愚慫空論

〔追記〕 『ピダハン』 〔読了〕


ようやく読み終わりました。



楽しくて、かつ充実した読書体験でした。

 読了前のエントリーはこちら (^^)つ リンク

もっとも印象に残った場面の記述。

コーホイとわたしが聖書の翻訳に役立つと思われる言葉についてやりとりしていたときだ。

まずわたしが尋ねた。「誰かをとても好きだとして、その相手をなんと呼ぶ?,」

「bagiai バギイ」コーホイが答えた、

わたしはすぐに試してみようと、笑みを浮かべて「きみはぼくのイだ」と言ってみた.

「違うよ!」コーホイは笑いながら否定した。
「どうして、ぼくを好きじゃないのか?」
「好きだよ」コーホイは笑いを噛み殺しながら答えた。「おれはおまえが好きだ。おまえはおれのバギイだ。だが bagiai イというのもあって、それは好きでない相手のことだ」

その解説をわたしが理解できるように、コーホイはふたつの単語をゆっくりと口笛で表してくれた。

わたしはようやく違いを聴き取ることができた。友人にあたる言葉はバギアイで、最後のaにだけ高い声調がくる。ところが敵を表すバギアイはaの両方が高くなる。このささやかな違いがピダハン語では友と敵を分ける違いだ。このふたつの単語はピダハンにとっては相通じるものをもっている,バギアイ(友)とはもともと「触っているもの」愛情を込めて触れる相手という意味であり、バギアイ(敵)には「団結を起こさせるもの」という意味があるのだ



ビックリ仰天です。ピダハン語って、こんな言語なんだ...
 イントネーションで、言葉の意味が正反対になる言語。

イントネーションの違いで、言葉の意味が異なる言語は、日本語もそうです。
 たとえば「くも」。漢字表記だと「雲」もしくは「蜘蛛」。
 「雲」と「蜘蛛」の違いは、話し言葉であるならイントネーションで区別されます。
  関東と関西では、イントネーションの違いが正反対というおまけつき。

そんなわけだから
 イントネーションで言葉の意味が違うということそのものは
  それほど驚くべきことではない。

 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」
   という箴言がありますが
 ピダハン語の「バギアイ」は、
  この箴言を一語に凝縮したようなものだと言っていいと思います。

言葉の身体性です。

「愛」には愛の身体反応がある。
「憎悪」には憎悪の身体反応がある。
一方で、「無関心」には身体反応がない。

身体反応があることを前提に語義の「愛」の対義語を問うと
 「憎悪」が答えです。
身体反応の有無を軸に対義語を問うと
 「無関心」が答えになる。

日本語を含め、僕たちの言語は、
 身体反応と言葉との関係がデタラメです。

  愛はなぜ"愛”と呼ぶのか、
  友はなぜ"友”と呼ぶのか。

シニフィエとシニフィアンの関係は恣意的、つまりデタラメです。

ところがピダハン語は、必ずしもそうではないという。
 「友」と「敵」というシニフィアンは
  「バギアイ」というシニフィエを共有しています。
シニフィアンを区別するのはイントネーションです。
 「バギイ」か「イ」かで意味が異なる。

イントネーションは身体の作用です。
 「バギイ」という言葉が催す身体反応。
 「イ」という言葉が催す身体反応。
   その違いは音素の違いよりももっと身体に近い作用によって区別される。


著者ダニエル・L・エヴェレットさんがあげるピダハン語の最大の特徴は
 直接体験の原則
というものです。

直接体験の原則とは、直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。これでは、主として現存する人が誰もじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道をおこなう立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない。



エヴェレットさんがピダハンたちと暮らすことになった目的はキリスト教布教です。
 キリスト教布教のためには聖書のおしえを伝える必要がある。
  「伝える」には翻訳という作業が不可欠。

キリスト教布教者は、それまでの経験ではどの部族にも存在した創世神話を
 聖書を伝えることで上書きしようと試みてきた。
  そして、その試みはたいてい成功を納めてきた。

