愚慫空論

自在主義


やはり、年明けには大げさなことを書いてみます。

  自在主義

「主義」というからには、イデオロギーです。
対になるのは、自由主義です。


「自由」と「自在」は似て非なるものです。
  あくまで、僕の語法ではありますが。

自由 - Wikipedia
自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。


自在 - Wikipedia
束縛が無く自由な状態のこと。


ほとんど同じ意味ですね。

ではイデオロギーになると、どうか。

自由主義- Wikipedia
自由主義(じゆうしゅぎ、英: liberalism、リベラリズム)とは、国家や集団や権威などによる統制に対し、個人などが自由に判断し決定する事が可能であり自己決定権を持つとする思想・体制・傾向などを指す用語。


この記述によるならば、「自由」の対義語は「統制」になります。

  社会の統制 vs 個人の自由

という対立軸があるという捉え方ですね。

自由という観点からみて、個人と社会とが対立するのは必然である――。
  私たちにはそうした感覚があります。
  上掲の文章も、この感覚が暗黙の前提にあって記述されている。
僕は感覚こそが「自由」というものの源泉であると考えると同時に、
 この感覚に疑問を持ちます。
 この感覚に疑問を持たないことに不満を覚えます。

以下、この感覚を〔自由感覚〕と呼ぶことにしましょう。

〔自由感覚〕はヒトという生物の生来的なものではありません。
後天的なもの。
歴史によって醸成された、後付けの、文化的なものです。


人類にとって、文化は大切なものです。
そして、文化と文明は一対のものです。

人類は文明的な存在ですが、文明的でなければならないというわけではない。
人類は生存戦略として社会的であることを選択しましたが、
その選択は文明的であるということでは必ずしもない。

現代でも、文明的でない社会を営んでいる、いわゆる未開な人たちは存在します。
そうした人たちの存在は、人類は文明的でなければ生存がかなわないわけではないことを証明しています。
歴史が証明するのは、むしろ文明的であることが、文明的でなくても生存していくことができる人間を駆逐してきたことです。


〔自由感覚〕は人間が文化的文明的な存在であることによって後天的に習得したものです。
新たな感覚を学習することそのものには何の問題もありません。
ですが、新たな感覚を学習することによって、生来的で、ヒトとしてより基本的な感覚を阻害するようになってしまうなら、それは問題といわざるをえない。

ヒトのヒトとしての生来的感覚を「自在感覚」と呼ぶことにしましょう。


依存症という病があります。

依存症- Wikipedia
依存症(いそんしょう、いぞんしょう、英: dependence)とは、世界保健機関の専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態のこと



現代人が患っている病は、〔自由感覚〕依存症です。
しかも、具合の悪いことにその病識がない。

快感や高揚感を伴う「自由感覚」を追い求める行為を繰り返し行った結果、
それらの刺激を求める抑えがたい欲求である渇望が生じ、
その刺激を追い求める行為が優位となり、
その刺激がないと不快な精神的、身体的症状を生じる精神的、身体的、行動的な状態に陥ってしまっています。

なのに、その病識がない。
病だからただでさえやめるのがむずかしいのに、
病識がないからなおのこと、やめられない。


〔自由感覚〕の際立った特徴は、
そして、その特徴ゆえに病識を持ちがたいのは、
 〔自由感覚〕は言葉でできている、ということです。

〈生きる〉ということそのものを表現し尽くすことは、不可能です。
 だけど、ヒトには、〈生きる〉ことを表現したいという欲求が存在する。
 欲求が存在するということは、その欲求の元になる感覚があるということで、
 その感覚が〔自在感覚〕です。

表現し尽くせない感覚。
ゆえに、〔自在感覚〕は言葉では出来ていない。

ところが、この表現欲求が誤動作することがある。
あるというより、現代文明人は、誤動作がデフォルトになってしまっている。
言葉でできあがった感覚を、生きる目的だと勘違いして、追い求めてしまう。

言葉できた欲求というのは、「他人の欲求」にすぎません。

その人固有の、身体的な欲求は、表現し尽くせないものなんだから、
 察することは可能かもしれないけれど、
  その欲求そのもの自己のものとするのは、原理的に不可能なはず。

