愚慫空論

アイスブレイク

実はこのエントリーは以前に書いたものの再掲載です。なぜかもう一度、この文章をエントリーしたくなってしまいました。(一部改変しています)

この文章は、私が受講したとある講座についてのレポートです。講座の名称と目的は後で出てきます。この講座を受けたのは04年の秋でしたからもう3年半が経過しているのですが、このときの体験は『逝きし世の面影』の読書体験と並んで私の思考の核となっているもの。先のエントリーで『逝きし世の面影』を取り上げたから再びこの講座のことも採り上げたくなったなった...、というだけの理由ではないのですが、それ以外の理由については“なぜか”ということで(笑)。


自己紹介

その講座には20人足らずの人が集まっていただろうか。まずは型通り講師の自己紹介があり、その日の講座の内容と目的についての講師の講義が行われる。この講義の内容についても後述。3時間ほど講義は続いたろうか。

お昼の休憩を挟んで、午後から講座参加者の自己紹介が行われる。ここで行われた自己紹介はありきたりのものではなく、工夫を凝らしたものだった。

まず、カードが手渡される。このカードはホルダーに入れて胸へ付けて名札にするためのもの。そしてこの名札に書き込む名前を考えるように言われる。この講座の中で自分が呼ばれたい名前。もちろん本名でも良いし、職場や学校で呼ばれているニックネームでもいい。また新たに考えてもいい。とにかく何でもいい。そしてさらに、その名前に枕詞をつけろという。枕詞とは、その自分を紹介する簡単な言葉。「○○が好きな(枕詞)××(名前)」とか。「ホニャララになりたい△△」とか。私はそのとき、「きこり見習い中の◇◇◇」とした。(枕詞をつけて自分のつけたい名前をつける、というのはブログにも通じるものがある)

この名札作りにはかなり時間がかかった。皆が名前を付け終わるまで30分では済まなかったと思う。さっさと書いてしまった人もいたが、私はなかなか書けなかった知らないひとのなかで自分が呼んで欲しい名前なんて言われたって、どうにも恥ずかしい。逡巡してやっぱりきこりは外せないなと考え、◇◇◇は昔よく通っていた飲み屋で呼ばれていたのでいいか、とエイヤで決めた。決めてしまうと腹が据わる。逡巡していたときの不安感というか恥ずかしさが減退するような感じ。

さて、皆の呼び名が決まったところで次は自己紹介に入るわけだが、自己紹介の順番を決めるのにゲームをした。「スキヤキ」「フルーツバスケット」と言われる椅子取りゲーム。椅子を人数より一つ少なく円形にならべ、掛け声と同時に皆が席を立って椅子を奪い合う。最後まで椅子に座れずあぶれた人が罰ゲームとして、自己紹介をする。要領の悪い人は2度も3度も自己紹介をしなければならない羽目になる。また逆に最後まで自己紹介をしない人もいたが、これは講師が調整して自己紹介をさせた。させたといっても、ゲームで体を動かして参加者の緊張もほぐれ、“強制的”に自己紹介をさせたという雰囲気はまったくなかった。ほとんどの人が自己紹介を済ませた中で、自分だけ自己紹介していないのがかえって居心地が悪いというような感じになっていたのだろう。


心のキャッチボール

ひとわたり参加者の自己紹介が終わり、その次に行われたのがキャッチボール。参加者が皆で輪になって、キャッチボールをする。もちろん、ただのキャッチボールではない。心のキャッチボール。

相手にボールを投げるときに、そのボールを自分の大切なものだと思って、投げる。そのときに自己紹介した名前を必ず呼ぶ。相手の受け取りやすいように、投げる。受け取る方は、そのボールが相手の大切なものだと思って受け止める。投げて受け止められたら、周りの者は拍手。ただのキャッチボールではないが、ただそれだけのキャッチボール。

先ず講師がデモンストレーションを見せてくれた。素直に相手にボールを投げるやり方。何も難しいことはない。誰にでも出来る。相手の名前を呼び、相手の目を見て、相手が受け止めやすいように投げる、ただそれだけ。受け止めるときは返事をして、しっかり受け止める。両手で「受け止める」ということが相手にしっかり伝わるように、受け止める。

