愚慫空論

『神様ドォルズ』


このアニメ作品、放映してのは何年前だったけ?



けっこう、好きでした。
このオープニングの曲もお気に入りでした。

OPの曲のタイトルは『不完全燃焼なんだろ?』なんですけど
 アニメの方も不完全燃焼のまま終わってしまいます。
  続き(2期)があるのかと思って楽しみにしていたけど、それもなくて。
    なんだか残念なアニメでした。

で、いつだったか、ブックオフに行ってみたら、原作の漫画が
 100円(税抜き)であったんで、買い込んでみました。
  それで不完全燃焼も、多少、解消されました。

で、で、先日
 グチャグチャになった本を整理していたら、この漫画がでてきた。
  手にとってパラパラッとめくってみると、目にとまったのがこの場面です。



なぜ、よりにもよって、こんなのが目に留まるんでしょう?
 そういうつもりではなくても、「見たいもの」を見てしまうんですね。笑。

『神様ドォルズ』は、特にオススメというわけではありません。
 たまたま目にとまった場面が、ハマっただけ。



   「お前の言うように、この村がたとえ歪んでいるとしてもだ」

   「そんなものは
     この国の
      この世界の
       どこにでも当たり前に存在する歪むに過ぎん」 
   「あえて
     あげつらうのも
      バカバカしいほどにな」
   「この村は
     特殊かもしれないが特別ではないのだ

   「そして我々は
     生まれてくる社会を選べん」

   「なら
     与えられた条件の中で
      うまくやってゆくしかあるまい?



あらためて気がつきましたがこのセリフ、名言です。
 赤字にした部分以外は、事実です。

赤字は村の支配者の主観です。
 だけど、支配者だけのものではありません。


マルクスによれば、

 ある時代の支配的イデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギー

だそうです。

赤字は支配者のものであると同時に
  ほとんどの社会構成員によって共有されている支配的なものでもある。

 支配階級のものであると時に、被支配階級のものでもある

ということです。

   この【同】は、僕が大嫌いなものです。




こんな本を少し前に読みました。
 この本の特徴は、「あえてあげつらうのもバカバカしいもの」を論っているいるところです。
  「バカバカしいもの」をあえて論うことで

被支配階級が気がつかない――のではなくて
 気がつきたくないであろう「事実」を提示します。


その「事実」とは、

 ・人間が社会のどの階級に属するようになるかは概ね知性で決まる。
 ・知性は遺伝的によって概ね決まる。

です。



「事実」には説得力があります。

その説得力は、事実のすべてではなく、
 イデオロギーに合致する事実のみを選択して提示したときに
  もっとも大きな  を発揮する。
      プロパガンダ



こんな本を、今、読みかけています。



出だしが名文だと思います。

今からおよそ135億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根幹を成すこれらの要素を物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから30万年ほどのちに融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがて原子が結合して分子ができた。原子と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ38億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成しはじめた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。



ただし、瑕疵があると思う。

物理学を、化学を、生物学を
 
 物語

と捉えたのは慧眼です。
なのに、なぜ、歴史を物語としなかったのか。

「物語」とは編集作業を経て成立するものです。
  編集作業において恣意は免れません。
   だから、「物語」とは都合の良いもの。プロパガンダになりうるもの。

歴史こそ「物語」です。
 (だからあえて「物語」とはしなかったのかもしれませんが。)

『言ってはならない』が提示する「事実」は

  歴史的事実
 
に過ぎません。すなわち「物語」です。

物理学や、化学や、生物学といった「物語」そのものを再編集するのは人間業ではありません。
 人間にできるのは、発見だけ。
が、歴史は人間業です。
 歴史を学ぶということは、歴史が人間業であることを識るということ。
  歴史そのものも再編集可能であるということを知るということです。

歴史が人間業であることを識るということは
 自身の〈生〉もまた歴史であるということ識ること。

「識る」というのは、そういう意味です。
歴史という「物語」は今後、いかようにも再編集できる可能性があるということです。


『言ってはならないこと』が言っているのは、
  
  人間は幸せになるようにデザインされていない

ということです。

『サピエンス全史』はまだ読了していませんが、
  僕が見たいと期待しているのは、

    人間が幸せにならないような社会はどのようにデザインされて行ったのか?

です。

ここが見えれば
 幸せにならない社会がデザインされていった
  という歴史的事実を踏まえて

     幸せになる社会をデザインしていく

方法論が見えてくる可能性があります。

 「あげつらうのもばかばかしい
 「与えられた条件の中でうまくやるしかない

といった態度は怯懦です。

初めから人間業の可能性を放棄していると僕は思います。




蛇足。

僕にとって【同】は「観たくないもの」です。
 なのに嫌というほど観えてしまう。

   【逆接】だからです。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/895-a0549c9c

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード