愚慫空論

『年収90万円で東京ハッピーライフ』


よかったです、この本。


不器用さを逆手にとって、うまく生きてるなぁ~、と。
「ひきこもり」の進化形というか。しっかり自立した「ひきこもり」。

年収90万でも、自分に必要な分だけは稼いでいるわけだから、「ひきこもり」ではない。
だけど、その額は、「ひきこもり」のための必要経費という感じ。

「ひきこもり」のために、最小限、社会と交わるという矛盾を主体的に〈生きる〉。
その具体的な形が、週休5日の年収90万。

自身にとって「楽しいこと」「やりたいこと」「大切なこと」「できること」を、客観的な選択肢から選択したわけではなく、主体的に「ここ!」という感じでピックアップしたという感じの〈ひきこもり〉。

とても良い感じです。


主体的な〈ひきこもり〉は、強いられた【ひきこもり】とは、当然、一味違います。

目次の抜き書きしてみると

第一章 ハッピーライフの基本とは
わたしの暮らし
実感を大切にすること

第二章 フツーって、何?
進学とか就職って、しないと生きていけないんでしょうか?
将来やりたいこと、マジないんですけど
友達って必要?
他人と比べられてツライとき
いじめられて死にたいとき
自分の見た目が好きになれない
LGBTのこと
意味不明なルール
人間はみな平等のはずですよね?
隠居はベストな生き方でしょうか
個性って、何?

第三章 衣食住を実感するくらし
1 「食」で、ひとはつくられる
何を食べればいいのか
粗食をしたらこう変わりました
MY粗食マニュアル
1週間の献立
自分に合う食生活を見つける
キッチンと、その周辺
食材をどこで買うか問題
紅茶とスコーン
野草狩りもまた楽し

2 「衣」を、生活から考える
服装がしっくりくるのは20代から
隠居のワードローブ大公開

3 「住」は、恋人のようなもの
今のアパートにたどり着くまで
部屋の選び方、付き合い方

第四章 毎日のハッピー思考術
心と体のチューニング
お金とうまくやっていくために
働く、ということ
貯金について
低所得者にとっての税
夢や目標はないとダメなのか
平和=退屈ではない
将来について
生きること、死ぬこと


こういう感じ。

啓蒙的な臭いは皆無で、主に著者大原扁理さんが「自分自身のためにやっていること」を列挙したという感じなんだけど、なのに、結構ヤバい(笑)。哲学的な小見出しもあるけど、「かくあるべし!」なんてのは、全くなし。「僕はこうだよ」と言っているだけ。

それは結局、僕の言葉で言うと、「時間が流れている」から。
「変化」しているから。
〈いのち〉の本質。
著者の個性に合った〈変化〉。
その結果としての〈ひきこもり〉。
そして、具体的な衣食住の在り方がある。

そうした具体的記述を読んでいると、流れているな~と感じます。
これが結構、ヤバイ。


さらにヤバイのは、ちゃんと流れていないところがあるということへの自覚もあるところ。
著者は、学校ではかなりひどいイジメに遭っていたらしい。淡々と書かれてはいるけれど、そうとうに酷い目にあったらしいことは察せられます。そして、そのダメージを受けた部分は、動いていない。変化していない。

ヤバイと思うのは、動かない部分を動かそうと思っていないところ。
僕なんかだと、どうしても動かしたい、どうにかしたいと思ってしまうけど、大原さんにはそんな「欲」はない。そこは動かなくても、ここは動くんだから、動くところを大切にしようよ、というスタンス。

ちょっと敬服します。
僕はそんなふうには生きたくないけど、それはそれ。


若干、ツッコミを入れると、こういう男性♂を、女性♀はヤバイとは思わないだろうな、ということ。
良い悪いの話ではありませんよ、念のため。
そんなふうに、悪く言えば小さくまとまった〈生きる〉は、個体としての〈生きる〉には合致しているけど、種としての〈生きる〉というところには背を向けていると思わざるを得ない。
モテるなんてことは、考えていない。

