愚慫空論

『東京家族』と『東京物語』




良い映画だと思いました。
一口に「良い映画」という以上に、良い映画。

この作品が小津安二郎監督の『東京物語』のオマージュであることは言わずもがな。
オマージュに留まらない作品であることも、また然り。
山田洋次監督は、もう十分に、小津安二郎監督に匹敵すると思いました。
(と言えるほど、小津作品を見ているわけではないのですけど... σ(^^;)

リアリティという観点から見れば、『東京家族』です。
現代が舞台ということももちろんあるんだけど、それは結果論。

〈時間〉なんです。
東京に暮らす人たちと、上京してきた老夫婦とでは〈時間〉が違う。
その人それぞれに流れている主観的な〈時間〉。

『東京物語』の方も、〈時間〉の差違はよく描かれていると思います。
小津監督がなぜあの映画を「東京物語」としたのかという理由を考えたとき、東京で暮らす者と地方で暮らす者の〈時間〉の差違を描きたかったのだろうと考えると、納得がいきます。当時でも東京は、〈時間〉の流れが際立って速かったのでしょう。

上京してきた老夫婦を邪険に扱うことになってしまったのは、東京の「時間」に適応して〈時間〉が速くなってしまったがゆえ。"Time is Money"となった東京は、Moneyの流れの増大に伴って「時間」が速くなり、そこに暮らす者は、どうしても己の〈時間〉を速くしていていかないと適応できません。

「東京の時間」に適応した身体と、そうでない身体。そうでない身体が、家族であっても東京から追いやられて「宿無し」になってしまう。この構図は『物語』も『家族』もまったく同じだと思います。

『東京家族』は現代作品であるがゆえに、現代人たる僕には〈時間〉がよりリアルに感じられる。ただそれだけのことだろうと思います。


いえ、「ただそれだけ」は違うかもしれません。
山田監督の方は、〈時間〉の差違にもっと意識的なのかもしれない。

そう感じたのは、父親役の橋爪功が友人と飲んだくれるシーンです。
このシーンの描き方は『東京物語』よりも、一歩踏み込んでいると感じられました。
時代に取り残されてしまって(現代的な意味合いで)残念な人なってしまった老人という、これまた現代的にリアルな描写もさることながら、橋爪功に何度も「このままではいかん」と言わせているところ。このセリフは、僕は山田監督のメッセージではないかと思いました。

ダメ押しは、母親が亡くなった後、末の息子と婚約者が東京へ帰る場面で、同じ橋爪功が「東京者は忙しいからな」といったところ。ここを見て、山田監督は、『物語』との時代の差違を伝えたいのかもしれないと思った。

もっとも、『物語』の方は記憶が曖昧なので、笠智衆も同じようなセリフを言っていたかもしれません。だとしたら、「時代の差違の強調」は僕の思い込みに過ぎないことになりますが、「ただそれだけ」は違うことの証拠(?)は他にもあります。

そこは、上記のような微妙なところではなく、物語構成上の違いとなって現われている。

2つあります。

ひとつめ。

『物語』では原節子が演じていた役回りは『家族』では蒼井優になっていて、同じ役回りではない。『物語』では戦死した次男の嫁だったのが、『家族』では末息子の婚約者になっています。

この違いは非常に重要です。『物語』において老夫婦と原節子役は既知の間柄であったのに対し、『家族』では物語中に知り合う関係。この関係性の違いは、物語そのものの「時代」に対する志向性の違いとなって出てきています。すなわち、前者は過去志向、後者は未来志向です。

また、構成の違いは役回りの違いになる。『物語』にあった原節子の見せ所の「説教」の場面が『東京家族』にはありません。

「説教」の場面とは、いち早く母親の遺品を確保しようとする長女の振る舞いに、末娘が原節子に向かって愚痴を言う。母親が死んだばかりなのに節操がない、儒教ふうにいうならば「孝」が足りないと言う。それに対して原節子は「親子の間柄は、それで自然」だと言い聞かせる、というところ。ここがすっぽり抜け落ちている。『家族』にも長女が遺品を確保しようとする場面はありますが、それは単に『物語』を引き継いだだけのもので終わっていて、『家族』のメインストーリーとは無関係なものになってしまっています。

この変更が意味するところは、やはり志向性の差です。

『物語』の「時代」においては、「東京の時間」こそが主調であり、老夫婦の〈時間〉は、もはや過去のもの。原節子の言は、「子が親を捨てるのは自然」と言いつつ、同時にそれは「時代の流れ」だということも示唆していました。つまり、老夫婦は「過去」だということであり、一人残された笠智衆は、その地方(尾道)の暮らしのなかに埋没していくということです。


このことは、ふたつめの違いにも表われています。

『物語』では、冒頭のシーンは東京に出発前の老夫婦の尾道の家でした。そこに近所のお婆さんが通りがかる。このお婆さんは「過去」の象徴であり、物語の最後の締めにも登場します。

対して『家族』では、お婆さんの役は女子中学生に変わっています。そして、犬の世話をするということで老夫婦のセリフとしては冒頭で登場しますが、姿は終盤にならないと登場しない。

『家族』において、蒼井優が担った役割は「未来」です。そして、女子中学生もまた「未来」。『家族』には、『物語』にあった「過去」を強調することで肯定した「東京主調」に変わって、地方――それも尾道より後退した離島――の暮らしにおいて「未来」を提示するという展開がある。

『物語』の「過去」を象徴するお婆さんによる締めに変わって、『家族』では女子中学生が犬をイキイキと散歩に連れ出すシーンになっています。

そして橋爪功もまた、「過去」の人間として、「未来」を肯定するセリフを言います。時代に合わないと見なしていた末息子が、実は死んだ妻の優しさを引き継いだ者であること。そして、その息子を婚約者に、丁寧に託す。男性の「時代」を「過去」のものとし、女性の「時代」に「未来」を託す。

決定的なのは橋爪功が妻の遺品として蒼井優に贈った品物です。それが何であるかはここでは伏せます。『東京家族』をすでに観た人は知っているでしょうし、もし、僕のこの文章を見てから『東京家族』を観ようと思う人がいるなら、せめてそれが何であるかを自分の目で確認してもらいたいと思うから。


僕たち男は、橋爪功がしたように、畳に手をついて丁寧に「未来」を女性に託すべき――これが『東京家族』において山田洋次監督が伝えたいメッセージなのかもしれません。




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