愚慫空論

「コミュ障」は美酒を嗜むべし


以前、『note』にアップした文章をこちらにもあげます。

  ***

NNNドキュメント 『障害プラスα~自閉症スペクトラムと少年事件の間に~』という番組を観ました。



思ったところを記します。

自閉症スペクトラムの人たちを「コミュ障」としてしまうのは乱暴なことです。「コミュ障」という俗語には、見下しのまなざしがふくまれています。

だけど、事実として、主に脳において器質的に何らかの特徴(あくまで“特徴”です)があって、そのことが原因で他者のコミュニケーションが苦手な人というのは存在しています。そういった人たちが円滑なコミュニケーションが望まれる社会のなかで、「コミュ障」というところにカテゴライズされてしまうと現象は避けようのないことではあります。

この番組が示しているのは、そうしたコミュニケーション障害が犯罪の必要十分条件ではない、ということ。

必要条件ですらありません。
むしろ、別に十分条件がある。
それが「プラスアルファ」。

自身を充分なコミュニケーション能力があると位置づけ、その傲慢さから他者を「コミュ障」と蔑むようなハラスメント行為が引き起こす心の傷。僕は、他者から傷つけられることで生じる“傷”を【毒】と表現することにしていますが、「プラスアルファ」は、まさにその【毒】です。

そうした【毒】のもっとも嫌らしい特性は、依存性があることです。依存性があるから、中毒になる。中毒になってしまうと、心身を蝕むことがわかっていても理性の制御がなかなか効かず、やめるにやめられない状態に陥ってしまうということ。

僕自身がアスペルガーであり、そうした中毒も味わってきたので、その苦しさはよくわかります。

その経験から言えること。
コミュニケーションはお酒に似ている。
コミュニケーションとお酒を酌み交すことは、アナロジカルです。


心地よいコミュニケーションは、お酒を適度に飲んでほろ酔いになったときの愉悦感に似ています。ところが度を超して泥酔状態になってしまうと、心地よさから別のものへと変質します。

体質的にアルコールに強い飲んべえの場合、心地よさは減退しません。むしろ増す。酔っ払って上機嫌になるのはいいけれど、酒に飲まれて理性の制御から外れた上機嫌は迷惑です。上機嫌な人は幸せでしょうが、その尻ぬぐいを他人に押しつけて、他人を不幸にしてしまいます。

体質的にアルコールに強くない下戸な人の場合、度を超すと心地よさは減退してしまうどころか、心地悪さに取って代われてしまいます。そうなるとお酒は進まなくなりますが、お酒を酌み交すというコミュニケーションの場においては、往々にして、進まないお酒を勧められて辛い思いをすることになります。

辛い経験を重ねると誰でもそのような機会を避けるようになります。しかし、同じ場を共有していても心地よい思いをしている飲んべえには、そのことが理解できません。なので、重ねてそうしたコミュニケーションの場を持とうと欲する。

体質の差から生じる意欲の差です。
致し方ありません。
体質は生まれ持ったものなので、当人の意志でどうこうなるものではありません。

意欲に溢れる飲んべえは、“飲み”の場を持とうとします。
下戸は避けようとします。
すると、自然に飲める人だけが集まるようになる。

お酒が飲める飲めないは、社会生活を営むなかで必須の要素ではありません。かつては、飲む意欲を(嘘でも)もつか持たないかは、社会人として重要な要素だったことはありました。現代では必ずしもそうではない。好ましいことです。

しかし、その一方で、社会生活を営む上での要素であるコミュニケーションの重要性がかつてより高くなってしまっています。
“カースト”という身分を生みだすほどに。

コミュニケーション能力の高い者は寄り集まって、自分たちにとっては心地よいコミュニケーションを繰り広げます。
それはそれでいいことです。自分たちで後始末までするならば。

コミュニケーション能力の高い者たちは、体質的にコミュニケーションを避けてしまう体質の者たちを「コミュ障」と呼称するようになります。ここまで至ると身分の差、すなわち差別になってしまっています。差別する者は、さも当たり前のように、自分たちが吐いた反吐の後始末を差別される者たちへと押しつけるようになります。
本音ではコミュニケーションを避けているのに、コミュニケーションから逃げ切れない者は、反吐の後始末をするという形でコミュニケーションに参加することを強いらてしまいます。

社会で生きている以上、人間はコミュニケーションから逃げられません。コミュニケーションは、「ヒト」が「人間」であるあるための必須条件です。ヒトであっても、人間的コミュニケーションが出来ない者は人間とは見なされません。人間でなければ人間が営む社会のなかで生存することが困難になってしまう。生存への恐怖から、ヒトはコミュニケーションへと駆られる。なのに、体質的にコミュニケーションに溺れることができない。


溺れなくてもいいというのは誰にでもわかることです。
にもかかわらず、コミュニケーション地獄の社会では、溺れることができるか否かで人間を選別してしてしまっています。

