愚慫空論

『この世界の片隅に』



観てきました。

いつもの書き方だと、予告編の動画を貼り付けて、そのまま本文を始めるのですが、
この作品については、本文は【追記】のほうへ書くことにします。

(【追記】も表示されているなら、一度、トップページ戻ってください)

理由。
まっさらで観てほしいから。

ストーリーのネタばらしを書いているわけではないのですが、
いつものように、とりとめもなく思ったことを書いているだけなのですが、
いつものように、踏み込んで、僕なりの解釈を書いてしまっています。

それは、参考程度にしていただければ幸いという程度のものですが、
本作については、未視聴であるなら、「参考」もなしがいいと思います。

というわけで、すでにご覧になった方は、安心して【続きを読む】をクリックしてくださいますよう。


あ、本文の締めだけ、ここに記しておきます。
これならば、視聴に影響はないと思いますから。

  ***

『この世界の片隅に』、もちろんオススメです。
それも、大切な人と一緒に観るのがいいと思います。

だけど、観るべきかというと、微妙です。
そういう「べき」といったような 論法には似つかわしくない映画だと思うから。
そういう論法で語りたくないし、語って欲しくない。

この映画を観る機会あるいは機縁に恵まれない人は、残念です。
残念に他意はありません。
ただ単に残念だという以外にない。

機会と機縁に恵まれるなら、迷うことはありません。
そのような迷いに労力を取られるのは、もったいない。
人生そのものが試される映画と言っていいかもしれない。
そんな作品は、そんじょそこらにあるものではありません。

  ****

では。

  *****



まず、感じたこと。
絵がとても柔らかい。

あの人の絵に似てるなぁ、と思ったんだけど、
「あの人」が出てこない。
悔しい。
有名な人なんだけど。

ぽってり柔らかくて、かわいらしくて、暖かくて、
小さな子どもの、手を握ったりほっぺに触ってみたりしたときのような感じ。
そう、映画の主人公の「すず」みたい。

のん(能年玲奈)の声も、同じような印象で。
『あまちゃん』とかは観たことがないので、
のんのイメージってほとんどなかったのですが、本作で定着してしまいました。
「すず」として。

絵や声の柔らかさは、もちろん全編を通して。
でも、ストーリーが醸し出していく雰囲気は、
ストーリーの進行に連れて、どんどん不穏になって行く。

このギャップが、もうすでに悲しい。


すずは「子ども」なんです。
成長して他家に嫁いでも「子ども」のまま。
「子ども」のまま、大人として課せられた仕事を
立派な大人に手助けされたり迷惑をかけたりしながら、辛うじてこなす日々。

その様子が、とても愛らしい。
すずを実生活の面では支え、
心の面では支えられている人たちもまた、微笑ましい。

なのに、ストーリーだけが不穏さを押し出す。


ストーリーに不穏さを感じとってしまう己を省みて、

「大人」

なんだ思ってしまいます。
不穏さへのレセプターが出来上がってしまっている。


作中、「子ども」であることは、
「普通」という言葉で語られます。
すずを好きだった、そしてすずもまたその人のことを好きだった男性の台詞を通じて。

ここは、好きだったと過去形であることに注意が必要です。
ちょっとアブナイできごとがあるのですが、
それを通じて、すずは少しだけ「大人」になる。
少しだけ、ね。

このアブナイシーンでの男性の台詞は
「普通」と「社会」の関係を的確にに言い当てたものになっています。

オレは「普通」にしていたら、なぜだかいつの間にか、水兵になってしまっている。
すずは、今でも〈普通〉のままだ、、、


そのすずにも、「大人」になる瞬間がやってくる。
それが玉音放送の時。
日本が戦争に負けたと知った時。

すずは号泣します。
そのまま死にたかった、と言って。


「普通」の人たちが「大人」になる状況。
すずが「大人」にならざるをえなかった状況。
この落差は、あまりに大きい。
その巨大な格差を、この映画は〈子ども〉の視点から描いている。


映画を観る者は、
自身が「大人」であることに足を引っ張られながらも、
すずが醸し出しす世界の中に引き込まれていく。

引き込まれた分だけ、
【普通に大人】であることの、
すなわち【社会】の残酷を疑似体験させられることになります。

同時に、〈普通の大人〉の優しさと強さをも。



すずは、社会適応という側面に関していえば、障害者です。
だからこそ、大人になっても〈子ども〉のまま。
そんなすずは、大人にならざるを得なくなっても、
やはり【普通の大人】にはなれない。

「ならない」ではなく「なれない」のだと思います。
でも、それこそが幸せへの方法。
その方法を提示する映画なのだと、僕は解釈したいです。


『この世界の片隅に』、もちろんオススメです。
それも、大切な人と一緒に観るのがいいと思います。

だけど、観るべきかというと、微妙です。
そういう「べき」といったような論法には、まったく似つかわしくない映画だと思うから。
そういう論法で語りたくないし、語って欲しくない。

この映画を観る機会あるいは機縁に恵まれない人は、残念です。
「残念」に他意はありません。
ただ単に残念だという以外にない。

機会と機縁に恵まれるなら、迷うことはありません。
そのような迷いに労力を取られるのは、もったいない。
人生そのものが試される映画と言っていいかもしれない。
そんな作品は、そんじょそこらにあるものではありません。


この映画、僕はきっと何度も繰り返して観るだろうと思います。
幸せな映画だと思うから。

不幸な出来事を描いた、幸福な映画。
不幸な出来事を生き抜いた、幸福な人の映画。

言語矛盾だけど、うまく言い当てていると自負します。

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