愚慫空論

〔自由〕と〔自在〕の狭間


去年、話題になったTV番組です。

『NHKスペシャル「終わらない人 宮﨑駿」』



この番組の特に終盤、宮﨑駿さんが怒りを露わにしたシーンが話題になりました。
動画だと49分あたりから。ご覧になった方も多いと思いますけど。


宮崎さんは、いったい何に怒ったのか?
何に生命への冒涜を感じたのか?

僕の言葉で勝手に解説させてもらうなら、〔自由〕に対して、という回答になります。
宮崎さんは〔自在〕の人だから。


〔自由〕と〔自在〕なんて、言葉にする哲学的で難解な印象になってしまいますが、じつは単純なことです。
単純な動作を試してもらうだけで、〔自由〕と〔自在〕の差異を体感することが出来ます。

手を前へ突き出して肘を曲げてみる。

この動作をしたとき、手はどこにあるか。
旨の前にあるはずですね。

「手を前へ突き出して、肘を曲げる」

〔自由〕の観点から見たとき、上の文章には省略した部分があります。
〔自由〕の観点から省略せずに文章を書くと、次のようになります。

「手を前へ突き出して、肘を内側に曲げる」

「内側に」とわざわざ付記するということは、「外側に」と書くことができる可能性を示唆します。
文章の自由度でいうならば、そのように記述することは可能ですよね。
でも、そんな文章を書いて宮﨑駿さんに提出したら、

 生命への冒涜だ

といって叱られるでしょうね。

肘は内側にしか曲がりません。
膝もそうですね。後ろにしか曲がらない。
それを外へ、あるいは前へ曲がると想像したする。
想像するのは〔自由〕です。

マニュピュレーターという機械があります。
人間の腕と手を模倣して、その機能を実現させる機械です。
機械に適用される原則は、 僕の言葉でいう〔自由〕です。
 肘に当たる部分が外の曲がろうが、
 手首に当たる部分が360度回転しようが、
それが技術的に実現できさえするなら、まったくもって自由です。
宮﨑さんだって、「生命への冒涜だ」と怒りはしないでしょう。

が、身体はそうはいきません。
機械とは原則が異なる。
僕はそれを〔自在〕という。
〔自在〕には「肘が外へ曲がる」という現象はありません。
理由は簡単です。肘はそんなふうにはできていないから。

そんなふうにできていないものに、敢えてそんなふうにするように強いると、そこに感じられるのは苦痛です。
機械の〔自由〕には苦痛はありません。
が、身体の〔自在〕にはある。
それを無視すること。
宮崎さんが怒ったのは、このことだと思います。

(川上さんははじめから「ゾンビだ」と断っているので、無視したわけではないんですが...)



〔自由〕と〔自在〕を比較してみたとき、自由度という観点でみれば、〔自由〕のほうが圧倒的に大きい。
〔自在〕は〔自由〕に比べると、制約が多い。
その制約こそが、制約を感じることこそが、〈生きる〉ということを感じること、です。

〈生きる〉ためには〈制約〉は、むしろ必要です。
だから〈制約〉を大切にすることが、誠実に〈生きる〉ということにもなる。
あらゆる制約から解放されフリーになった〔自由〕には、もはや生命はありません。


以前に引用した文章です。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。





この文章に僕が感心するのは、その端的さにです。
どのように端的なのかというと、物理学・化学・生物学という順に、「制約」が大きくなって自由度が下がっている点です。

次に具体的に取り上げるつもりですが、『サピエンス全史』という本が記述しているのは「生物学」と「歴史」の狭間です。

ここで示した順序でいくならば、自由度という観点から見たとき、

 生物学 > 歴史

でなければおかしい。
ここでいう「生物学」とは僕のいう〔自在〕だと解釈してもらっていいし、
「歴史」のほうは〔自由〕です。

ところが、私たちの社会では

 〔自在〕 < 〔自由〕

なっている。
ということは「何ごとか」があったんですね。
「何ごとか」があって、〔自在〕と〔自由〕の立場が逆転した。
その「何ごとか」を歴史と捉えて記述しているのが、本書です。

ここから先は、次です。



当記事を閉じる前に、〔自由〕と〔自在〕にかかわると思う別記事を紹介します。


『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」
   ~相模原障害者殺人事件から考える』


この記事は、ふたりの対談です。

光岡英稔さんは武闘家だそうで、内田樹さんと対談本を出しているようですが、まだよく知りません。
福森伸さんは、氏が主催する団体が奏でる「音楽(?)」を取り上げてみたことがあります。
これです。



