愚慫空論

善悪の〔おりあい〕(追記あり)


さっそく本筋から外れてしまうのですが、前記事への付け足し的記事を挙げておきます。

・ものごとの把握には、必ず善悪の二面がある。
・善悪の比率は、必ずしも等分ではない。

善悪の比率を定めるのは、
 1. 〔個〕
 2. 〔社会〕

そもそもの順序でいえば、1⇒2です。
なのに、現代はその順序が逆転して、2⇒1になってしまっています。

なぜ逆転したのかということを見てみるのが、歴史です。
本筋です。

 


が、ここは本筋ではないので、別のほうへと話を進めます。


善と悪にも、〈知〉の構造と類似の構造があります。

〈知〉の構造とは、

  知/不知 ⇒ 知

と書き表すことができる構造。

 知之為知之、不知為不知。是知也。

と書き表わされている構造です。
すなわち、

 知と不知との差異を十分に知れば
 それがそのまま〈知〉となる

という(書き表わすことが不可能な)ヒトの理解の仕組みに沿って顕現する現象です。

善悪の場合、

 善/悪 ⇒ 善



 善/悪 ⇒ 悪

の両方のパターンがあります。

両者を分かつのは、意志です。
〈知〉の機序とは違って、善悪の機序には意志が絡みます。
この意志は、〈生〉への意志だと言っていいのだと思います。

善と悪を分離した上で、善と為すか、あるいは悪と為すか。
この選択が、ここでいう「おりあい」です。
〈生〉の意志に従うのなら、選択肢はない――
 これが孔子の思想の核心だというのが、僕の解釈です。

が、実際は、両方あると思う。

善への折り合いを〈おりあい〉と記述し、悪への折り合いを【オリアイ】と記述しましょう。


さて、次は〔主体〕の問題です。
〈折り合い〉にせよ【折り合い】にせよ、それを為すのが〔主体〕です。
つまり〔主体〕とは、善悪の比率を定めるもの。

  1.〔個〕であり、2.に〔社会〕です。

ところがこれが、逆転している。
この逆転現象が、【疎外】と呼ばれる現象の発生源です。

〔社会〕が〔個〕から〔主体性〕を奪う。
結果、社会の存続が〔個〕の主体性よりも優先されることになる。
すると、【疎外】が始まる。
【疎外】を為すように、善悪を【オリアわせる】社会は【社会】であり【システム】です。

なお【ハラスメント】とは、【疎外】という社会現象に即して〔個〕に対してなされる個別的現象のことです。


では、なぜ、1.と2.の優先順位が逆転してしまうのか。

そもそも〔折りあい〕とは、〔個〕と〔個〕の間で為される行為です。

身体は〔個〕によって異なります。
身体が異なれば〈生〉への意志の具体的な形も異なる。
すなわち善と悪の区分の仕方も異なる。

単純な例でいえば、同じ行為が、大人にとって善でも子どもにとって悪であることがある。
男性にとって善でも、女性にとっては悪であることがある。
ごく当たり前のことです。


「ヒト」はひとりだけでは「人間」はありません。
「ヒト」一人では、善悪を〔折り合う〕ための主体性は必要ないからです。
すなわち「人間」とは、善悪を折り合う〔主体〕をもった存在のことです。

〔個〕と〔個〕が互いの善悪を折り合わせる。
この作用を司るための発達した器官が大脳です。
「ヒト」の大脳には、150人の他の〔個〕と〔折り合う〕ことができるスペックがある。

〔おりあい〕とは非常に複雑な化学的演算です。

大脳のスペックで納まるうちは、〈生〉への意志に沿ったものになる。
すなわち

 善/悪⇒善

となす〈折り合い〉です。

ところが社会の成員の数が、大脳のスペックを超えるという現象が起きました。
その理由は本筋に譲るとして、
その結果、人間は、ひとつひとつの〔おりあい〕に費やすコストを削減する必要に迫られた。

「コストを削減する」という行為は「規則を作る」という行為であり、
「規則に従って行動する」ことは、〔主体〕を失うという現象に落着いていきます。

〔個〕の〔主体〕が失われるのと、規則を定める〔社会〕の主体性が優位になるというのは、
同時並行で起こる現象です。

規則は「書き表わされたもの」です。
「書き表わされたもの」によって社会が原理づけられると、
 その社会は【社会】になる。

なぜそうなるのか、その機序は、再び本筋に戻ってから考えてみることにします。




追記。

〔折り合い〕ということで思い起こされたのは、この映画です。



『先祖になる』については、昨年、記事を上げています

そこで僕はこんなことを書いています。

映画の中で、キュウリが芽をだしているところを主人公がみつけるシーンがあります。
そこはもともと畑だったわけではない。
どこかから流された種が、たまたまそこに漂着して芽を出した。
キュウリは、ただ、「キュウリ」であろうとした。

この主人公も同じです。
津波に流されようがどうしようが、ただ、「その人」であろうとした。



「その人」であろうとしたことが、すなわち〔折り合い〕なんだな、と。

あいや。ちょっと違います。

「その人」であろうとすることは、〔おりあい〕の原点。
〔おりあい〕とは、外界とせめぎ合って「その人(もの)」であろうとする行為。

そして、外界とのせめぎあいのなかで保持されている具体的な姿、形。
これを指して、僕は《魂》と呼ぶ。

具体的な形とは、それが生物ならば、身体です。
だから、身体の具体的な形が、実は《魂》なんだ、と。



この木の「形」が、《魂》。
具体的な形だからこそ、表現可能なんです。

ただ、〔おりあい〕は、いつも肯定的な形で成立するとは限りません。
《魂》が【オリアイ】に負けてしまって、》魂《 になってしまうことがある。
それもやっぱり、形となって出てくるんだと思います。

《魂》が》魂《 になってしまうことを、「魂の植民地化」と呼ぶ。
別の言い方をすると、主体性を失って、外界に隷属した状態になる。

ヒト=人間は、極めて社会的な生物ですから、【社会】に隷属ということになりやすい。


そういえば、こんな本がありました。



「おりあい」を固く言うと、「動的平衡」という表現になる――

的外れではないと思います。

生命がそこに宿るわけ。
「動的平衡」があるから。

心が生命に宿る理由も、また然り。


生命は動的平衡を保っているにもかかわらず、
心のほうは動的平衡が破れた状態になることがあります。

不幸と呼ぶべき状態です。
〔主体〕の喪失。
魂の植民地化。

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