愚慫空論

『ロルナの祈り』


ずるい映画だと思いました。



この映画は、僕がチョイスして観たわけではなかったんです。
 とある会で、観ることになった。
  なんの予備知識もなしに観ました。

なので、エンドロールで
 僕には耳馴染みの音楽が流れてきたときには
  かなり面食らってしまいました。

また、ここでもベートーヴェン。
  しかも、最後のピアノ・ソナタ作品111

 そういう閉じ方をするか――。



ロルナという名前。
 ヨーロッパの人ならば、その名前だけで出身地は察しがつくのかもしれません。
  移民も身近な存在なのでしょう。
 合法的に国籍を得る為の偽装結婚。
  もちろん違法なビジネスです。
   ロルナは犯罪者です。
ロルナにはその自覚がありません。

もちろん、ロルナは自身の状況を知らないわけではない。
 知っていても、わかっていない。
  アタマではわかっていても、〈からだ〉にまで届いていない。
 なので自身のおかれた状況からは許されない振る舞いをしています。
  偽装のはずが偽装ではなくなってしまいます。


この映画のなかで重要な役割を果たしているキーアイテムがあります。
 紙幣です。
  幾度も幾度も“お札”が画面に出てきます。

お金を知ってしまっている人間はお金を無視することができません。
 お金の効用を実感として識っているので
  その【価値】が〈からだ〉まで届いてしまっています。
なので、視聴者は
 登場人物がロルナも含めて
  お金に支配されていることを理解することができます。

加えていうならば、お金の使い方で「愛」の存在がわかる。
 そのように作られた映画です。

映画の中の現実では、お金の支配から逃れることができません。
 「現実」から逃げられないから
  「現実」ではないところに逃げる。
 その「逃避」を祈りだといい 奇跡だといい
  ベートーヴェンの音楽を被せて
   美しいものであるかのように印象づけようとしていると感じる。

ショパンならまだしも、ベートーヴェンでは嘘くさい
 僕は、嘘くさいと感じます。

ショパンであったなら
 製作者には「逃避」の自覚はあったろうと思ったでしょう。
  「逃避」してしまうことから逃れられない人間。
    弱い人間。
  「逃避」から逃避することなく
    人間の弱さを真正面から見つめるなら
     それは大いにありだと思います。

だけど製作者自身が「逃避」してしまうことは、どうか。
 

映画の「現実」のなかでロルナは追い詰められてしまいます。
 ロルナは身の程を弁えていませんでした。
  ロルナの“身分”では、〈からだ〉を素直に発動させることは許されない。
 なのに、ロルナはそれをしてしまったがために、追い詰められることになります。
  理不尽な「現実」です。

追い詰められて、ロルナは想像の世界に逃げる。
 想像と現実の区別が付かなくなっていく。
  区別が付かなくなってしまうことが
   当映画がいうところの「祈り」であり
    予告編がいうところの「奇跡」です。

繰り返します。
 「逃避」することが避けられない弱い人間の「現実」を描くのはありです。
が、「逃避」しているフィクションの人間のなかに
 製作者自身が「逃避」してしまうのは、どうかと思う。

僕はずるいと思うし、
 もっと強い言葉で言えば、怯懦です。
  現実に怯えていると感じてしまいます。



 
 ※ 追記

以上のように感じたのには、この本の影響があるのかもしれません。

200


この本の中で内田樹さんは、「フランスも衰えたな、と思いました」と延べ、以下のように続けます。

フランスって、なんだかんだ言いながら、18世紀から19世紀末までは「人権のための戦いのフロントランナー」だったでしょう。近代市民革命の旗手として戦い続けてきて、かなり高い通算勝率を上げてきた。そのプライドが国民的に共有されてきたはずなんです。でも、この百年を見ると、悪けれど、もうそろそろそのカンバンは下ろした方がいいかもしれない。



なぜ現代のフランスの知識人たちはドレフュス事件の時のように、あるいは対独レジスタンスのときに見せたような堂々たる倫理的態度や理路整然とした発言ができないのか。それはやっぱり1930年代からのフランスの政治的経験の総括がちゃんとできていないからだと思うのです。知性の明晰さ、批評性の確かさというのは、自分たちが犯した失敗や罪過に対する冷静な吟味によって担保される。僕はそう思っています。フランスの知識人の知性の活動がこのところぱっとしないのは、そうした総括が不十分だからだと僕は思います。



『ロルナの祈り』にあるのも、「総括の足りなさ」
  すなわち
 「自ら責任を負う態度」だという気がします。


『世界「最終」戦争論』でも移民の問題が取り上げられていて
  内田さんの上の発言はその移民問題が移民問題が下敷きにある。
   それも映画の東ヨーロッパではなく
     文化的背景がもっと異なるイスラム移民です。
   ですから、深刻度は『ロルナ』より深いでしょう。

同じヨーロッパ人の移民であっても
 苦難の受忍と昇華を移民の側に
  「祈り」や「奇跡」というもの言いで転嫁する態度。

もし、同じテーマを東ヨーロッパ人が描いたなら
 タイトルは『祈り』ではなく
  『怒り』 あるいは 『叫び』 になっていたのではないか。

そんな気がします。

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