愚慫空論

『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』


楽しい映画です。



まあ、娯楽作品ですし。
 いろいろ違うよなぁ~とは思うんだけど
  目くじらを立てるのも野暮なこと。


だけど、みっつだけ言わせてもらいたい。


ひとつめ。

前半の見せ場で105年の木を伐るという場面があります。
 が、あの腰高はありえない。
伐る位置が高過ぎます。

ほぼ腰の高さで伐っていますよね。

そのあとのシーンに原木市のシーンがありました。
 伐りだした105年の木は市で競りにかけられて高値がつく。
  35万とか、36万とか。

あれ、一本の値段ではありませんから。
 立米単価です。

原木の体積は末口(細い方)の直径の二乗×長さで計算します。
仮に直径80センチで、長さが50センチとすると、
 
  0.8×0.8×0.5=0.34立米です。

で、立米単価を30万円とすると、

  0.34×30=10万2千円ナリ

腰高に高く伐るということは、
 それだけのお金を山に捨てるということです。

ありえません。

市から帰る車のなかで親方が良いことを言います。

「植えた木が育って価値が分かるまで見届ける事は出来ない馬鹿みたいな仕事だ」

人間の都合を越えた、息の長い仕事だということですよね。
 なのに、せっかくの木を腰高に伐って
  山に捨てるだなんて、ありえません。


ふたつめ。

気になったのは、伊藤英明演じる役がイヤーマフをしていたこと。

ありえないとは言わないけど、僕の感覚ではない。

映画では追い口を入れている最中に風が吹いて
 伐っている木が揺れて
  そばにいる人が肩を叩くシーンがありました。

イヤーマフなどしていると、ああいうことになる。
 風の気配に気がつかないんです。

これはとても危険なことです。
 突風など吹こうものなら、自分の想定外の方向へ倒れることがある。

そのような時は無理な力がかかりますから、どんなことが起るかわかりません。
 突然、木の幹が真っ二つに裂け上がったりする。
  そういうことは一瞬で置きますから、気がついたときには遅いことがある。
だけど、気配は察知できるし、身体が察知していれば
 すでに身体はアタマが意識するよりも先に逃げる準備をしている。

だから間に合うんです。
 なのに、大切な聴覚を封じ込めるなんてありえない。

あれは「社会の都合」なんです。
 長年のチェーンソー使用で難聴になると、労災認定がおります。
  林業業界の労災保険は大赤字ですから。
だから、難聴防止のための策が奨励される。

『WOOD JOB!』も、そうした部分では「社会の都合」に沿ってしまっています。
 聴覚を塞ぐと、生命の危険があるのに。

「社会の都合」によって身体知が抑圧される良い例です。


みっつめ。

大山祇の神の大祭があるということで開かる寄り合い。
 研修生の主人公の、祭りへの参加資格が問われるシーン。 
  これもありえません。

このような設定の下のあるのは、

 村人=杣人(そまびと)

という図式です。
 だから、一年しかいない人間(非村人)は
  杣人ではないということになるし
   そのように提示されても違和感を憶えません。

だけど、村人=杣人の図式が成立したのは戦後の話です。
 戦前は、必ずしも杣人は村人ではなかった。
長年の伝統を踏まえるはずの祭りが
 そういうカンジンカナメのところを外すはずがないんです。

山の神の祭りは、杣人の祭りです。
 だから、村の長といえど、参加資格を云々できる立場ではない。


本来の杣人の集団は、この『WOOD JOB!』で描き出されたものとは違います。
 少なくとも、僕が感じていたものとは違う。
むしろ『WOOD JOB!』より『攻殻機動隊』のほうが近い。
 STAND ALONE COMPLEXE です。

杣人は技能集団なんです。
 それも、子孫を残すという期待をかけられていない人間たちの集団。

村人とは、子孫を残す義務を負った人たちですから、そこが決定的に違う。


だから、大祭のクライマックスシーンで、
 女性器に男性器が突入するするというのも、ない。
「五穀豊穣」は、農地をベースにし、
  農地の守り手であると同時に子孫を残す義務を負う村人のテーマであって
   杣人のテーマではないんです。

もっとも、山の神をお祭りするときには男性器を掲げます。



僕が昔、撮影したものです。
 山の神の日ではなく、新しい現場に入る日にお祭りしたもの。

「山の神」には女性のイメージがあります。

大山祇の尊(おおやまずみのみこと)は男性神ですけど、
 「山の神」というと
 大山祇の尊の娘であるところの岩長姫(いわながひめ)とされます。
大山祇の尊には娘が二人いて
 もうひとりは木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。
  富士山です。

神話では、天皇家の子孫である瓊瓊杵尊(ににぎにみこと)に
 大山祇の尊は娘を二人差し出したことになっています。
  ところが岩長姫のほうはリジェクトされてしまった。

富士山は見目麗しいですが、それ以外の山はそうでもない。
 リジェクトされた岩長姫は無聊を託っているに違いない――
  だから、男性器を祀る。
そういう意味合いですから、五穀豊穣、子孫繁栄の意味合いはあまりありません。


このことは、当時の経済状況も反映しています。

林業は、現在では地場産業のイメージがあります。
 木は動かないので地場に間違いはないが、人間は動く。
  林業は、人的には地場産業ではなかった。

現代では、以下のようなイメージ。
 ある場所に大手企業が新しく工場を新設。
  雇用が生まれ、地元民も、非地元民も働くようになる。
このようにして成立した産業を、ふつうは地場産業とはいいません。

かつての林業もそれと同じです。
 大きな林業地には大きな雇用があって、他所から大勢の杣人がやってきた。
  その杣人たちは、たいてい次男、三男、です。
    長男は、地元で、農地を守り、血筋を守る義務があるから
      杣人のように死亡率の高い職業には付かなかったのが普通です。

現代的にいうなら、杣人とは、ノマドワーカーだった。
 山の神の祭りはノマドワーカーの祭りですから
  半人前の主人公にだって参加資格は初めからある。



ノマドワーカーに必要なのは、その職に適合したスキルです。
 樵ならば、樵としての身体知でしょう。
ムラを維持するためのコミュニケーション能力の優先度は低い。

が、なかにはノマドであってもコミュニケーション能力が高い個体もいます。
 そういう人材は、地元で目をかけてもらうようになり、
  なんらかの理由で後を継ぐ男子がいない家系に採用されたりした。
そうなると、杣人は村人に“昇格”するわけです。

これは、地元部落にとっては、“外部の血”と優秀な人材を確保の方法論。
 そのようにして、地元にだけで固まると停滞しがちになってしまう共同体を
  活性化したのでしょう。
が、ムラ社会が全域化してしまった現代では
 そうした「回路」もあまり機能しなくなったようです。


林業地をよく取材したはずの『WOOD JOB!』は、
 林業をテーマしにしながら、
  現代的な意味でのムラ社会を描いたものになっています。
もはや林業そのものからも、本来の精神が失われたということなのでしょう。

大衆受けを狙った娯楽作品だからこそ、大衆に響くように作品は作られます。
『WOOD JOB!』もまた、そうした作品のひとつ。
  ムラ社会に供された娯楽作品です。

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