愚慫空論

『ヒミズ』(追記あり)


今朝の地震は気味の悪いものでした。

ここ富士吉田では大きな揺れではなかったけど
 揺れている時間が長かったから
  どこか遠くで大きな地震があったなと思ったら
   福島で震度5弱とか。

そうこうするうちに津波警報まで出て
 被害はたいしたことはないようだけど
  嫌な感じはぬぐえません。

いい加減、原発、止めろよ。





さて、『ヒミズ』です。
 園子温監督。

見たには見たけど、スルーしようと思っていた。
 だけど、今朝の地震で気が変わりました。


感想を一言で評するなら、潔い。

園子温監督の作品は幾つか見たけど、
 これまではよくわかりませんでした。

ここの作品については、
 「伝えたいこと」は、わからなくはないんですけどね。
なぜ、そんな伝え方をしたいのか? 
 ここがよく飲み込めなかった。

だけど、『ヒミズ』でわかったような気がしました。
 言い直すと、僕の中で言語化された。

言語活動によってなされる人間の思考はデタラメです。
 いかようにも世界を切り刻み、いかようにもつなぐことができる。
 
園子温さんは、そのデタラメさを、取り繕うことなく提示する。
 そこが潔い。
  潔さがあるから、表現の過剰さに、一本筋が通る。

ちなみにこの「潔さ」は
 『絶歌』の「正直さ」に通じるような気がします。
  もっともこれは、僕の言語作用のデタラメかもしれませんが。
 

園子温監督の「筋」はわかったような気はしたものの
 『ヒミズ』自体はいささか混乱した作品という印象を持ちました。
  制作中に大地震があって、途中でプロットを大幅に変更したとのこと。

『ヒミズ』には原作のマンガがあるらしく
  僕は未読なんですが
   調べてみると、バッドエンドらしい。

映画の方は、ハッピーに向かって終わっている。
 そうせざるを得なかったことは、わからなくはありません。
  わからなくはないけど、とってつけた感じはぬぐえない。


ストーリー全体の枠組みは「がんばれ!」というメッセージです。

主人公は中学生の男女。
 染谷将太と二階堂ふみ。
 住田クンと茶谷サンです。

「ガンバレ!」のメッセージは、わざとらしく出てきます。
 中学校の授業だか、ホームルームだか。
 教師が薄っぺらい「がんばれ」を自己陶酔気味に展開し、住田クンに絡む。
  住田君は一蹴する。
  茶谷サンは歓喜して叫ぶ。
  
  ふつうバンザイ!

最後
 父親を殺してしまって普通でなくなった住田君は
  「ふつう」を取り戻すために
   茶谷サンに「ガンバレ!」と声を掛けられながら
    自首するために警察署に向かって駆けていく。


「ふつう」を奪ったものは何か?
 象徴するシーンが中程にあります。

住田クンのお友達だかパラサイトだかの老人(渡辺哲)が殺人するシーン。
 その行為の背後でテレビに映った宮台真司さんが「原発の不条理」を説いている。

 住田クンを襲った不条理。
 福島を襲った不条理。

ふたつの不条理の二重写し。


けど、やっぱり、映画の主題は住田クンの不条理の方です。
 園さんが二重写しにしたい意図はわかるけど、とってつけた感は否めない。

こういったことが可能なのも
 言語思考はデタラメで
  いかようにも切り結ぶことができるから。


でも、全部が全部、デタラメというわけではありません。
 とってつける前の『ヒミズ』の方は、感性に沿った説得力があります。

たとえば、音楽。

モーツァルトのレクイエムの冒頭部分が繰り返し出てきます。
 これ、とても嫌な使い方なんですけど
  だからこそ効果的。

以前に書きましたが、この音楽は底の見えない深淵に向かって沈み行くような音楽です。
 だけど救いがある。
  それは人間の「生の声」です。

  楽器の音も心地よいものだけど
 感覚的な「救済」という点において
人間の声に優るものはない。
 ベートーヴェンが『第九』において提示したところのもの。

園さんはその「救い」を切り捨てて映画に用います。
 キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』を倣ったのか
  同じフレーズが壊れた時計のように何度も何度も出てくる。
   「救い」を切り捨てられた音たちが、何度も何度も。