ということは、他人と共有可能な欲求(欲望)とは、言葉でできあがった〔自由感覚〕にすぎない。
他人と共有できるがゆえに、〔自由感覚〕は獲得するすると快感がある。
優越感という快感。
優越感に渇望してしまうような状態になると、それが手に入らないと劣等感に苛まれてしまう。
現代社会を蝕むルサンチマンです。

現代社会は、言葉でできた欲望が蔓延している。
言葉でできた欲望は、言葉で出来ているがゆえに、
貨幣で購うことができる。

貨幣とは言葉です。
言葉の究極進化形が貨幣です。

すなわち〔自由感覚〕依存症の現代人は、貨幣依存症でもあります。


イデオロギーとしての自由主義は、貨幣に基づく「自由」に根ざしています。

貨幣は悪ではありません。
人間の感覚的には、酒と同じようなものです。

暮らしに必要な資源を手に入れる交換という行為においては、貨幣は要です。
酒とは比べものにならない。
あくまで感覚としての話です。

交換という経済行為において最重要の存在であるがゆえに、
感覚的に依存症に陥ってしまうという悪循環。
その悪循環に対する開き直りが、悪しき意味での自由主義です。


自在主義は、感覚の観点に立ってのイデオロギー的主張です。
貨幣は、感覚的に酒と同等である。
嗜むのは良いけれど、依存は心身へ健康を損なう羽目になる。

とはいえ、経済においては、貨幣こそ最重要。
貨幣という下部構造が、政治や文化といった上部構造を規定してしまう。
そうした構造の中で、どのように生きれば良いのか?

イデオロギーというからには、社会構造への問題提起です。
個人的な生き方としての「自在主義」もありだし、実践している人も少なからずいます。

僕にとって、実践できる人は問題ではありません。
実践したくてもできない人こそが、問題。
だから、イデオロギーになってしまう。


いや、ちょっと違うかな。

言葉でできていることを、言葉によって否定し肯定し、昇華させる。
そうした言葉を追究することが、おそらくは僕の生き方なんだろうと思います。

コメント

おはようございます。
愚慫さんの言う「自在」という感覚は、ワタシにとっては憧れであり、目標であり、実践できていない(だろう)感覚のような気がしています。
ワタシにもイメージとしてはあるのですが、言葉では言い表しにくいこともエントリーに書かれていますね。おそらくは「逝きし世」に共通感覚としてあっただろう「何か」、まだ読み始めたばかりですが「ピダハン」のなかにある「何か」でしょう。おそらく、今の世では、多数にとって置き忘れられて(疎外され自ら疎外している)認知?発想?さえできない「何か」のような気がしています。ワタシも文明文化のなかに生まれ育てられた者ですorz
社会として構造としてそれを取り戻せるのか、文明文化の呑み込まれきってしまえば、そこに回帰できるのか、、、先の短い個人としては実感することを最期の目標にできればいいかな、と思っています。

・毒多さん

コメント感謝します。
コメントいただけると、本文で言い表せていない部分に気がつき、改めて書き表すことができます。

で、本文の書き方はいつものように大げさですが、〔自在〕そのものは、そんなに大げさなものではありません。

大げさなのは、〔自由〕のほうです。
〔自由〕のほうは、たとえば1789年のフランス革命の折の「人権宣言」のように、大げさではないといけない。〔自由〕の源泉となる貨幣の代表的イメージが未だもって「金貨」であるのも、金(元素記号Au)という素材が人間の感性には大げさに映るからです。

〔自在〕というやつは、意識する必要すらないほどありふれたものです。
私たちが生命活動を行っていることが〔自在〕です。


そちらのブログでも触れましたが、毒多さんの写真、ことに街や人間を捉えたものには「慈しみ」を感じます。と同時にもうひとつ「疎外」も感じます。

いつもながら僕の勝手な想像ですが、毒多さんが撮影対象にレンズを向けるとき、惹きつけられているのは「疎外」であるような気がします。

「疎外」に感応する身体の働きはすでにして「慈しみ」だと僕は思うし、身体の素直な反応であるとするならば〔自在〕の範疇です。


「身体の素直な反応」などと抽象的に書いてしまうと、イメージは難しいです。
でも、よくよく見渡してみれば、具体的な「素直な反応」はそこかしこにあるじゃないですか。
同時に「素直な反応」を阻害されてしまった、不自然な反応も。

身体が〈素直な反応〉に出ようとしたとき、それを阻害しようとする【何か】がある。
その【何か】が社会の構造によってもたらされたものならば、疎外が存在する社会構想の内面化が【何か】であるとするならば、社会の構造が変わることによって【何か】もまた変えることができるはずです。