この種のことは、考えないようにしようと思えばできるかというと、そういう類いのものではないんですね。「裡なる欲求」だから。「欲求」には従うのが自然であって、抑圧すると歪む。その点、大原さんはその「欲求」は薄いんでしょうね。

もし、それなりに「欲求」があったとしたら、動かさないでいられる部分も、動かさざるを得なくなる。といったって、簡単には動かないだろうから、もしかしたら映画『きみはいい子』で抉られていたような場面が生まれるかもしれない。が、「欲求」がなければ、エネルギーがないなら、そういうこともそもそも生まれない。

重ねて言うけど、これは良い悪いのはなしではありません。「そういうもの」だという話。そして、自分をしっかり「そういうもの」として受けとめている。そこがヤバイ。


話を広げると、これは時代ということもあると考えます。
他種との生存競争が前提の世界では、モテたいと思う「欲求」のない個体は、どうしても競争力が低い。その競争力の低さが、種全体とまでは行かなくても、その個体が所属する共同体全体の生存力を低下させてしまうことになるので、社会から忌避されてしまう要素が出てくるのは否めない。

ところが、現在の人類は、他種との生存競争というレイヤにおいては、圧倒的に優位に立ってしまっています。つまり、その部分での競争力は、もはや考慮しなくていい状態になっている。むしろ、優位が環境の有限性をぶち当たって、人類のみならず、生態系全体の維持を脅かすという事態にまでなっています。

そう考えると、欲求が薄い個体というのは、かえって種の生存に貢献する個体ということにもなる。そうした個体が増えて、「欲求は強くあるべし」という過去の社会的刷り込みがなくなっていけば、過剰に優位に傾いてしまっているバランスを、内側から調整できるようになっていく。というか、そういう「調整」はすでに「種の意志」――なんてものがあるのかどうかは知りませんが――によって始まっていて、過去を引きずった社会心理が足を引っ張っている状態ではないかと思っていたりもする。

「足を引っ張っている」ものの典型は、「経済成長しなければならない」という強迫観念でしょう。そうした【呪縛】【呪い】を自覚していない者は、「年収90万? それでは経済成長しないではないか!」と息巻きそう。そうやって息巻いて、実は、時代のフロントランナーであるかもしれない著者を社会的に潰していこうとする――、自他が認める時代のフロントランナーである堀江貴文さんが本書に共感を寄せていたりしますから、そういう「時代」は、もはや過去のものになっている感はあります。


大仰な話はさておき、本書は深刻なところもするっと楽しんで読めて、それでいて考えさせられる好著だと思います。お薦めです。

コメント

パン

愚慫さんここでのアフィリエイトでどのくらいもらってます?

先日『誰が星の王子さまを殺したのか』(安冨歩)をポチった時に、ああしまった愚慫さんのとこから来るべきだった、

みたいなことを考えたので。

附言

毎度おなじみだけど、

上のわたしのコメント、愚慫さんがつらいなあと感じたらいつでも消してくださいね。

その自由は最初から愚慫さんの手にあるということですので。
(ここが自分の庭だと仰る愚慫さんには)



アフィリなんて、興味ないなぁ~
そういうの貼ったら、見てわかるんじゃないのかな?
興味ないから、よく知りませんけど。

広告が出るのもいやなので、有料のブログです。これは。
もちろん、僕の負担。

>どのくらいもらってます?

ごんさんだねぇ (^_^;)

復活コメと返答

・ごんさんのコメント

コメントタイトル:老醜

>ああしまった愚慫さんのとこから来るべきだった、

こっちの方もご紹介くださいな(^^)


・愚慫からの返答

何の紹介か意味がわかりません。

とはいえ、わからない意味にもはや興味がない。
だから、このコメ自体を削除しましたが、
他所さまに迷惑をかけるようなので、こちらで引き受けます。

で、返答です。

リアルでお目にかかる機会があれば、わからない意味も含め、対話をしましょう。

愚慫さん、おはようございます。

とりあえず、静寂のなかコメントできそうでホッとしております^^
弊ブログでMさんが活躍していたときも、他コメンテーターにこのような感覚を与えていたのか、と、いまさら反省しております。
(やりとりは非常に気持ち悪かったですが、ワタシ自身に被害意識はまるでありませんので心配無用です、気になさらずに。それとやはりアキラさんとこで書くことではありませんよ。笑)

コメントは遅れましたが、このエントリーはもしや私の状況を察知したものではないか?(少し匂わせたし)、と考えるほどのタイミングです。(自意識過剰かもしれませんが、笑)。この本は未読ですので内容に言及することはできませんが、読んでみたいと感じさせます。

で、未読のいま感じていることは内容ではなく、本のこと。
エントリーを読む限り、〈ひきこもり〉であり、とくに何をしたいという感じはなく、生物的欲求もひくそうな彼であっても、「伝達の欲求」(もしくは存在。自意識の主張)はあるんだなぁ、ということえを考えました。しかもブログやコメ欄ww、2chwwwではなく、さらにハードルの高い出版というかたちでおこなっています。
なんとなく主体的〈ひきこもり〉と(未読故かもしれませんが)似つかわしくないように思えてこんな感じをもちました。
この「伝達の欲求」は、生物的な欲求を超えた非常に人間的な行為で、実は、「人間の本質」ではないか、とさえ感じます。

たとえば、意味不明な不毛としか見えない伝達であっても、やめられない欲求は【ワタシ】のなせるわざか、もしや裡なるヤツの欲求なのか、と、ふと考えてしまいます。なんとなく裡なるヤツのような気がしていますが、、。

出版によって収入が90万以上になっても彼の主体的〈生きる〉は変わらないのでしょうね^^

毒多さん、こんばんは。

まず、お詫び。
アキラさんのところでお名前を出してしまった件は、申し訳ありません。


さて、この著作についてですが、どうやら二冊目の著作らしいです。一作目は、『20代で隠居』という本らしいですが、それを見ればハードルの高い出版に至った経緯は書かれているのかもしれません。

「伝達の欲求」は自己表現欲求と言い換えることが出来るのかもしれませんが、もし、その言い換えが毒多さんのいう「伝達の欲求」と同じであるなら、僕は、人間に限らない生命のそのものの欲求であるように思います。

ご存知のように、僕は少しの間、馬たちと一緒に樵をしていたことがあります。人間が伐倒した木を馬に曳かせて運び出すという作業。そのときによく疑問に思っていたのは、「この馬たちは、なぜこんな辛いをしてくれるのだろう?」ということ。

人間のために辛いことをしてくれるのは馬だけではありません。いささか古くなりますが『動物のお医者さん』というマンガがありまして、あそこには、例えば橇を曳く犬たちが登場してきます。もちろん、人間によって「調教」されるから橇を曳いたり、あるいは原木を曳いてくれたりするのですけれども、それは決して強いられたものではない。彼らはその仕事を覚えると、イキイキとこなしてくれる。これは一体、何なのだろうとよく疑問に思っていました。

人間のためにというのが、思い上がりなんですね。彼らは彼らのために、その作業をやっている。原木を曳き出すのも橇を曳くのも、どちらも彼らにとっての自己表現であり、そういう欲求を彼らは持っている。

そう思って〈世界〉を眺めてみると、自己表現欲求を持っているのは、高等な生き物だけではないということがわかってきます。「人間」という思い上がりを排して〈いのち〉を眺めてみれば、誰も渠もが自己表現欲求を持っている。昆虫も、草花も、すべて。

自己表現欲求は、意志を伴って、外へむかって「かたち」として表われます。そのことを、僕は、特に“《 》”をつけて《魂》と呼ぶことにしています。

そちらのコメント欄でcallibreさんが「オノレを低くして」と言っていたのはそういうことかなと思いますし、それを「愛でる」というのであれば、僕の表現なら《たましい》を感知することになる。ここには「選択」などありえません。

毒多さんの写真にも《たましい》は写り込んでいると感じます。


ただ、「人間」は厄介です。一筋縄ではいかない。「ヒト」は社会的な生き物ですから《たましい》の表現はそのまま社会構成メンバーに対する承認欲求になります。赤ん坊の「表現」は、まさにそれ。その上さらに、「ヒト」は自我を形成して「人間」になる。「人間」になると損得勘定が出てきます。

そうなると「愛でる」ということでさえも、損得勘定の中に呑み込まれてしまうということが起きる。いえ、「愛でる」ことそのものは美しい。が、その美しいことの表現が醜悪なものを隠蔽するために使われるようになる。表現に目的が生まれる。そうすると「愛でる」こともまた選択されてしまう対象になる。対象を選択する主体が【自我】であり【アイデンティティ】です。


「伝達」といっても、いろいろあると思います。内省が伝達の形をとることもあれば、攻撃的な伝達もある。いずれにせよエネルギーの放出には違いありませんから、自己表現欲求でしょう。エネルギーの放出源を「裡」と見るなら、自己表現欲求もまた「裡なる欲求」のなかのひとつのかたち。

ただ、そのエネルギーを何のために使うかが問題です。【ワタシ】のために使っているのか。そうでないのか。そうでないのなら、そのエネルギー放出は、共同体感覚に基づくものではないかと僕は考えます。

この共同体感覚は、役に立つ断たないといった視点に立つとおかしなものになる。何の目的もない、強いていえばエネルギーを発したい〈私〉自身のための表現。そういう欲求を抱える〈私〉は、同様の欲求を抱え《たましい》を顕わしている他の〈いのち〉と同列であるという感覚ですね。

どのような表現であれ、出所は裡なるヤツに違いありません。その表現が一見不毛に見えてなんの目的もないのなら、【ワタシ】とは無関係なものだということでしょう。

愚慫さん

相変わらず「私にとっては」淀みのないテキストで気分がよくなります。とってもいい感じです。

ところで最近私は〈たましい〉を感じる写真が撮れていません。何百枚も撮っていますが全然ダメです。
もちろん「虫を触る」こともできません。
calibireさんの「愛でる」にみなさん感心されていますが、例えとしての「下から愛でて虫を触る」なんていかにも感心されるか解りませんが、それは現実には至難の技ですよ。はっきりいって無理。
虫歴数十年の私がいうのだから間違いない。
まあ、トンボにたかられたり、蝶にたかられることはあるのですが、多くはたかられている意識がないときです。つまり愛でているという意識もなく、空気と同化しているとき。感心がないとき。
では〈たましい〉を感じる写真が撮れたときは愛でることができていたか、というと、そうでもない。
ひたすら息を殺し「意識的」に空気と同化し、感心がないように装っている、笑。
まあ、ワタシがなっていないから「愛でる」ができない、という指摘は甘んじて受けるしかありません。おそらく「愛でる」は意識ではないでしょう。ああ、いま、愛でてる、と意識したとたんに、愛でるではなくなる、、気がしています。
ワタシの言葉では、「出会った喜び」「喜びを感じる」が近い気もしますが、なんとなく「愛でる」とはちょっと違うのかもしれません。

で、なんとなく感じている〈たましい〉を感じる写真が取れない理由。「出会った喜び」素直に感じられない。雑念がある。
【システム】に揺らがされている。写真の場以外にイラツキがある。
【ワタシ】に引っ張られている。やはり、このあたりが構造があり、課題だなぁ、というのはリアル感じています。
このテキストからリアルに移っていく感じは悪くはありませんが^^

レスにあたって、動画を紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=57kR6RsV2iA

見所は1分30秒すきから。
こんなことが出来てしまう人が居るんですね。
動画の人物は、グレン・グールドといって、有名なピアニストです。
あるときからライブを拒否して、スタジオに〈ひきこも〉って、録音に専念するようになってしまう。

こういう動画を見ると、なぜライブ(すなわち人間)を拒否したのかがなんとなくわかるような気がします。人間がどうしても持つ「雑念」に耐えられなかったのではないか、と。


>それは現実には至難の技ですよ。はっきりいって無理。

あはは、それはcalibreさんの「言葉の魔術」に引っかかってしまいましたね。

あんなふうにコメントがあり、さらに評価があると、それは自分には「できないこと」だとはわかっていても、なんだか悔しいような感じを抱いてしまいますよね。

僕も同じような「言葉の魔術」をアキラさんから受けています。例の「そのものを そのままに 受けとめる」というやつ。それができないのは、「もったいない」とコメントしました。

念を押す必要もないと思いますが、お二人を批判したいわけではない。それに、彼らは「魔術をかける」なんて意識は毛頭なかったはず。ただ、そう感じたことをそのまま述べただけです。

だけど、そうであっても、言葉は魔術です。「もったいない」に引っ張られた。で、思わず、「そんなことは考えたことはない」と応えてしまった。けど、よくよく考えてみたら、ずっと「そのこと」を考えていたわけです。

そこに気がついたら、「もったいないといやもったいないのかもしらんけど、まあ、別にいいや」という気持ちになる。「できないこと」は「できないこと」なんだから、うらやんでも仕方がない。calibreさんのような真似は出来なくても、「できないこと」なんだから、仕方ありませんよね。

けど、魔術にかかると、引っ張られて、仕方がないと思えなくなる。

>それは現実には至難の技ですよ。はっきりいって無理。

なんてのは、引っ張られたことの反発として出てきた言葉ですよね。
でも、それが面白いと僕は思う。そうした引っ張り合いが。


>【システム】に揺らがされている。写真の場以外にイラツキがある。

それ、よくわかります。
「できない」と思い為したとき、浮かび上がってくるのがそのイラツキ。僕の言葉で言えば【怨】です。

けれど、そのイラツキを意識できるということは、もう十分に〈たましい〉と接しているからだと僕は思います。そこに手は届いて掴むことはまだ出来ていないかもしれないけれど、でも、指先は届いている。その感触があるから、もう一歩、手を伸ばすことを阻むものが意識に登ってくる。

毒多さんの「短歌のようなもの」は、まさにそれだと感じています。手を伸ばすことができればつかみ取れるはずのものを、つかみ取れないもどかしさといった趣。けれど、つかみ取ることを諦めたわけではない。諦めて「愛でる」ことにしたのとは違います。


では、手を伸ばすことを阻む【怨】がなくなれば、「できない」ことができるようになるかというと、それはわからない。できるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。重要なのは「できるできない」ではない。「できる」ことが〈生きる〉ことではない。手を伸ばすことが〈生きる〉ことです。

僕の中には【怨】がある。おそらく毒多さんのなかにもあるのでしょう。だったら、それと向き合うことが「できること」であり〈生きる〉ことなんだと思う。その結果、できなかったはずのことができるようになったとしても、それはオマケみたいなものでしょう。

逆に言えば、それは【怨】のない人間には「できないこと」です。そして、社会の中の人間の大半は【怨】を抱えた人間であり、【怨】が【システム】を生んでシステマチックに【怨】を再生産している。

〈世界〉は理不尽で残酷なのが現実ですが、現実そうなんだから仕方がないよね――と、【怨】を抱えている人間はなりません。だって、自身がその「仕方がない」の中に入っているんだから。【怨】を抱えているということは、〈世界〉から時間を止めるべく圧力を受けること――【逆接】――であり、それを「仕方がない」としてしまったら、自ら「時間を止める」のと同じことになってしまう。だから、「仕方がない」とは言えない。言ってしまうと、ショパンや星の王子さまのような【生き方】になってしまう。確かに、それはそれで美しいのかもしれませんけど。


確かに「仕方がない」「時間が流れない」部分もある。だけど、だからこそ、「仕方がないわけではなく」「時間が流れる」部分を大切にすることが〈生きる〉になる。これは、本書の〈生き方〉ですよね。これはこれで【怨】に向き合ったバランスの取れた〈生き方〉だとは思う。