僕の記事はこちら⇒『心地よい「不揃いな音」』

改めて『OTTO & ORABU』の「音」を聴いてみて、気がついたこと。
彼らの音を生で聴いてみたこともあって、その記憶は鮮明に残っているんだけど、
不思議に具体的な「音」は覚えていない、ということ。

理由はたぶん、「定型」ではないから。音楽としての。
「定型」ではないぶん、生の「音を出す行為」そのものはよく覚えています。
パフォーマーたちの表情とか。

これもまた不思議なんです。
表情だけ見れば、生き生きしているようには見えない。
だけど、「音」は生きている。
視覚と聴覚にズレがある。
そのズレは、私たちが「定型」だと無意識下で決めつけているところから生まれる。

見方によれば、この「決めつけ」は障害だ――と福森さんは指摘するわけです。
こういう「見方」はとても大切だと思いますし、イデオロギーとしての〔自在〕ということにかかわってくる大切なところだと思います。

福森 アメリカの自閉症協会のニューロティピカル(定型発達)に関する定義がとてもおもしろいのです。要は多数派を占める私たち健常者のことです。ちょっと資料を読みますね。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。

・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。

・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。

・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。

・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。


光岡 実におもしろい。


光岡さんに同意です。
実におもしろい。


ニューロティピカル症候群への指摘は、資本主義社会を分裂症だと診断した『アンチ・オイディプス』の指摘とつながりますし、
そうした障害がどのような過程を経て生成された――「歴史」――という疑問にもつながります。



『しょうぶ学園』を題材したこのような映画があるんですね。
知りませんでした。
ぜひ、観てみたい。

/

コメント

素敵な音楽と対談の紹介ありがとう。

ワタシはニューロティピカルです。9624人の一人です。多数派だけあってニューロティピカルという認識をすることをしにくいのですが、でも世間の常識からすれば性格破綻的なところがあり、わりに9624の境界に近いところにいるのかもしれない。というわけでもないかもしれませんが、ふとニューロティピカルが基準ということに疑問を持つことがある。そこから始まる。紹介のバンドを聴いてもそう感じますし(泣きそうになります)、個人的には自閉症スペクトラムの東田直樹さん(の著作)を読んだときに教えられた。彼らにしたらどうでもいい(かもしれない)ことを、こちら側の人間に教えてくれる、、だからやっと解る。きっと「多数」で「当たり前」から〔自由〕になれることが〔自在〕なんだろうということを考えてしまいます。(ちょっと外れるか?、笑)

対談のなかで思わず書き出してしまったセンテンスを記しておきます。(って自分のほうに書いておけばいいのか、、、笑)

>教育や支援という語を使って福祉は介入し、彼らの世界を変えようとします。

>こちらのアプローチを圧力だと感じるから「俺の世界に入ってくるな」というわけです。

>彼のような存在をアリだと言えないような個々の自信のなさが人の内面にある気がします。

>僕らは人の賛同を求め、ブレまくっている。しかし、彼らはブレない。態度を変えない。彼らはすでに自立しているのなら、「自立支援」はいったい誰のためなんでしょう。

すごい、拍手!!!

・毒多さん

昨日コメントを書いたのですが、なぜか投稿されていませんでした。
内容が不適切なので、書き直せということなのでしょう(笑)

紹介させたいただいた記事、お気に召していただいたようで、なによりです。
やはり毒多さんは「疎外」の人なんですねぇ...(^_^;)

僕の感触では、発達障害自体はさほどたいしたことはないんです。
これを「障害」と呼び習わすのは、ニューロティピカルな傲慢がなす差別行為だと思っているくらい。
僕自身が障害者だということもありますけれども。

もっと問題なのは、ニューロティピカルの差別行為が引き起こす二次障害のほうです。
不安障害、うつ病、パーソナリティ障害などと「病名」がつけられていたりします。
一次の障害によって社会への適応が難しくなることから生じる、適応障害です。

これら二次障害がニューロティピカルには起きないかというと、そうではないことは言うまでもありません。

社会適応障害を引き起こす要因を、社会学的見地から命名すると、どういう呼称になるか?
そう、「疎外」です。
「障害」には先天的要因と後天的要因がありますが、その後天的要因こそ「疎外」です。
僕の言葉でいうと【逆接】です。