こういう“嫌な”感性には、うなってしまいます。

挙げ句がバーバーの弦楽のためのアダージョ。
 『プラトーン』からパクったな。


感覚的救いという観点で見るならば
 すなわち「生」という点で見るならば、
  文字通り目を惹いたのは
   二階堂ふみの「乳房」でした。


僕がこの『ヒミズ』において、クライマックスだと感じたところ。
 ストーリー全体の方向性が決定づけられるシーン。
  それは、住田クンの父親(光石研)の演技でした。

予告編の動画にも出ています。
 住田クンに

  オマエ、本当に要らないんだよ。

と"愛情を込めて”伝えるところ。

こういう生理的に"嫌な”シーンが、園子温監督の真骨頂なんでしょうね。
 見事に気持ち悪いシーンになっています。

言葉が伝えるメッセージと身体が伝えるメッセージが見事に真逆。
 壊れています。
  壊れたメッセージを伝えられて
   受け止めて
    壊れる。

 まったくもって「健全」です。
 身体性に沿っている。

ここから『罪と罰』が始まる。
 住田クンはラスコーリニコフになり
 茶谷サンはソーニャになる。

そしてソーニャは「ふつう」で住田クンを救済しようとする。 
 茶谷サンだって不条理の中に生きているのに。
  不条理の中で生きているからこそ。

その「ふつう」をもって救済を試みるシーンで
 強調されているのが「乳房」。
  「生」。否、「性」。
ここもまた身体性に沿っています。


以上のように記すと、まったくデタラメではなさそうなんですが
 全体としてみると大きな違和感があります。
  少なくとも、僕は大きな違和感を感じる。
たとえばいえば、エナジードリンクを飲んだような感じです。

身体に「効く」成分は入っていて、かなり強烈に効く。
 だけど、その効き方は違うんじゃない? という感触。
  飲めばいっとき元気になるかも知れないけど
   それは「元気の前借り」だよ、という。

こうした映画が「効く」人はそれなりにいると思います。
 だけど、それは危ういんでないかい?

この映画が謳い上げられる「ふつう」は想像上の「ふつう」であって
 確かに【アタマ】はそういう「ふつう」を欲するけれど
  〈からだ〉のほうは違うんじゃないかな?



ちょっと言葉足らずだと思ったので、追記。


『ヒミズ』が『罪と罰』だと思ったのは僕だけではないようで
 というか、標準的な解釈でしょう。

標準的では面白くないし、なにより「エナジードリンク感」をうまく言い表せません。



『ヒミズ』と『罪と罰』の違い。
「ラスコーリニコフ&ソーニャ」と「住田クン&茶谷サン」の違い。

警察に自首するところは同じです。
 異なるのは、住田クンは希望を持って(追いやられて?)出向いたのに対し、
 ラスコーリニコフは、絶望を抱えて(追いやられて)出向いたということ。


絶望を抱えたラスコーリニコフは
 というか「絶望を抱える」という表現が矛盾しているんですけど、
  ただ「生きているだけ」でした。
  シベリアの刑務所に送られて、ただ、生きているだけ。

『ヒミズ』では、警察に自首するところで物語はエンドになっていますから確たることは言えないんですが
 おそらく住田くんは「希望をもって」生きることができると思います。

この違いが示すものは何か?

希望欠乏症への恐怖です。
 希望がなければ生きていけない、と思っている。

誰が? 

 園子温監督が。
 『ヒミズ』に元気づけられる鑑賞者が。

ドストエフスキーは、そうは言いません。

生きていていれば希望は自ずと湧いてくる。
 だから、絶望しても、大丈夫。

「絶望しても大丈夫」だなんて、これまた矛盾した物言いですけど。

ドストエフスキーは、その「大丈夫」を「神の力」と言いたかったのかもしれません。
 その解釈に、僕は、「それもあり」と答えたいと思いますが
  同時に
 「その解釈が唯一ではない」とも言いたい。

人間を絶望に至らしめる「なにものか」がある。
 それが取り除かれ
  生きることを継続し
   順調に経過しさせすれば
    「希望」は自ずと裡から湧き上がってくる。

そのことが信じられないと希望欠乏症に怯えることになります。
 結果、「希望」という名のエナジードリンクを飲まずにはいられない。

『ヒミズ』は、まさにそれだと思うわけです。

大丈夫です。
僕たちの身体には、〈希望〉を自ずから生みだす力が備わっています。
〈生きる〉というのは、その力に頼ること。

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