やってはならない投げ方、受け止め方のデモもしてみせてくれる。思いっきり投げつける。わざと取れないようなところへ投げる。ぞんざいに片手で受け止める。あっちの方を向いて、飛んできたボールを捕まえる。取りこぼす。無視して受け止めない。投げ方、受け止め方、声のかけ方、ただボールを投げる、受け止めるといっても、ちょっとした態度でその印象がガラリと違う。そして、このちょっとした態度の違いが、私たちが普段おこなっている他人との関わり方とオーバーラップする。

参加者は性別年齢がバラバラだから、たった1個のボールをやりとりするのだって中にはそれが難しい人もいる。そんな人には尚更、丁寧に投げる。時には受け止められるところまで、ぐっと近づいて投げる。受け止められたら皆で歓声を上げて、拍手。受け止められなかったら、ため息が漏れる。皆がうまくキャッチボール出来るようになったら、難度を高くする。ボールの数を増やす。ボールではなく、フリスビーにする。そうやって、たかがキャッチボールが単なるキャッチボールでないものに変わっていった。


インタープリター

心のキャッチボールはとても盛り上がったのだけれど、こういう「盛り上がり」は他人が冷静にみると、とてもバカバカしいように映るだろう。この講座で行われた自己紹介から心のキャッチボールへの流れは、こういった参加者のバカバカしいと思う気持ちを打破するために行われた、考えられたプログラムだったのである。これをアイスブレイクという。

アイスブレイクとは、氷を砕くという意味。そう、心の氷を砕くのである。こういったプログラムのお陰でほんの数時間前までは見知らぬ人の集まりだった講座参加者の集まりが、和気藹々と一体感のある集団へ変貌した。

ところで、そろそろこの講座がどういう講座であったのか、その名称と目的を明かさなければならない。インタープリター講座、自然と触れ合うことを目的とした講座であった。インタープリターとは仲介者、この場合、人と自然との仲介者という意味で、講座の目的をもう少し正確に言うと人と自然との仲介者を育てるための講座であり、アイスブレイクは自然と人とを仲介するための手法というわけである。

ここで参加者の自己紹介ゲームに先立って行われた講義の内容を簡単に紹介すると、次のような内容であった。

人が自然に触れ合おうとするならば、まず人は心を開かなければならない。ところが見知らぬ人が大勢集まるような講座の場合、人は周りの見知らぬ人たちへの緊張感から心を開くことが出来ない。周りの人をには心を閉ざし、自然には心を開くというような器用なことは出来ないから、インタープリターとして自然と人とを仲介しようとするならば、まず人の心を開くことから始めなければならない。これがアイスブレイクである。


インストラクターとの違い

心を開くこと、ここでいうアイスブレイクは、自然と接することに限らず、何かを伝えようとする時にはとても重要なことである。そのことは私に限らず多くの人が実感していると思う。例えば、学校で授業を受けたりするとき。教えるのが上手な教師は、伝達する技術もさることながらこのアイスブレイクが上手な人である。また、漫才師などの芸人。彼らがいちばん恐れるのは、観客がしらけてしまうこと。だから、先ず観客の心をつかもうとする。伝えることを仕事とする人は、アイスブレイクという術語を使うかどうかは知らないが、そのことの大切さは熟知している。

ただ、自然と触れ合うことを仲介するインタープリターの場合、大切にしなければならないのはその人の感性である。何かを教えるのではなく、発見してもらわなければならない。自分が予め用意してある答えを伝えてはならない。アイスブレイクが完了した状態で講師が回答を出すと、受講者はその回答を受け入れてしまう。これはインストラクターである。ある知識等を教えるのならそれでよいが、インタープリターの目的は違う。指導者ではない。あくまで仲介者である。

インストラクターがピラミッド型であるならば、インタープリターはサークル型である。一人一人の感性を認め、否定しない。誰かが感じることをそのまま認める。相手を認め、相手に認められることでさらにアイスブレイクが進み、心が広がる。心が広がれば、感性が広がる。そういった場を築くように誘導するのが、仲介者であるインタープリターの役目となる。


ファシリテーター

インタープリターという用語からも分かるとおり、こういった自然と接する手法はあちらから導入されたものであるが、もともとはアメリカン・ネイティブの人たちの発想が元になっているらしい。講師の方はラコタ族の人たちと居住区で生活を共にすることで、その発想の根源に触れてきたという。

