愚慫空論

〈うた〉


「歌」。または「唄」。

声によって音楽的な音を生み出す行為のこと。
リズムや節(旋律)をつけて歌詞などを連続発声する音楽。
娯楽・芸術のひとつ。

 または、

文学における用語。
詩の一形式または韻律文芸の総称で、和歌などを指す。

 ――以上、wikipediaより。



僕がここで言いたい「歌」とは、文学における用語の意味に近いものです。
が、音律文芸というカテゴリーで括られるものはない。

言葉そのもの。
言葉そのものが、実は「歌」なのではないか。

「歌」とはうつろいゆくもの。
大和言葉の「うた」と「うつろう」は、近しい親戚でしょう。
その表記から想像できるように。




和歌です。
「うた」というものが、どのように表現されるものなのか。
関心は、音の表現の仕方です。

うつろいゆくもの。
生起し、そして消えゆくものとして表現される「うた」。

「うた」は「ことば」で構成されている。
「ことば」で「こころ」が表現されている。
「うた」は生起し、消えゆく。うつろいゆく。
では、「こころ」は? 「ことば」は?
どちらも、本来は、〈うつろいゆくもの〉ではないのでしょうか。



本のタイトルは忘れました。
養老孟司さんの本だったとは記憶しています。
たしかマンガについて語った本。

絶対音感の話が出ていました。
哺乳類において絶対音感は標準装備なのだ、と。
ヒトも赤ん坊の頃は絶対音感を持っている。
ところが成長と共に、ヒトは絶対音感を捨てる。
言葉の習得に絶対音感は障壁になるから。

言葉は聴覚が基礎です。
聴覚に、他の4感覚からの情報が統合されて言葉になる。
ヘレン・ケラーのような例外は存在しますが
 大多数の「ヒト」は、聴覚を基礎に言葉を生成させて「人間」になる。
土台となる聴覚は“丸められて”絶対音感は失われる。
(詳しい学説は知りません。間違いかもしれません。)

言葉の土台が聴覚であるなら、音であるなら
 それは、生成し、消えゆくもの。
〈うつろいゆくもの〉です。


ですが、テキストを操ることに長けてしまった僕たちにとって
 言葉が〈うつろいゆくもの〉であるという感覚は稀薄です。
テキストからは「音」が失われてしまっている。
テキストも言葉なのに
 テキストの作成・読解には基礎であったはずの聴覚は作動していません。

かく言う僕も、この文章をキーボードに打ち込むにあたって声を発していません。
聴覚はBGMが刺激をしていますが、テキストからは切り離されている。


〈うつろいゆくもの〉である音のないテキストは、もはや【とどまるもの】です。
聴覚で把握される〈ことば〉も、視覚が土台になると【言葉】になってしまう。



そもそもは〈うつろいゆくもの〉である言葉にも
 最初から【とどまる】要素は存在します。
言葉の最も原初的な使われ方は、「なまえ」です。

「なまえ」は、分断であると同時に統合です。
〈世界〉からある一部分を感覚によって切り離し
 その“部分”を感覚と再接続・統合する。
元来、異質なはずのものの統合は、【とどまる】要素を生みだしてしまう。
【とどまる】ことがなければ、再接続もありません。

ゆえに「なまえ」は同一性をもたらす。
同一性は【とどまるもの】です。

今朝目覚めた僕は、昨夜就寝した僕とは、同一の存在だと認識されます。
就寝といえどエネルギーは消費され
 体内の物質は入れ替わっているのに、それでも僕は僕です。
見方によっては別物という認識だって可能なはずだけど
 そうした可能性が顕現することはほぼありません。

さらにヒトは、【なまえ】をいくつも留め置く能力を有している。
脳内に留め置かれた【なまえ】はこれまた接合し、知識という体系を築き上げる。

膨大な量になった知識の処理は、ヒトの聴覚の判別能力では難しい。
そもそも装備していた絶対音感まで駆使すれば
 もっと複雑な処理も可能だったかもしれないけれど
  それでは言葉そのものが成り立たなくなってしまいます。

