重の現実」ではないものについて、
認知革命があったとしたらそれ以前に営まれていたであろう人類の「現実」について、
まず語りたいと思います。

構造的には、そういうことを語るのは不可能です。
というのも、認知革命以前は文字もなく、したがって資料もない。
推測は可能でしょうが、推測は現実ではない。
それこそ、推測という行為そのものが「二重の現実」があって初めて可能なものです。

にもかかわらず、語ることができるとした、それは「奇跡」があったということになります。
「二重の現実」ではない「一重の現実」、すなわち「直接体験の法則」。

「直接体験の法則」で、現在も暮らしている人々。



「二重の現実」が「一重の現実」だということは論理的に間違いないとして、
その「一重の現実」がピダハンの「直接体験の現実」と同一とは言い切れません。
言い切れるとすると、それはまさに奇跡です。

原理的には、認知革命以前の「現実」は確認しようがありません。
それはもはや失われてしまったものです。
が、現在でも「一重の現実」で生きている人たちがいる。
その人たちの「現実」は、現に存在しているのだから観察可能だし、
観察が認知革命以前の「現実」を推測するのに大いに参考になると思うのです。

太古のサピエンスは見かけは私たちと同じだが、認知的能力(学習、記憶、意思疎通の能力)は格段に劣っていた。彼らに英語を教えたり、キリスト教の教義が正しいと信じさせたり、進化論を理解させようとしたりしても、おそらく無駄だったろう。逆に私たちにとって、彼らの言語を習得したり、考え方を理解したりするのは至難の業だろう。



『ピダハン』には、ピダハンたちにキリスト教の教義が正しいことを信じさせることが不可能だったことが記されています。
また、ピダハンたちが、英語はおろか周囲の人たちが日常的に話しているポルトガル語さえ、体系的に理解できなかったことも記されている。

認知革命以前の「現実」の推測と、あくまで想像ですが、ピダハンの「現実」が一致する。

そればかりではありません。
ピダハンは、現代文明に浸った私たちからすれば貧しく危険な生活を営んでいますが、それにもかかわらず、幸せな生活を送っていた。不幸にすることができなかったと言っていいほどです。

この記述もまた、本書において推測が展開されている「第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし」と似通っているように思える。

不思議です。
不思議だけど、現実です。



サピエンスは生物進化の過程において、東アフリカで出現した。
科学的に裏付けられている事実です。
一方、ピダハンたちは南アフリカのアマゾンで暮らしています。
科学的に裏付ける必要のない事実です。

東アフリカにおいて取るに足らない種として生息していたサピエンスが今日のように繁栄することができたのは、本書の推測では認知革命があったから。認知革命があったからこそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと進出し、ホモ・ネアンデルターレンシスやホモ・デニソワやマンモスや、ベーリング地峡を通過してからはエレモテリウムやメガテリウムなどを絶滅に追いやりつつ、生息領域を広げることができた。

ピダハンが認知革命以前のままだとすると、認知革命がなければなしえなかったアフリカから南アメリカまでの長大な旅を、そのように為し得たかのかは、不思議なことです。

不思議か奇跡か、何があったにせよ、現在の科学的なものも含む現実の中で、『ピダハン』ほど、認知革命以前の姿を推測するのに適した「資料」はなさそうです。

『その2』へと続く

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