また講師先生は、最近はファシリテーターとしての仕事を引き受けることが多いということだった。ファシリテーションという用語は、最近ビジネスの場面でも会議の手法として注目されているというが、彼らの主に行うファシリテーションの舞台は、大人たちのビジネスの場ではなく子どもたちの学校であることが多いという。

近年、学級崩壊ということがよく話題にある。学級という場が壊れてしまって、本来の目的である学習が進まなくなる。こういった現象が各地の学校で見られるようになったということらしいのだが、彼はそういった場に出向いていって、崩壊した学級を立て直すという仕事をこなしているという。このときに重要なのが、とにかく「認めること」。「信頼のないところからは、何も生まれない」。これがファシリテーションの大原則なのだ、と。

こうした人間関係の構築・修復のためスキルには様々なものがあり、「一緒に遊ぶ」というのもそのひとつ。ただ、スキルはあくまでスキルであってそれ以前のもの(メタスキル=「信頼のないところからは、何も生まれない」)がないと、詐欺師に落ちてしまう、と。人はバカではないから、いずれ見破られ、また場は崩壊してしまう、と。


焚き火を囲んで喧嘩するやつはいない

最後に少し、職場の先輩から聞いた話を付け加えさせていただく。

現在は自動車が普及し、道路も隅々まで整備されたおかげで林業の世界も自宅通勤が常識となっているが、これは最近の話。職場のベテランの多くは現在の常識が常識となる以前からこの世界で働いている人が多く、そんな人たちが林業の世界に入った頃は山の中に小屋(飯場(はんば)といった)を建て、寝食を共にしながら仕事をするのが当たり前だったという。

そしてそのころは、ひとつの現場に現在よりも多くの人間が働いていた。現在は林業といえどもかなり機械化されているから、昔に比べれば作業効率は上がり同じ仕事に要する人員は半減している。だが昔はそうではなく、当然、飯場には多くの人と一緒に過ごすことになった。おまけに林業の盛んなその頃は職人の移動も盛んで、ひとつの現場にいろいろな地方の人が集まってきては仕事をしていた。つまり出稼ぎの人も多かったわけだ。

昔から現場の職人は気が荒いと相場は決まっている。今でもそうだが昔は尚更。そんな連中がずっと顔をつき合わしていて喧嘩が始まらないわけがない。誰にだって波長が合わない人間はいる。山から木を切り出す仕事にはチームワークが必要で、ちょっとした呼吸のズレで事故になってしまう。事故にまで至らなくても、危ない思いをすることはたびたびある。そんなことが喧嘩の原因になる。

誰かのミスが明らかな場合はよい。そんなときは揉めはしない。だがいつもそうとは限らないのが難しいところ。「オマエが悪い」、いや、「悪いのはオマエだ」。皆がそれぞれ自分の腕前には自信を持った職人たちだから、なかなか引かない。そんなとき、現場を束ねる親方はどうしたか。

夜、喧嘩している者たちを連れ出して焚き火を囲んで話をした、という。焚き火の炎はなぜか人の心を落ち着かせる。心が落ち着けば相手の話にも耳を傾けることができる。相手の話に耳を傾け相手を認めれば、喧嘩は自然に終わる。また翌日から心を合わせて仕事ができるようになる、と。

コメント

たぶんこういう話ですかね

リアルな関係はそうやって構築され、問題が生じても修復できるのですが、お互い顔の見えないネット上の関係というものはそうはいかんものです。そこが、いろいろと頭が痛いところではあります。
私は初めてのところにコメントを入れるときは、そこの記事だけでなく、なるだけ前のページなども読んで、できるだけその人の人柄とか考え方とかをまず理解するようにしています。
人様のところで気になるコメントを見つけたときも、リンクがあればその人のサイトまで飛んで、その人についてできるだけ理解するように務めています。
ネット上での互いの行き違いとか誤解、思い込みとかを避ける方法というのは、そのぐらいしか思いつきませんね。
そのへんの手間を惜しむと、しばしば自分の勝手な思い込みや、決めつけをしてしまうものです。身振り手振りを交えたリアルな言葉とは違って、画面に並んだ文字だけでのやりとりでは、やっぱりいろいろと難しいところはありますね。