【何か】の正体がわかればその対策も立てられるでしょう。
そもそも身体は〈素直な反応〉をしようとするものです。
阻害する【何か】さえなければ。
社会がその【何か】を生み出しているなら、社会をデザインし直すことで【何か】をキャンセルすることも不可能とは言い切れない。

たんにそれだけの話です。

愚慫さん

おはようございます。

大丈夫です。意識以前のことで大袈裟なのは分かっています。>自在

ただ、わざわざ「自在」という言葉をあてて思索されているので、大袈裟に乗らさせていただきました。とはいえ、たとえばワタシが「アタマデッカチ」なのは、そうだなぁ、と思います。
自在は身体性に対してジユウであることを想定しているのですが、ワタシなんかは、まだまだ、、、というか、どこまでもワタシ自身は「不自在」なのではないか、と疑っていまいます。
こういうことを考えてしまうことまで含めて意識過剰なのでしょう。意識過剰と不自在は親和性があるような気がしています。
今年は少し「空」になって身体の趣きを聴いてみようかな、笑

他方、自由に関してですが、自ら積極的に不自由に囚われようとしながら、自由のための権利を声高に叫ぶようなことはやめにします。爆!!


それにしても、「慈しみ」から「疎外」が浮かぶというのは、ワタシにはありませんでした。と、あらためて「疎外」を辞書で引いてみると、あ、そういうことか、と分かりました。なんと!! とても興味深い言葉としてあらたに思索してしまいます。
いままでは単に「疎外感」というニュアンスで使ってました。

>哲学、経済学用語としての[1]疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。

こういう意味では、確かにファインダーを覗くという行為が「疎外」を感じる手助けをしている気がします。
振り返ると、ファインダーを覗くとき「空」になっている気がします。
ワタシにも自在な時間がある、、と知ると嬉しくなります。

それにしても、>人間を支配するような疎遠な力の現れ、、、すごい!!

・毒多さん

新たな記事を書きました。
いただいたコメントへの返答に当たるものは、そちらに記したと思います。
というか、そういうことにしておいてください(笑)

>人間を支配するような疎遠な力の現れ

こちらに関しては、次の次の記事で言及する予定です。

・付記

>ファインダーを覗くという行為

なにものかを媒体にして「空」あるいは「無我」へのステップとする、というはよくあることだと思います。

そのなにものかは、絵筆でもいいし、楽器でもいいし、鉛筆と原稿用紙や、キーボードとマウスとモニターであってもいいと思うんです。みな、人それぞれで。
文明の利器にはそういう効用があるし、人間には、利器をあたかも自分の身体のように使いこなすことができる「拡張性」がある。

とはいうものの、〔本質〕というやつに思いを致さずにはいられない。

“人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態”

「拡張性」があるからこそ、商品や貨幣や制度などに、逆に人間を支配するような力を与えることができる。

要は、バランスの問題だと思います。
疎遠な方に力を与えるか。
それとも〔本質〕のほうに力を与えるか。

「力」って、使いこなすにあたっては意識が重要ですよね。
ところが〔本質〕というやつは、意識されないところある。
意識されないからこそ〔本質〕なわけで。
アンバランスですね。

このアンバランスが人間の本質だとしたら、人間の性(さが)は性悪なんだといわざるを得ません。
文明にどっぷり浸かった健全な身体は、そのように感じるんだろうと思います。


でも、僕は違った感触を持っています。

畑を趣味だと言ったお婆さんがいました。
そんな婆さんのような人たちが営んでいたであろう「逝きし世」の記述もありました。
僕には、そっちの方がすっきり腑に落ちる。

本来、人間は、身体的にも社会的にも、バランスを取ろうとする生き物なんだ、と。
バランスを取ろうとして、それがどうにもうまくいかないから「生きにくい」と感じるわけで。

ここでの言葉で言うならば、〔自在〕への回帰ですね。
人間の生来的なバランスが志向する先。

ただ――。
〔本質〕は「定型」ではないことには留意しておかなければなりません。
かかる〔保留〕を失念すると、〔定型〕は障害になってしまいます。
1万人に対して9624人までもがそうした障害を発症しているとは思いませんが、
9500人程度は発症しているんでしょうね、おそらく。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/903-bfb00c9f

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード