愚慫空論

『ピダハン』


追記前提のフライング・エントリーです。

今、思っていることを、今、書き留める。
完成形ではなく、未完成のままで表出してしまう。
 
そうした“形式”が、なぜか楽しいと思うようになってきています。

というわけで、読みかけの本。



予想していた以上に、楽しい読書を味わっています。
 当初、予想し期待していたのは「懐かしさ」でした。
  『逝きし世の面影』を読んだ時のような。



読書をしていて懐かしいと感じるとき。
 それは、本の中にある現象の記述が
  私たちが普段体験している文化的現象の震源だと感じられたとき。
   普段、何気なく為している言動のルーツを見出したと思ったとき。

その文化的現象が失われつつあるものだとしたら
 懐かしさはさらに強調されることになります。
『逝き世の面影』は
  僕たち日本人が失いつつある日本人としての文化的の震源を
   再発見させてくれる読書でした。


あるいは、『浜辺の歌』。


浜辺を彷徨った経験などないにも関わらず
 歌を聴いていると、いつの間にやら同調して 
  “昔を偲ぶ”という気分に誘導されてしまう歌。


「懐かしさ」の発見は、根源への思索を誘うものです。
 『ピダハン』もまた根源への思索を誘うものですが
   これは「懐かしさ」を超越しまっています。

懐かしいというには、逞しすぎる。
「生」と「死」の距離が
  僕たちの文化的体験から想像不可能なくらいに近い。

いえ、想像不可能ではないかもしれません。
 ただし、その近さは異常事態です。
  敵と殺し合う戦場でならあり得るかもしれないと思うくらいの近さ。
   その近さが、ピダハンにおいては、健全な日常生活になっています。


ピダハンのある女性が赤ちゃんを産んだ。名をポコーという。
 母子とも順調に生育したけれど、母親が病気になって死んでしまう。
  同時に赤ん坊も弱ってしまう。

ピダハンの集落で暮らしていた著者は、その赤ん坊を救おうとします。

私たちは、誰がポコーの娘の面倒をみるのかみんなに尋ねた。
「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」みんなは言った。
「ケレンとわたしが世話をしよう」私は言ってみた。
「いいだろう」ピダハンたちはうなずいた。「だが赤ん坊は死ぬよ」

ピダハンたちには、死が見えるのだ。いまはそれがわかる。だがわたしは赤ん坊を助けると誓ったのだ。


(前略)ジョギングから戻ってみると、我が家の片隅に数人のピダハンたちが集まっていて、強烈なアルコール臭が漂っていた。集まっていたピダハンたちは、何やら申し合わせたような顔でこちらを見据えてくる。怒っているように見える者、恥じ入っているように見える者。自分たちが取り囲んでいる地面のあたりにただ目を落としている者もいた。わたしたが近づいていくと彼らは場所を開けてくれた。ポコーの赤ん坊が地面に横たわり、死んでいた。カシャーサ(酒)を無理やり飲ませて死なせたのだ。
「赤ん坊はどうしたんだ?」わたしは、目に涙がにじんできた。
「死んだ。これは苦しんでいた。死にたがっていた」


しかしこの出来事について考えれば考えるほど、ピダハンの立場からすれば最善と思われるやり方で始末をつけたに過ぎなかったのだと思えるようになってきた。彼らは意味なく冷酷にふるまったわけではない。生命や死、病に対するピダハンの考え方は、わたしのような西洋人とは根本的に違うのだ。医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見抜けてしまうのだ。ピダハンは赤ん坊が間違いなく死ぬとわかっていた。痛ましいほどに苦しんでいると感じていた。わたしが素晴らしい思いつきだと考えたミルクチューブは赤ん坊を傷つけ、苦しみを引き延ばしていると確信していた。だから赤ん坊を安楽死させた。



「死相が見える」ということがありえることだという感覚がなければ
  上記の出来事は野蛮人の蛮行にしか見えないでしょう。
僕には「ありえること」という感覚はあるという自負があるので
 野蛮に見えるピダハンたちの行為の合理性は理解できなくはない。
  だけど、それでも、驚かざるを得ません。
   ここまで「生」と「死」は近くはない。
  アタマでは「生」と「死」は表裏一体だと理解はしていても
  〈からだ〉はそのようにはなっていません。


現在、読書はピダハンの言語について
 著者が体験を綴っているところにさしかかっています。

読書のさなかに僕のアタマに浮かんできたのは

 「真如」

という言葉です。



「真如」とは、「言葉以前の言葉」を表す言葉です。

僕たちにとって言葉とは〈世界〉を“分割するもの”です。
 言葉に〈世界〉は分割され、分割されたことによって「輪郭」が与えられる。

言葉が“分割するもの”であるという理解が生まれれば
 論理的帰結として“分割以前”という発想が生まれてきます。
 「真如」とは、現実を越えた“発想”です。
   
仏教とは、現実を越えた発想から現実世界を観る方法論だと思っています。
 だから、発想は現実的ではない。
  むしろ現実的であってはならない。


現実は小説より奇なり。

ピダハン語は、言葉でありながら、どうやら〈分割するもの〉ではなさそうな雰囲気です。
 だとすれば、「真如」だということになる。
  「真如」でありながら、
  コミュニケーションを可能なさしめるツールとして機能しているように思えます。

が、これもまた、現段階での僕の発想です。
 読書を進めて確認してみたいと思います。

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