ところが、ピダハンには上書きされるべき創世神話がない。
 それどころか、ピダハンの言語には創世神話を造り出す能力がない。

  直接体験の原則。
  言語の身体性。

ピダハン語は言語と身体のつながりが断たれていないがゆえに
 デタラメにはなりえない。
  〈世界〉の整合性が、そのままピダハン語の整合性になる。


だとするなら、
 ピダハン語には、ラカンの三界の概念も通用しないということになるでしょう。

  現実界
  象徴界
  想像界

ラカンは、、現実はけっして言語では語りえないといいます。
 語りえない世界――現実界です。
が、私たちは、語り得る世界に暮らしている。
 象徴界で暮らしている。

現実界と象徴界は分離してしまっています。
 その分離をなんとかして接合しようとするのが想像界。
後期ウィトゲンシュタインがいうところの「言語ゲーム」の回答集が想像界。
 だが、そもそも分離しているがゆえに、回答は難しい。
  「言い当てる」というくらいのことしかできない。
   「言い当て」の世界が想像界。

現実界を〈からだ〉の世界だと考えるなら
 象徴界は【アタマ】の世界だとすることができるでしょう。

現実界と象徴界の分離は
 〈からだ〉と【あたま】とが分離したことの証左と考えられます。
言語が〈からだ〉と【あたま】とを分離した。
 言語は現実界を分割し、デタラメに接合する。
  〈世界〉がデタラメに見えるのは
    私たちが象徴界に生きていて
     かつ、言語のつながり方がデタラメだからでしょう。


言語のデタラメの象徴はパラドックスというやつです。
 有名なところでクレタ人のパラドックス。
  自己言及のパラドックスともいいます。

あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言った。
 クレタ人の言が真なら、その言及が偽となり、言は偽になる。
 クレタ人の言が偽なら、その言及は偽であり、言は真なる。
  【アタマ】の中だけの言語操作であり、身体性は皆無です。

そもそも「クレタ人」という〈世界〉の分割からして
  身体性が棄却されてしまっています。
   クレタ人はある人の属性ではある。
     属性は「主に従うから「属」なのに
      属が主に置き換わっている。
     その「置き換わり」の際に、身体性は棄却される。
   
身体性が棄却されているがゆえに、アタマ言語はいかようにも繋がることができます。


ノーム・チョムスキーやスティーブン・ピンカーといった学者たちが、
 言語と文化とを、まったく別次元のものだと考えたのも、
  言語が身体性を持たなくなったということを前提にすれば、
   おおいに頷けることです。
    トートロジーだとすらいってよいかもしれません。


ところが、どうやらピダハンたちには、このトートロジーが成立しない。
 現実界と象徴界は分離していない。
  ゆえに「言語ゲーム」も成立せず、想像界もない。

ピダハンたちにとって、言葉とは、身体表現の一部に過ぎない。
 他の文明人たちのように
  身体表現を超えた「真実」とやらを言語に託すことをピダハンたちはしない。


ピダハン語には「数」の概念は存在しません。
 が、ピダハンたちが数を数えないわけではない。
  数を数えるという身体行為は、ピダハンもする。
 ただ、「数」という超身体的真実は認識しない。
  その必要がない。

ピダハン語にリカージョンが成立しないのも
 超身体的真実不成立の原則によるものでしょう。


(前略)
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。そんなときわたしは、神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。

わたしたちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、とわたしは言った。.以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、わたしは幸せになり、人生もよくなった。急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、まったく考えていなかった。自分では意味をなすと思っていた。そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた――これを話せば、神とともにある人生.がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。

わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、それがイエスの信仰へと自分を導き、飲酒やクスリをやめてイエスを受け入れたとき、人生が格段にいい方向へ向かったことを、いたって真面日に語って聞かせた。

わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。この話をすれば、わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、そこから救いだしてくれた神に心打たれた聴衆から「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。

「どうして笑うんだ?」わたしは尋ねた。

「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」みんなは答えた、彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、実際のところこの話はまったくの逆効果、彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。



この記述は、現実界と象徴界とが未分離の人たちの、ごく自然な反応だと思います。
 ただ、敬虔なキリスト教とには衝撃的な体験であろうことは想像に難くない。
 
こうした体験を否定的に侮辱と捉えても、何ら不思議ではありません。
 なのに、エヴェレットさんはそうは捉えなかった。
  敬服に値すると感じます。




こんな話を思い出します。
 進化という現象の機序についての話です。


生物が生存するには栄養素が必要です。
 栄養素は食物を摂取し、消化器官で消化することによって吸収される。
  消化という現象には、酵素という生化学物質が作用します。