「疎外」もこれまた感覚的なものです。
なので、疎外感は、それを体験したことのない人間にとっては理解できません。
理解できないのは、現に疎外感を感じている人にとっては不思議で仕方がないのですが、
そうはいっても、感じられないものは仕方がない。

現にそうした現象があるのに感じることができない。
この症状をもって「障害」と呼称するのは的外れではないと思います。
ゆえに僕は、しばしば「健全」という状態を指して、それを「障害」であるとしてきました。
健全だから、不健全が感じられないのですね。
健全の基準は、それが「多数」であって、ゆえに多数が営む社会への適応のハードルが低いというだけにすぎないのですが。


>教育や支援という語を使って福祉は介入し、彼らの世界を変えようとします。

>こちらのアプローチを圧力だと感じるから「俺の世界に入ってくるな」というわけです。

>彼のような存在をアリだと言えないような個々の自信のなさが人の内面にある気がします。

毒多さんが引用したセンテンスを、経済の分野に適応するように書き直してみます。
術語が若干、置き換わります。

>>市場やイノベーションという語を使って〈生活世界(暮らし)〉に介入し、「彼ら」と「私たち」の世界を変えようとします。

(「私たち」とは、私たち、すなわち人類です。
 「彼ら」とは、私たち以外の存在、同じ生態系の仲間である他種の生命体です。)

>>これらのアプローチを圧力だと感じるから、「俺の世界に入ってくるな」

(「俺」とは、人類でもあり、彼らでもあります。
 人類の場合、アンチ・グローバリズムという潮流がその代表でしょう。
 「彼ら」の場合は、、、残念ながら、他種には「私たち」に抵抗できるだけの実力が...)

>>「彼ら」のような存在を資源としてしか捉えられないような「私たち」の【怯え】が社会の内面にある気がします。

「障害」とは、生活上で支障をきたす状態を指します。障害を起こすような傾向があっても、それが支障を来さないのなら、たんなる「個性」にすぎません。

視野を、社会から世界(生態系)に拡げたとき、私たち人類の暮らしぶりに「障害」がないと言えるのか? 僕は言えないと思います。
その人類の障害を引き起こしている犯人は、確率論的に考えて、「健全」なニューロティピカルでしょう。
にもかかわらず、それが自覚できないというのは、

>非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

という特徴が当てはまっているからといって、間違いないと思います。

おはようございます。

ワタシは「疎外」の人なのかなぁ?
「疎外を感じる側の人」とか「現状が王道なら疎外されたがっている人」とかなら「疎外」の人ですが、やはり「疎外されたくない人」というのが根本だと思います。だって人間だもの、笑

ニューロティピカルの二次障害には考えが及びませんでした。
二次障害が現れる人はまだ(人間性において)救われているのかもしれませんね(自殺に関してはまたあらたな思索の元を頂きました)。それにしても二次障害さえ現れないワタシは、、、とほほorz

「ピダハン」半分ぐらいまできました。凄いですねぇ。
ニューロティピカルからすればピダハンは完全に障害者ですね、爆!!
ピダハンからすればニューロティピカルは障害者なのかもしれませんが、ピダハンはそんなことは考えないでしょう。ダンを障害者としてないようです(お笑いの対象ではあるけれど)。ひとつにダンがピダハンに「順接」しようとしているかな、と思いますが、「逆接」なら殺されるか、村八分なのでしょうが・・・と、「順接」「逆接」はこんな捉え方でいいのかな?

>>の、「市場やイノベーション」他への置き換えは、ピダハンを読んでいると、とても感じます。

・毒多さん

「疎外の人」は舌足らずでしたね。
足らずをどんなふうに埋めてくれるのかな? ということに関心があったりもしたんですが。

>「疎外されたくない人」

それだけですか? 
「疎外したくない人」でもあるのでは?
さらには、「疎外に我慢できない人」でもあるように思います。
我慢できないといっても、無力を感じざるを得ないんですが...。


疎外とは若干ベクトルが違うのですが、
十分以上に裕福に育った人間にとって、貧困は好奇心の対象になるというです。
そのような人たちにとって、貧困は嫌悪の対象ではない。
逆に、己をアイデンティティを引き立ててくれるスパイスのようなものだと感じるという。