ゆえに、知識は視覚において処理されるようになります。
文字が発明され
 言葉はより【とどまるもの】となっていくと同時に、
  より複雑な処理が可能となっていく。

【とどまるもの】の複雑な処理が文明を出現たらしめたことに間違いないでしょう。




アマゾンの奥地に、ピダハンと呼ばれる少数民族がいるそうです。
彼らの話すピダハン語は
 人類の言語の常識を覆すものとして注目を浴びているらしい。

ピダハン


ピダハン語において、なにより面白いと思ったのは、
 「再帰(リカージョン)」が存在しないということ。
リカージョン(recursion)とは、言葉の入れ子構造のことです。

「私はAである」という文章をひとつの統語(syntax)として、たとえば

   「彼は「私はAである」と言っていた」
   「彼女は「彼が「私はAである」と言っていた」ことを信じる」

といったような文章を構成することができます。
リカージョンによって言語は有限なルールで無限の表現が可能となりますし
 リカージョンがない文章など考えることも不可能です。
なぜなら、表現したいと思う内容そのものが
 すでにしてリカージョンによって構成されているからです。

僕も今、この文章を書くにあたってなるべくリカージョンがないように
“平たく”書くことを心掛けていますが、
  リカージョン無くして文章を構成することは、ほぼ不可能です。


流れゆく感覚に問い合わせてみれば、リカージョンは【とどまるもの】です。

  「彼は「私はAである」と言っていた」

という一回のリカージョンがある文章を構成するに際しては、

  「私はAである」

統語を留め置いておかなければなりません。
ひとつ、あるいは複数の統語を
 息を止めるようにして、言葉が生成している〈場〉から一端、外す。
そして、「その時」が来たら呼び戻す。
呼び戻したときには、外したものが別物になってしまっていることもしばしば。

言葉が生成している〈場〉においては、
 言葉は〈ことば〉であり〈うつろいゆくもの〉です。
が、リカージョンを用い、〈ことば〉を留め置くと、
 いつしか〈ことば〉は【言葉】になってしまっています。

【言葉】をふくむ〈ことば〉は、
 どうしても【とどまるもの】としての色合いが濃くなっていく。
【とどまるもの】としての【言葉】は、もはや「うた」ではありません。


ピダハンの人たちは歌うように話すのだそうです。
口笛やハミングも区別されることなく、〈ことば〉として扱われる。
まさに〈うた〉です。

そんな彼らは、「不幸」ということを知らないのだとも言います。




僕のなかにはふたりの「私」がいます。
【言葉】をあやつる【私】と、〈ことば〉に操られる〈私〉。

ある「なまえ」を形容する言葉を探す。
複数の「なまえ」を結びつける言葉を探す。
あるいは統語を留め置き、リカージョンを構成する。
このように言葉を使役している主体は【私】です。

一方で、〈ことば〉が生起する〈場〉となっている〈私〉もあります。
五感を刺激によって、立ち上がってくる〈ことば〉。
もしくは、他者の言葉を受けて立ち上がってくる〈ことば〉。
これらの〈ことば〉は、同じ言葉ではあっても、
 【私】という主体が探り当ててくる【言葉】とは違います。

〈ことば〉とは、〈ことば〉の方から名乗りを上げてくるものです。
【言葉】の操作が、随意筋を意思に沿って動かすことであるとすると
 〈ことば〉の名乗りは、心臓が意思とは関係なく鼓動を刻むようなもの。

心臓の鼓動によって生かされている身体。
頭脳の命令に沿って動く身体。
どちらも同じ身体でありながら、その在りようが異なるように
 〈ことば〉と【言葉】は、同じ言葉でありながら在りようが異なります。

同様に、〈わたし〉と【私】も同じ「私」でありながら、在りようが異なる。


言葉は元来、〈うつりゆくもの〉です。
それが、リカージョンが生まれ
 文字が発明され
  印刷技術が発達し
   出版資本が生まれて「国語」が生まれ
IT技術の発達でテキストがどんどん【とどまるもの】になっていきました。

僕が今、打ち込んでいる言葉も
 どこにあるのかもしれないサーバ内の微少なトランジスタに
  電位の差として記録され
容易に検索可能な【とどまるもの】となるでしょう。

ですが、言葉は
 生まれるその瞬間は〈ことば〉であるということは変わりません。


人間も同様です。

ヒトは〈うつろいゆくもの〉として生まれ、死んでいきます。
ところが「なまえ」を与えられ
 膨大な「なまえ 」を記憶に蓄積し
 「なまえ」を体系化して知識と為して留め置くうちに
いつしか自己を【とどまるもの】として認識し始める。