栄養素Xを含む食物Aがあるとします。
 そこには、Aを消化する酵素F(A→X)が存在します。

ところがあるとき、何らかの原因でF(A→X)が生成されなくなった。
 F(A→X)の生成プログラムである遺伝子情報の欠落といった事故によって。

そのままでは生物は生き残ることができません。
 が、その生物には、
  Aから生成されうるBをXへと消化する酵素F(B→X)が存在した。
ならば、Bを摂取すれば、その生物は生き残ることができます。

ただ、Aは生存環境に豊富にあるものの、Bは乏しい。

そうした状況で進化が起きます。
 その生物は、AをBへと消化する酵素F(A→B)を生成することが可能になった。
  突然変異でF(A→B)を生成する遺伝プログラムが書き加えられた。

そうなると、生物は、環境中に豊富にあるAを摂取することが再びできるようになります。
そして
 
 A / F(A→X) / X

という消化回路に替わって

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という消化回路が新たに成立する。

これが進化という現象のモデルケースなのだそうです。



人間が〈生きる〉ためには、〔しあわせX〕という栄養素が必要です。

〔しあわせ〕という栄養素もまた、環境から食物Aを摂取することで得られる。
 「食物A」は言語という消化酵素によって〔しあわせX〕に分解され、吸収されます。

ピダハンの言語は、「A」から直接〔しあわせX〕へと消化できる酵素のようです。
 ここでいう「A」とはは、素のままの自然環境です。

現代の私たちは、「A」から直接〔しあわせ〕を生成することができません。
 「A」をいったん、人工環境「B」へと転換しないと〔しあわせX〕を生成することができません。

私たちの中に存在する回路は

 A / F(A→B) / B / F(B→X) / X

という回路です。

しかも、どうやら酵素F(B→X)の性能が良くないらしい。
 F(A→X)に比べ、質の悪いXしか生成できない。
  ゆえに〔しあわせ〕になるには大量のXが必要とされる。
   Xへの大量の需要は、大量のBへの需要となり、
    大量のBへの需要は、大量のAへの需要となる。

 その結果、自然環境Aは、急速に枯渇しつつある。

そして具合が悪いことに、
 酵素F(A→X)を使う回路をもつ形態よりも、
 酵素F(A→B)と酵素F(B→X)を使う形態の方が生存能力が高いらしい。

1酵素で済む回路のほうが2酵素必要な回路よりも合理的なはずなのに、
 不合理なものの方がなぜか支配的になる。
  進化という現象においてよくみられる不合理が、ここにも存在するようです。




想像をさらに逞しくしてみましょう。



この本によるならば、現行人類ホモ・サピエンス・サピエンスは
 先行する人類ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスを絶滅に追いやったそうです。

その試みは二度行われたそうです。
 10万年前の一度目は失敗し、
  7万年前から始まった二度目で成功した。

一度目の二度目のあいだにあったのが、認知革命。

ホモ・サピエンス・サピエンスは
 認知革命を経ることで
  虚構を操ることが可能になった。
   より大きな集団(社会)の運営が可能になった。
    大きな集団の力で、ネアンデルターレンシスを追い詰めた――
あくまで推測ですが。  

虚構を操ることが可能になるためには、ある前提を満たさなければなりません。
 現実界と象徴界の分離です。

認知革命が言語革命だったと想像することは、難しいことではありません。

(だとすると、なぜ、ホモ・サピエンス・サピエンスであるはずのピダハンが
 アマゾンで棲息しているのかが大きな謎になりますが。
  ピダハン語は認知・言語革命以前の言葉なのか?  
  あるいは、革命の揺り戻しによって性質した言葉なのか?)


旧約聖書に「イサクの燔祭」という逸話があります。

神に命じられたアブラハムが
 年老いて生まれた一人息子のイサクを
  生贄に捧げるよう神に命じられ
   その命令を実行しようとした。

こんな逸話はピダハンたちには爆笑ものでしょうが
 この逸話から推測されるのも身体性の棄却。


乱暴な推測です。

ホモ・サピエンス・サピエンスは言語革命によって
 身体性を破却できる方法を確立したがゆえに
  ネアンデルターレンシスとの生存競争に勝ち抜くことができた。

ネアンデルターレンシスは、きっと、生存競争など望んでいなかったでしょうけど。

旧約聖書の神が
 裁きの神であり
 戦いの神であるという事実は
  身体性を破却する言語革命の残滓を色濃く残しているからかも。 
 
繰り返しますが、乱暴な推測です。

コメント

こんにちは、お久しぶり。
ピダハンの前のほうのエントリーで、存在を思い出させてもらった「逝きし世の面影」読了しました。
なにかここ数年のわだかまりやモヤモヤから解放された気がします。ああ、そうだったね、そうだったんだよね、と何かを根本的なことを思い出した感じ、、、です。
ピダハンも続けて読みたいと思っています。
特に「自殺」関する抜粋のところ、興味あります。書かれてはいませんでしたが、「逝きし世」でも自殺する「庶民」はいなかったような気がします。自殺もまた西洋近代主義がゆえなのだろうと考えるのは安易すぎますかね?
いろいろ巡り会いがありこれからリアルで「自殺」について思索することが多くなるとおもいますので余計に出会うべき本に出会ったという感じです。(もちろん私自身の自殺について考えているという意味ではありません、笑)

・毒多さん

お久しぶり&遅レスでスミマセン (^_^;)

『逝きし世の面影』。
お読みになったんですね。それはそれは。(^o^)

良い本でしょう?

あの本に書かれていることは、一面の真実だと思います。
ええ、一面です。

>「逝きし世」でも自殺する「庶民」はいなかったような気がします。

僕の記憶でも、そのような記述はなかったと思います。
ただ実際、あの時代に自殺がなかったわけではない。

「心中」という言葉がありますよね。
今でも使いますが、あの時代は「心中」と言ったんですね。自殺のことを。
『曽根崎心中』という、近松の有名な作品もありますしね。

『ピダハン』には、いろいろな側面がありますが、なにより、著者ダニエル・L・エヴェレット氏の体験記です。

氏が何を体験し、何を感得したのか。

あくまで僕の所感ですが、氏の体験記を通じて得られる感触は、「懐かしい」です。
どこがどう「懐かしい」のか、言葉にするのは難しいのですけれど。

『逝きし世の面影』の読書体験も、僕にとっては「懐かしい」ものです。
根源的、言った方がいいのかもしれません。

『逝きし世の面影』も『ピダハン』も、それからまだエントリーには挙げていませんが『サピエンス全史』も、それぞれ切り口は違うものの、ヒトとしての根源へ至る読書たいけんだったと、僕は思っています。

その意味では、上橋菜穂子さんの物語にも、そういう部分が色濃くありますね。
『鹿の王』も『鼓笛の彼方』も。

レスありがとう。
>良い本
はい、良い本ですね。

>一面
たしかに、編著者の渡辺京二さんの思いが反映され美化されていることもあるでしょうね。でもやはり、おっしゃるように「懐かしさ」や「根源的なもの」を感じるのは事実です。多くの方が同じように感じる「逝ってしまった何か」はあるでしょう。
今、多くのことが頭打ちになってきていて、ただ途方に暮れるのではなく、じゃあどういうふうになればいいのか、という指標を「一面」のなかに見いだせる気もしています。
まあ、社会全体としては同意を得られるかどうか疑わしいですが、個人としてはしたいと感じます。(個人として語るものではないのでしょうが)
ワタシが、今のまま、逝きし世に放り込まれても、生活できないですしね。案外早く慣れるかもしれませんが、、、笑

ご指摘の >「心中」のことは考えました。
同著では、解放されすぎていて恋愛感情が薄そう、ということが書かれていた気がしますが、たしかに曽根崎心中みたいなことはあったのでしょう。また忠臣蔵のような武士階級の自殺行為もあった。
曽根崎心中や忠臣蔵だけみると「家」に縛られたはて、ですが、逝きし世にかかれている物質的貧困の庶民レベルでも心中はあったのかなぁ、読後まもなく、かなり傾倒していて贔屓目でみてしまうので、なかった気がして仕方ありません.

なかったほうが指標として「いい物語」を夢みることができるだけかもしれませんが、、、、ははは、爆!!

・毒多さん

再度のコメント感謝です。

>「逝ってしまった何か」

僕は、「逝ってしまって」はいないと思っています。
抑圧されているだけ。【逆接】な社会に。
僕たちには抑圧されしまっている、ヒトとしての「何か(根源的なもの)」が、そこに描写されているがゆえに、僕たちは「懐かしい」と感じる。

その意味では『逝きし世の面影』も、『鼓笛のかなた』も、同類の本です。

ただ違うのは、『鼓笛のかなた』は完全な空想である一方、
一面的であるにせよ『逝きし世の面影』の記述は事実だということ。
つまり、一面的であっても、〈順接〉な社会がそこにはあったということです。

>今、多くのことが頭打ちになってきていて、
>「一面」のなかに見いだせる気

まさに、仰るとおり。



『逝きし世の面影』の時代と僕たちの時代で、最も何が違っているかというと、

  経済の単位

だと思っています。
かの時代の経済の基本単位は「家」です。
現代は「個人」です。

マルクスは「下部構造が上部構造を規定する」といいましたが、これは当たっていると思います。
下部構造とは経済です。
その構造が、「家」単位から「個人」単位になろうとしている。

別の言い方をすれば、ゲマインシャフト(家)からゲゼルシャフト(法人)を経由して、
「個」になろうとしている経過の過程にあるのが現代です。

法人の中にはもちろん「国家」も入ります。

この個人への分解の経過は、あるいは破滅への道程かもしれません。
ですが、「ヒト」として、同時に「人間」としての「あるべきよう」への過程なのかもしれません。

僕は、後者だと考えることにしています。
そのように考えるにおいて、『逝きし世の面影』は重要な参考資料のひとつです。

>経済の単位

「逝きし世の面影」はかなり高額な本なのでブックオフで買ったのですが、そのとき目にとまって安価だったので買った本が、内田樹の「街場の共同体論」です。
そろそろ読了に近いのですが、ほんとに「逝きし世の面影」と呼応するような本で、その偶然に驚いています、笑

その本にも同じようなことが書いてありました。
共同体(ex家)の分解、個人にさせられている。それは経済活動側の意向であり、仕向けられている。
資本主義とフェミニズムと左翼的個の権利主義が駄目らしいです、笑。

共同体の分解、個人への分解。
その方向へ経済によって仕向けられている...

本当は、これは逆だと最近考えるようになりました。
経済によって、共同体であるべく仕向けられてきたというのが本当の人類史の姿だと思います。
その強制はおそらく、農業の開始と共に始まった。

僕たちには、身体的には「個」なんです。
たしかに、ヒトはとても未熟な身体で母親の胎内から外界に出てきます。
そして子どもは、成人の助力なしには生き延びることができない。

生き延びる術を獲得したヒトは、立派に「大人(≠社会人)」です。
人類史の大部分を、ヒトは〔個〕を経済単位として生き抜いてきた。
ヒトが社会を営むようになったのは生存戦略ですが、
だけど、個々人は一個の〈生命〉であって、
それは社会がどうであれ、揺るがない基本だと思うんです。

生き延びる術を身につけた〈個〉が先で、共同体や社会はその後です。 
〔個〕が内発的に〈共同体〉を作って、生存競争を生き抜いてきた。
狩猟採集の時代は、そういった時代だったのだろうと想像します。

それが、農業が開始されてからは【共同体】のほうが先だと勘違いするようになった。

『逝きし世の面影』で際立っていると感じるのは、【共同体】の緩さです。
女性への縛りの緩さ。
子どもへの接し方は、内発的な〈共同体〉のそれであるかのような気がします。
動物への接し方もそうですね。

そのあたりが、ボクが「懐かしさ」を感じる所以です。

ちょっと個が先か共同体が先かというリアリティはワタシにはありませんが、農業が開始されてから【共同体】になったと言われれば、そんなもんかな、とも思います。
なんとなく【村社会】というのも想起させますし、、、

逝きし世の面影が【共同体】が緩いというのは同意します。
たしかにそこから魅力を感じているのでしょう。
内田さんの同著には「現在では全てが契約関係にある」と書かれていました。すべて価値の等価交換という契約の関係でなりたっている。とそのあたりは言い得ているとワタシは感じます。そこには信頼関係による〈緩さ〉がない。
〈共同体〉とは契約など結ばなくとも「いわずもがな」的に共生していることかもしれません。
よく考えたらワタシにとっては「懐かしさ」というよりも、「安心感」とか「憧れ」なのかな。

といったところで、とりあえず今年は筆をおきます。良いお年を^^

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