逆に、貧困から脱出した人間にとっては貧困は憎悪の対象です。
憎悪の向き方はいろいろですけどね。
貧困そのものに憎悪を向ける者もいれば、
未だ貧困にもがく者を憎悪する者もいる。

裕福な育ちの人間は、貧困への「レセプター」が育たない。
貧困の環境に育った人間は、いやでもその「レセプター」が生まれてしまう。

疎外にも同じ構造があると考えます。
なので、「疎外の人」の意味は、まずは疎外についてのレセプターを持っている人のことです。
現代社会に生きるの人間の大半は、実は「疎外の人」のはずなんですが、
そういう「病識」を持っている人は少数のようです。
疎外のレセプターを持ち、なおかつその病識のある人間。
それが先に言った「疎外の人」の意味です。


>ニューロティピカルの二次障害

毒多さんが取り上げられた電通の彼女なんかは、まさにそれですよね。


『ピダハン』、面白いですよね。
学術的な体裁ですが、著者の人生観の揺らぎも伝わってきて。
残りを、ぜひ楽しんでください。(^o^)

おはようございます。

最近自分のブログでエントリーしたくなったり、他所様のところでコメントしているのは、また「逝きし世の面影」や「ピダハン」のような本を読んでいるのは、また見知らぬ他者のことを知りたいと感じるのは、自分を知りたいがためだと思います。
愚慫さんの指摘は、自分を再度みつめるのに役にたっています。感謝。

>疎外に我慢できない人
は、ワタシには確かにそうした部分はある気がします。
「疎外の人」とは疎外の要因に「人一倍に何かを感じている」(愚慫さんの言葉ではレセプターである、でしょうか?)のですね。確かにそうですが、一方で、それを否定したい気持ちがあります。そんな「要因」などどうでもいいのに、何こだわっているの? くだらない。というような。そう、まるで逝きし人々やピダハンが首をかしげて理解できずにいるかのように。

話は戻りますが、はたしてワタシは裕福なのかな?ということは考えてしまいます。金銭的に相対的には中の下、下の上くらいの気がしますが、愚慫論では絶対的には裕福なのかもしれない。というのは、物質的貧困の人々(ex青カン)はおそらくは好奇の対象になっているからです。まさに自己を識るためのスパイス。物質的貧困でなければ精神的裕福は得られない、とさえ仮定しています。現実の多くは仰るように、物質的貧困は精神的貧困を呼んでいるのですが、、、、それでも物質的貧困を乗り越えなければ得られない〈裕福〉を信じている。とはいえ、下の上ぐらい(読みたい本が買えるぐらい)の物質的裕福もないとやはり辛いかな、、、とも感じるし。

話がとっちらかってしまいましたが、、、愚慫さんが提示してくれた類型は思索のベースとしては分かりやすく、めちゃ助かるのですが、自分を知ろうとするには、もうすこし細分化できるかな、とも考えています。

では、ワタシはいったい何者か?、、、、、、あまり長くなるのもなんなので、自分のほうでそのうちまとめることにしようかな、笑

とりとめのないコメですまぬ。

「ピダハン」は、愚慫空論で存在をしりました。出会わせてくれたことに本当に感謝しますよ♡ 後半も楽しみます。

・毒多さん

>自分を知りたいがため

そうですよね。「すべて」がそこに帰着しますよね。
〈学習〉というのは、そういうことだと思います。

>一方で、それを否定したい気持ちがあります。

よく理解できます。解放されたいんですよね。
こだわりは苦しいから。
できるものなら、断ち切りたい。

けれど、断ち切ることを罪悪だと感じる自分もいたりしませんか?

たとえば、金儲けのどこが悪い? と宣うことができる人を見たとき。
このように放言できる人は、ある意味「断ち切る」ことができている人ですよね?

羨ましいと思いますか?
思わなくはないかもしれません。
正直な所、僕は思う部分もあります。
ああなれたら、楽になれるのに。

でも、ああなってまで楽になりたいわけではない。
断じて。
ああなるくらいだったら、苦であるほうがまだいい――

これもある種の開き直りですが(^_^;)

そして思うんです。
楽になりたいわけじゃない。
楽しければ、苦も苦ではない。
愉悦として、苦を引き受けることができる。

『逝きし世』や『ピダハン』に記されているのは、そういう人たちの「面影」ですよね。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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