が、いくら認識しようとも、人間は〈うつろいゆく〉ヒトであることは変わらない。
環境がどれほど【とどまるもの】に取り囲まれようとも、
 ヒト自身が〈うつろいゆくもの〉であることは変わりようがありません。


ヒトをして人間と為し、【とどまるもの】と為すのは言葉です。
ですが、その言葉もまた、元は〈ことば〉です。
言葉には【とどまる】要素があり、その要素は文明の発達と共に増大した。
これは事実ですし、その事実をよしとしてきたことも事実です。
が、これから先もよしとしてよいのかどうかは疑問です。


【とどまるもの】は同一性を生みだします。
ヒトは環境適応性抜群の生き物で
 なおかつ環境か改変能力も群を抜いていますから
  自身で環境を変え
   変えた環境に自身が適応してさらに環境を変え――
という負のフィードバックを生みだしやすい。
そうしたフィードバックのもとに
 ヒトはどんどん【とどまる】人間になってしまいました。


【とどまるもの】に生みだされた同一性は、「所有感」も生み出します。
元来〈うつろいゆくもの〉である人は
 【とどまるもの】と認識してしまうことで不安を生みだしてしまう。
不安を隠蔽するために【とどまるもの】を紐付けし確固たるものにしようとする。
その営みのひとつが【所有】です。

同じ作動は言葉にも働きます。

【私】によって操作された【言葉】は、【私】に紐付けされたもの。
【私】に紐付けされ【所有】された【言葉】は、もはや自我。
【言葉】による表現とは、自我の拡張行為です。
そうした【言葉】は、犯されたと感じると隠蔽してたはずの不安が顔を出す。

〈ことば〉は、【私】によって操作される以前のものです。
先に記したように、ピダハンの人たちのように
 リカージョンのない言葉を生成することは僕たちにはほぼ不可能。
だから、表出された言葉は、どうしても【言葉】になってしまう。
それは仕方がないことです。

ですが、【言葉】を【所有】から断ち切ることはできます。
【言葉】も、もとは〈ことば〉であったこと。
僕たちが人間になる過程で
〈ことば〉を【言葉】に変換する技術を習得しなければならなかったこと。

技術の習得は可能性を広げることです。
可能性を広げることは、よしとすべきであることは言うまでもないでしょう。

ですが、よしとすることで、見失うものがあることを見失うのは残念なことです。
言葉は僕たちの中で、日々、〈ことば〉として生まれています。
そして、〈ことば〉は、誰のものでもない。


それはそうでしょう。
〈ことば〉は【私】が操作できないものです。
しかし、表現のためにはどうしても操作は必要。
なので、致し方なく〈ことば〉は【言葉】になってしまう。
だけど、伝えたいのは操作後の【言葉】ではなく、操作前の〈ことば〉です。
操作前の〈ことば〉は、【私】による【所有】の前のものです。

自ら操作できない〈ことば〉は
 どのように操作をしたとしても
  どのように受けとめられるかは不明です。
また【私】の【所有】でない〈ことば〉を伝えようと欲するのであるなら、
 〈ことば〉がどのように受けとめられようとも【私】には関係のないことです。

繰り返しますが、僕たちは言葉を【言葉】として表現することしかできません。
ですが、伝えたいものが〈ことば〉だと自覚があれば
 【私】を言葉から切り離すことは可能です。
〈ことば〉への自覚が【私】の輪郭を浮き上がらせ
 【私】と【言葉】の切断する〈意志〉を生みます。

そして〈意志〉は、〈ことば〉を待ち受けようとする〈構え〉に繋がっていく。
この〈構え〉を保つことは〈生きる〉ことに他ならないと僕は思います。
〈ことば〉に流されながら、流されていることを自覚し、愉しむ。
その愉しみがわかれば
 〈ことば〉を【言葉】に変換することなど「方便」に過ぎません。



ですが、そうはいっても、表現は〈うた〉でありたいと思う気持ちはあります。

〈世界〉を感じたままの〈ことば〉で語りたい。
が、〈世界〉は有限な〈ことば〉で語るには複雑すぎる。
だから、リカージョンはどうしても必要だし、【言葉】のアーカイブも必要になる。

それであっても、紡ぎ出す表現は〈うた〉でありたいと願います。
見果てぬ夢だと思い
 これはでは妥協を重ねてきましたが「つまらないこと」です。
たとえ「できないこと」であろうとも
 「大切なこと」を追いかけていくのが〈生きる〉ということでしょう。



追記。


〈ことば〉の総体は〈トーラス〉だと僕は思います。



もっとも、上のGIF動画は、言葉の極点である貨幣による運動
 すなわち「経済」をイメージしたものです。
僕は〈トーラス〉を動的な運動を含めて言っていますが、本来は違います。
ドーナツなどは、本来的な意味で「トーラス」です。



言語、ことに日本語は、極点のないドーナツ型の〈トーラス〉だと思います。
極点が中空になった〈トーラス〉。
もちろん動的な〈トーラス〉です。

動的な〈トーラス〉という意味で
 言葉によるコミュニケーションと貨幣による経済は、相似形です。
動的な〈トーラス〉のはずが【とどまるもの】の作用で
 【ブラックホール】になってしまうことも含めて。


動的で〈うつろいゆくもの〉である〈ことば〉は
 人間が人間である以上、どうしようもなく【言葉】になります。
【言葉】は不安を生みだしてしまいますが
  その不安は【言葉】を食い合うことで鎮められていく。



不安が鎮まれば、【言葉】は〈ことば〉に戻ります。
〈トーラス〉の中へ帰って行きます。
経済も同じです。

【言葉】とは、ナウシカの物語に描かれた粘菌のようなものだと思います。
そして、その典型が【貨幣】。
すべてを食い尽くして荒野にしてしまう。
金融資本主義経済が、まさにそれです。


【言葉】にもてあそばれるのも【私】。
【貨幣】にもてあそばされるのも【私】。
同じ【私】です。


【貨幣】については、また改めて語りたいと思います。

コメント

歌(和歌)もどきが、面白くなっているワタシには、興味深いエントリーです。
昔読んだかもしれない、加藤周一の「科学と文学」?、という論考を思い出してしまいました。うつろってしまい内容はあまり覚えてないのですが、、、^^;
イメージとして、科学が【言葉】【とどまるもの】単純、、、文学(同論考では「叙情詩:」だったような覚えですが)が〈うつろう〉複雑なもの、、、
「星の王子さま」では、王子が〈ことば〉、大人になってしまった人々が【言葉】、、、
私のイメージでは、裡なるヤツが〈ことば〉、【ワタシ】が【言葉】かな?
なんとなく「イメージ」で捉えたくなります。
私には「イメージ」は「うつろう」という感じだからかもしれません。

歌(和歌)もどきの場合は、写真から思い出して、、、もしくはシャッターを押したときの五感からイメージを残してあとで「ことば」にする感じです。
なので「ことば」を綴るときは実際の「音」「触感」「匂い」はしません。
記憶、、、イメージの再現?になります。
(声もだしません、、、www)
再現するにあたり和歌(もどき)の場合は、【ワタシ】を経由したものは、イメージが伝わりにくいだろうなぁ、とエントリーを読みながら思いました。

ああ、「イメージが伝わりにくいだろうなぁ」、が面白いのかもしれない。

加藤周一は読んだことがない、いえ、一度、読みかけたことはありましたが、何が言いたいのかわからなくて、放り出してしまいました。

が、ここで名前がでてくるのは機縁でしょうね。読んでみようかな。『科学と文学』ですか...


>イメージの再現

僕なら「再創造」と言いたいところです。

忠実に再現などできるはずはありませんから、創造するしかありません。
が、あくまでも、もとはイメージ。だから再創造。

また、「イメージ」には“〈 〉”をつけて、〈イメージ〉と言いたい。
あくまで僕は、ですが。

〈イメージ〉は複雑でつかみどころがないけれど、〈わたし〉のなかでは生きていて、同じようでいて、揺れ動いているから〈うつろいゆくもの〉。

そして〈イメージ〉は、別の言い方をすれば〈霊〉です。
〈わたし〉の中で生きている〈いのち〉の〈イメージ〉。

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