愚慫空論

ベートーヴェン 『第九』


やっとこの文章を書くことが出来る機会が巡ってきました。

この文章は、もう、何年も前から書きたいと思っていたんです。
が、なんとなく書きそびれていました。
『第九』だから、タイミングは年末かな~とか、いつも思っていたんですけど、なぜか、タイミングにならなかった。

それもこれも、今、思うと、ここが書くべきタイミングだから、ということになります。
根拠のない、たわいもない話ですが。


『第九』のことを文章に書く。そう思うと、思い出されるのはやはり、吉田秀和さんの『私の好きな曲』。


画像のリンクを貼ろうと思って検索してみたら、現在は、ちくまから独立した本になって出ているんですね。僕が愛読してた頃は、新潮文庫だったはずだけど。

新潮文庫版が廃版になって、ちくまの全集に収録されていたのは知っていましたけど、全集のその刊だけ買うのもなんだかな~と思って手を出しそびれていた。が、独立して本になったなら、改めて買おうかしら。


というようなことは、さておき、思い出すのは、吉田さんが、第九のティンパニ奏者をやってみたいと書いていたことです。『第九』はことのほかティンパニが活躍する曲で、NHKホールの、N響のティンパニの誰々が気持ちよさそうとか、そんなようなことをイントロダクションで書き綴っていた――とても印象に残っています。

で、思ったのは、僕だったら、何処だろう?――と。
音楽が好きなくせに、楽器は、小中学校の頃のリコーダーを除いたらほとんど触ったこともなくて――エア指揮はよくやっていましたがσ(^_^;)――、そんな伎倆が何にもない人間が、「ここだけなら」ということでオーケストラに参加させてもらうことを許されるとして、その「ここだけ」はどこになるだろうか。この一音、二音ならいいよ、ということで許してもらうことができたら、どこを選ぶか――。

そんなことをずっと考えていたんです。「考える」といっても、保留状態ですけど。

で、あるとき答えがでた。「ここ。ここをやりたい。これだけやれたら幸せ。やれたらと思うだけで幸せ」というところが見つかった。その「幸せ」を書いてみたいとずっと思っていたわけなんです。

今、その「幸せ」を味わっています(^o^)





其処は、第三楽章の中間部。中間部の、弦のピッチカート。♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ と何度か、出る。これをやりたい。
上の動画だと39分過ぎから、1分ほどの間。

第三楽章は優しい音楽です。楽園の音楽。「ABABCABD」という形で構成されていて、中間部は「C」に当たります。「A」のメロディーも「B」も、優しさがそのまま表われた音楽。が、「C」のそれは、優しいというより間抜け。聴き始めて間もない頃は、その間抜けさの意味がわからず、なんなんだこれは...と呆れながら聴いていました。速くこの無意味な時間が過ぎればいいのに、とか思いながら。

けれど、その意味に気がつくときが来る。その間抜けさは、愛すべきものなんです。ホルンの間抜けなメロディは、そう、昼寝をしている男の鼾みたいなもの。スヤスヤではない、グーガー(笑)。グーガーと、何の警戒もなく委ねた心身を優しく撫でるそよ風が、♪ポンポン♪ 。♪ポンポン♪ だけど、撫でているんです。

そういうイメージが立ち上がったとき、ああ、僕がやりたいのはここ! だと思いました。それ以来、『第九』で僕がいちばん好きな場所は、♪ポンポン♪ あるいは ♪ポンポンポン♪ (^_^;) ここで音楽が終わりになるなら、それが最上。


だけど、世界は残酷です。そこでは終わらせてくれない。いやでも「経過」して行ってしまう。ならば、「経過」を受け入れて進むしかありません。

第三楽章は、この上なく優しい音楽であると同時に、この上なく悲しい音楽でもあります。「経過」を受け入れることの決意表明の音楽でもあるから。「D」がその部分に当たります。上の動画だと、43分50秒あたりから。惜別のファンファーレがそれ。

惜別のファンファーレは、二度、表われます。なぜ、二度なのか。一度では断ち切れないから。一度だけでは未練が残る。その未練をダメ押しして断ち切るために、もう一度ファンファーレを吹き鳴らす。この二度目の音の痛いこと。その後の余韻の虚しいこと。

こんな音楽が立ち現れるのは、【怨】があるからです。〈世界〉をデタラメに引き裂く【怨】があるから。中間部の間抜けな音は【怨】のない世界。だけど、現実には【怨】はあって、それは「経過」させていかなければならない。そうしないと〈生きる〉ことができないし、「経過」させていくのであれば、引き裂かれていることを、まず、受け入れなければならない。

その決意があって、第四楽章の「怒濤」が始まる。あれは、世界を再生させていくときの「痛み」です。第三楽章の惜別が切断の「痛み」なら、第四楽章のそれは接続の「痛み」。ふたつの「痛み」を「経過」させて始めて、地の底から「喜びの歌」が出てくる。

地の底から出てきた「喜びの歌」が地上に芽を出し、ぐんぐんと伸び育っていくシーンは、『第九』のもっとも輝かしいところです。やがてその「歌」は人間の「声」を迎え入れる。「声」はまた「祈り」となって「歌」と融合する。
そして融合のあとに、「人間の歌声」が純粋な「祈り」として出る。引き裂かれた〈世界〉の再統合への「意志」として。「純粋意志」が表われたら、あとは「昇天」あるのみ。

『第九』のこの「高さ」は、敬服すべきものです。
だけど、だけど、もし、♪ポンポン♪ で留まっておくことが許されるのなら、僕はそっちの方がいい。そっちの方がいいけど、〈いのち〉がそんなふうに出来ていないのは、もう、どうしようもない真実です。


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