かつさん、ありがとうございます

はい、そういうことです。言葉っていうのは受け手の解釈の余地が広すぎるんでしょうね。だから尚更精密に議論をしなきゃならんのでしょうけど、それはかなり困難。どうしても能力の問題に突き当たります。で、能力のない者は議論するな、ってことになると、これもまた違うだろうと思いますし。

要するに、そうしたことも踏まえて互いに姿が見えないもの同士、議論をしたいな、と。相手を性悪と捉えると、どこまでも性悪にしてしまえるのがこの手の議論の特徴。でもたぶん、真の姿はそうではないでしょう、と。

今回の件も、いろいろなところでいろいろとシンクロしてたんだと思います。そのすべてを把握しきれる人間はいない、と。ま、確信犯的に甘っちょろい解釈ですが。

削除したコメントを一部復活

自分の文章には責任を(コメント:布引さん)

一般論としてなら、問題ないかもしれませんが、今回は反対さして貰います。
駄目ですよ。愚樵さん。
趣味だけのブログならいざ知らず政治、経済、社会問題を扱った段階で熾烈な論争(単なる嫌がらせを含む)は覚悟して下さい。
正しい議論だから歓迎されるとは限りません。
正しい議論だからこそ、嫌がらせ(妨害)を受ける事例は世間には多く存在するし、正しい発言をいかに黙らせるかが、権力の本質ですよ。
正しい意見(主張)が自由に論じられ、みんなが偏見なく心を開いて語り合う。其れが今の日本社会だと思いますか。?
民主主義が完全に機能して、小泉や安倍や福田が首相になったとでも思っているんですか。? 
民主主義が不完全だから小泉が大勝したんですよ。
ブログでの発言で殺されることは少ないでしょうが、一般社会では戦争まで発展する問題と心得てください。
強烈な反対者の出現は良い記事を書いた証拠かもしれませんよ。
政治経済は人々の利害(金銭以外でも地位や名誉、自尊心や愛国心)に直接関係して来ます。自分の利益が失われると思った人は激しく反発するでしょう。
現在水葉さんのTomorrow is Anather Happyが閉鎖に追い込まれていますが護憲派のブログでは常にその危険を覚悟しなけれならないでしょう。
以前、水葉さんのブログに反日監視何とかの篠原静流氏が長文迷惑コメントを続けたことが有ったが、あの時は私も静流氏を批判?(おちょくる)コメントを何回か送った。
私の皮肉が効いたのか如何かは知りませんが以後は常識的な範囲のコメント内容になる。
静流氏はアイデア賞モノのブログ名を考えるだけにネットウヨとしては、其の他の毒付くだけの有象無象とは違い、知性や羞恥心を知っているようです。
相手とのコミュニケーションが本当に可能かどうか。?その判断が重要です。 
対話を求めている相手となら、賛成より反対意見の方が実り多い会話が出来るでしょう。
しかし対話ではなく言葉のあげ足取りなどの稚拙な妨害や、脅迫紛いの卑劣な精神的圧力、恫喝とかを狙ってくる相手を許すべきではないでしょう。
自分のブログにネットウヨに居座られたら、私のように年の功のいった読者はともかく、普通の読者は怖がって逃げていきますよ。

******

いろいろとアドバイス、ありがとうございます。(コメント:愚樵)

このエントリーは「自分の立ち位置」について書いただけで、皆がその立ち位置を認めてくれるものではないということは、私とて理解しているつもりです。人間であるという経験を多少積むと、悲しいかな、そうしたことは嫌でも思い知らされます。

え~、本文に出た先輩の話について若干補足しておきますと、焚き火を囲むのは、誰でもというわけではない。本当はその前に前提条件はあるわけですが、それは言わずもがなのことなので触れなかっただけ。

ネットの世界では相手の姿が見えませんから、そうした前提条件をクリアしているかどうかはすぐにはわかりません。焚き火を囲む以前の人間がいるのも間違いないでしょう。けれど、そうした一部の人間のために自分の立ち位置を変えようとは思いません。たとえそれでいろいろと辛い目に遭うようなことがあるかもしれないとしても。

実際に辛い目に遭ったときには、ひょっとしたらその立ち位置を変えるようなことにはなるかもしれない。それはわかりません。私も不完全な人間ですから。

>近近に政治と宗教を語るブログを立ち上げようかと考えています。

おお、ついに! こちらこそ、よろしくお願いします。

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