だけど、それは僕の〈生き方〉ではないと思う自分は確実にいる。「時間が流れない」のはなぜなのか。「時間の流れ」を阻害しているものは何なのか。その「阻害しているもの」を排除することができないとしたら、どのようにすれば「時間の流れ」を取り戻すことができるのか。

「そのものを そのままに 受けとめる」ことは出来なくても、何かとヒモづけて、それと一緒にならば感じることができるというのであるなら、僕は、もうこれで十分に〈生きる〉ことであって、何にももったいないとは思いません。

というより、これこそが【逆接】を「再編集」する方法だと思っています。毒多さんの「短歌のようなもの」もまた、「再編集」へのひとつのアプローチなんでしょう。

動画観ましたよ。
面白いですね。動物の反応。ちなみにワタシは彼の口ピアノに対しては無反応でした。
動物のような感性が麻痺しているのか、雑念によって阻害されているのかは、無反応のワタシには解りません。

「虫を愛でる」についても同じようなものかもしれませんね。
おそらくcalibreさんは、ある程度「愛でる」ことができるのでしょう。もしくはその触感をもちあわせているというか?
で、皆さんは(おそらくなんとなくでしょうが)自分のもつ触感と照らし合わせて「解る」とした。
愚慫さんはいかがですか? 「下から虫を愛でる」イメージがもてますか?
逆にワタシはアキラさんのいった「そのものを そのままに 受け止める」に違和感がなくイメージができます^^
もちろんそれだけに留まらずに「ヒモ」をつけたくなる、気持ちもワタシもまた持っていますが。
人によって、ピタッと来る部分が違うのだなぁ、と、そのあたりの不思議を感じています。
不思議は楽しいですね。

仰るように、私は少しは〈たましい〉に触れることができています。具現としては「写真」やら「短歌のようなもの」ですね。
なのに今〈たましい〉に触れることができないでいる。
なにかに阻害されている。
おそらく阻害されているものを「仕方ない」もしくは、阻害されているもののなかに再吸収されるかたちで、乗り越えれば〈たましい〉に触れることのできない乗り越え方となる。
再び、純粋に〈たましい〉に触れることができる心身になるためには、、、。

なんとなく愚慫さんの言われていることの繰り返しのように思えてきましたねぇ、、まぁ、ということでリアルで探求してみます^^



あれ?アキラさんとこへ書き込んだコメントを再読してみたのだけど、なんか矛盾しているかなぁ、、^^;

>ちなみにワタシは彼の口ピアノに対しては無反応

へえぇ~、僕は結構、引っ張られますけどね。もっともそれは、僕がグールドのファンだからかもしれませんが。

>「下から虫を愛でる」イメージがもてますか?

僕はどうしても「下から」にはならないし、なれないし、なりたいとも思っていません。かといって、「上から」というわけでもない。同じところから。

これも何度も繰り返し持ち出しますけれど、「山川草木悉皆成仏」なんですよ。「成仏」が何を差すのかはさておき、とにもかくにも神秘である。〈生きる〉ということにおいて同格。

が、同格のはずなのに、僕は、人間として、彼らを殺すわけです。もちろん僕だけではないですけど。おそらくはその感触を持っているがゆえにでしょう、「下」にはなれない。だって、殺しているんですから、「下」なんていうと嘘ですよ。「愛でる」ときだけ「下」に行くことができるという類いのものでもない。

では、「上」かというと、これも違う。「上」に行こうとすると、罪の意識のようなものが出てきてしまいます。

「下」にも行けず、かといって「上」にもいけない。結局、同格しか行き場がないという感じです。


>再び、純粋に〈たましい〉に触れることができる心身になるためには

ええ、もう、これは、自分で自分の方法を探るしかないのだと思います。

繰り返しになりますが、大切なのは「自分の方法」を〈探る〉ことだと思います。
意味は〈探る〉ことにあるのであって、「方法」にあるのではない。
〈探る〉は〈生きる〉ですし、〈生きる〉ならば《表現》が湧き出てくるのはごく自然なことでしょう。

そのように〈いのち〉は、出来ているのだと思います。

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