愚慫空論

「富士山」





上の画像は10/31の10時頃に撮影したものです。
 場所は、富士急行富士山駅のある建物の6階展望台から。

今年は富士山の初冠雪が遅かったんです。
 初冠雪はこの3、4日前でしたけど
  そのときに雪を被ったのは山頂部分がわずかにという程度。
   この日は7合目くらいまで、雪になっています。

富士山は、僕にとっては特別な存在です。
 富士山は日常の風景ですが、風景というカテゴリーをもはや超えています。
  富士山は眺める存在であると同時に、眺められる存在でもある。
   富士山からの視線を感じるような気がするんです。

もちろん、それは錯覚に過ぎないことは重々理解しています。
 だけど、それにしてはリアルなんです。

晴れていて
 「今日は富士山が顔を出しているだろうな」
  と思うのと同時に富士山からの視線を感じる。
   それで振り向くと富士山がいる

   「ある」ではなく「いる」です。


こんな感覚を抱くようになったのは、わりと最近のことです。
「note」というSNSを始めた頃
 面白がって毎日のように富士山を撮影してはアップしていたことがありました。

半年くらい続けていたと記憶していますが、やっぱり飽きるんですね。
 飽きてしまって、撮影はやめてしまった。
  SNSの方も中断してしまって、意識して富士山を眺めることも辞めてしまった。

それからしばらくして、去年の今頃だったと思いますが
 秋晴れの日に街を歩いていたら
  後ろから視線を感じたような気がしたんです。
 誰か知り合いでもいるのかいな? と思って振り返ったら誰もいない。
  不審に思ったのですが、はたと気がついた。
  
    あ、これは富士山だ

そう思ったときは、おかしくてひとりで笑ってしまいました。

そのときから、富士山はそこにある風景でなく
 そこにいる人格になりました。


こんなことを書いていると思い出すことがあります。
 昔、そんなことを言っていた人に出会ったことがあるんです。

富士山業界では有名な写真家さん。
 南アルプスの山小屋に居た頃のことです。

その人が有名な写真家であったことは知っていました。
 だけど、僕はへそ曲がりなんで、「有名? ふ~ん...」
  てなもので、関心を寄せていませんでした。
 その人は不思議な感覚の面白い人で、人柄は好きでしたけど。
  要するにキワモノだと認識したんですね。

当時は写真というものをバカにしていた。
  記録という意味での写真ならわかるけど
   風景を切り取っただけのものが、芸術に値するとは考えていませんでした。

だけど、ある一枚の写真が、写真が芸術に足ということを教えてくれました。
 それは高山植物の一種、イワベンケイの写真でした。

イワベンケイというのは、高山植物のなかでも、どちらかと言えば地味な存在です。
 高山は気象条件の厳しい場所ですが
  イワベンケイは、なかでもとりわけ厳しい場所に咲く。
   吹きさらしで乾燥した岩稜地帯が彼らの住処。
  ゆえに、葉は厚くなり、花弁との差もハッキリしない。
 可憐な花にはならないんです。

そのイワベンケイが、とびきり可憐な姿で写真に収められていた。
 湛えた朝露がきらきら光って、ニッコリ笑っているような。
イワベンケイは嫌というほど見てきましたけど、そんな姿は見たことがなかった。

驚いて、この写真は誰が撮ったのかと尋ねたら、富士山専門の写真家が撮った、と。

で、当人に尋ねてみました。
 あんな写真、どうやって撮ったんですか?
  ――こんなふうに撮ってくれと、花の方から言ってきたんだよ。

いかにもキワモノらしい答え。

 素晴らしい写真だと思うけど、発表しない?
  ――ん~、これは、僕に個人的に見せてくれた姿だからね。

 じゃあ、富士山にも、個人的に見せてくれた姿とかあるんですか?
  ――もちろん、ある。
      そういう写真は公表しない。
       そんなことをしたら、富士山に嫌われるから。

というような会話を交わした記憶があります。


その人にとっては、イワベンケイも富士山も、立派な人格です。
 が、当時の僕には、その感覚がまったく理解できませんでした。

  今はなんとなくわかる気がします。





『ピダハン』の読書は、楽しすぎて、遅々として進みません。
 こういった本は、一気に読破してしまうのはもったいない。
  行きつ戻りつしながら、読み遊んでいます。

この「富士山」についても、『ピダハン』からの派生です。



富士山には、「木花咲耶姫」という人格が与えられています。


僕自身は、そういう名前のついた人格として、富士山を認識しているわけではありません。
 ただ、そういう認識はありだと思います。

歴史的な伝承として「あり」というのではなく
 現に、そこにいる存在として、そういうのもあり。

現にいる存在。
 「神」や「精霊」と呼ばれるもの。
  現にそこにいるので、当然、観ることができる。
 人格として認識しているなら、人格として観る。
それが「精霊」です。

『ピダハン』の著者には、ピダハンたちが観ている精霊は見えません。
 いくら観ようとしても見えない。
ピダハンたちを信頼し、彼らが観ているであろうことは認めても
 それでも観ることができない。
  心の底から、そういう人格が存在するのだということを認めていないのでしょう。


心の底から認めるというのは、とても難しいことです。
 意識してそうなるものではありませんから。
  無意識のうちにそうなってしまうもの。
 意識していることを、意識して無意識に落とし込むというのは、至難の芸当です。

ああ、違います。「落とし込む」ではない。
 ベクトルはむしろ逆。抱え上げる?
  いえ、しっくり来ません。

別の言葉で言い換えた方がよさそうです。
  惚れる
という言葉。あるいは
  萌える
とか。

「落とし込む」は"単純なものへと整理して”という経過を踏みますが、
「惚れる」とか「萌える」は、"より複雑なものだと想い為して”という経過を踏む。
 そして
「落とし込み」は【アタマ】の認識作用ですが、「惚れる」「萌える」は〈からだ〉の認識作用。

意識して為すのは難しいけど、 〈からだ〉は勝手にやってしまう。


とはいえ、【落とし込み】も身体的に作用します。
 これが人間の哀しいところ。

映画『ロルナ』の祈りにおいて、象徴的に使われていた紙幣。
 【アタマ】の認識作用によって〈からだ〉にまで【落とし込まれた】紙幣は
  視聴者である私たちの注意を無意識のうちに惹く。
 その無意識の惹きつけによって
  私たちは登場人物たちがお金に支配されていることを感知し
   現に支配されているがゆえに同感
    支配に追い詰められて抗わざるを得なくなったロルナに共感します。

 その共感
  ベートーヴェンのアリエッタに置き換えて良しとしたことは、
   理解はできるし共感もするけれども
    ずるいとも思うというのは、先に記した通りです。

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