たとえば企業が求める人材がそうです。
コミュニケーションとお酒のアナロジーで語るなら、企業が求める人材とは、溺れるほど飲むことができる体質であって、なおかつ潰れることのない者です。飲めない人間にはハードルが極めて高い。

しかし、飲めるけれど溺れない人間などごく一握りです。飲める人間でも、その大半は、飲めてしまうが故に溺れてしまう人間です。そうなると、社会にとっては、飲むことができることの害悪のほうが大きい。最大の害悪は、飲めないけれど他の能力が高い者を疎外してしまうことです。


上記の番組の最後に、取材を受けた「コミュ障」の少年が語っていました。

  「僕はたぶん失敗する」

しかし、この少年の自己認識能力は決して低くありません。心理的ハードルを越えれば、充分に自己認識を為している知性を開陳することができる。【毒】に冒されて、予め自身の失敗を規定してしまっていることが、彼の少年の最大の難所です。


では、「コミュ障」はどうしたらいいのでしょうか。

社会において、コミュニケーションは必須です。
しかしながら、溺れることができるだけの能力が必須というわけではない。
ここをしっかり区別することが大切です。

お酒に例えるなら、美酒を嗜めばよい。

良質のコミュニケーションは美酒に似ています。
印象深い味わいであるのに後味は軽くて、悪酔いすることが少ない。

お酒とコミュニケーションの共通点はそれだけではありません。
お酒もコミュニケーションも「醸す」ことで生まれるものだということ。

お酒に溺れてしまう者は、美酒を醸すことができない。
同様に、コミュニケーションに溺れてしまう者もまた、良質のコミュニケーションを醸し出すことができません。

コミュニケーションが必須の人間にとっての上質な生き方とは、良質なコミュニケーションのなかに身を浸すことでしょう。上質であるか否かは、体質的に飲める飲めないとはさほど関係がありません。飲めてしまうから逆に嗜むことができないという質の悪い人間が多いのが、社会の実相です。

だったら、答えは難しくない。

自身のコミュニケーション消化能力の範囲内で、上質のコミュニケーションを嗜めばよい。無理に質の悪いコミュニケーションを飲んで、反吐を吐くような真似はやめればよい。自分の体質に合った分だけ嗜んでいれば、消化能力が向上することも期待できます。体質的に差がある人には敵わないにしても。

難しいと感じるのは「良質」を見極めることですが、なに、その気になりさえすれば、さほど難しいことでありません。若干時間はかかりるかしれませんが、徐々に嗅ぎ分けられるようになってきます。

大切なのは嗅ぎ分けようとする「意志」なんです。



  ****

僕がこのような文章を『note』にあげたのは、そこが良質なコミュニケーションの場だと思ったから。
だから、『note』はお薦めです。

普段は仕事として、「売るため」の術式を組み上げるような文章を書いているような人たちも、そういう「術式」とは離れて文章を書いていたりします。自分が文章を書くことが好きだ、ということを確認するために。

あ、もちろん、『note』は文章だけの場ではありません。写真あり、イラストあり、音楽ありで、純粋な文章の比率は4割くらいかな。


  *****

僕が主催しているこのブログも、そんな美酒になれたらいいな、と思います。
そう思って、自分に問い合わせてみました。

「自分に問い合わせる」ということのコツも最近、掴んできました。
以前から無意識のうちにやっていたんでしょうけど、最近は意識的にできるようになった。

寝るんです。考えながら寝る。
ただ単に考えながら寝ようとすると、眠れなくなってしまいます。
だから“スイッチ”を入れる。

イメージとしては、電気炊飯器のスイッチを入れるような感じです。
お米を研いで、適切な水をいれ、蓋をしてタイマー設定し、スイッチ、ぽち。

「考える」のは「お米を研ぐ」ことに相当します。
そうやって寝ると、翌朝にはご飯が炊きあがっている。考えがまとまっていて、言葉が出てくる。

今回もそう。「考えたいこと」があって“スイッチ”を入れて寝たら、朝、以前に『note』の書いた文章が出てきた。だけど、ここ(『空論』)では、それだけでは足らない。というのは、僕がお酒を醸してとするならば、ここはその醸造所だから。


お酒の醸造は、法則に則った行為です。お米がお酒になるには機序がある。機序から外れるとお酒とは別のものになってしまうけれど、その機序は一本線ではなくて、いろいろな要素が組み合わさっていて、複雑な幅がある。その幅の中で、与えられた条件と、自身の技量とを持って、お酒を醸す。

与えられた条件と自身の技量とで何ごとかを為すのは、お酒に限りません。
お米を作るというのだって、そう。稲を育てて収穫するのも、与えられた条件と技量(含む労働)が要る。

そういったことを基本、テキストでやろうとすると「術式を組み上げる」というかたちになる。
僕の場合、論理とアナロジーを使っての術式。

術式を組むことは、手段であって目的ではない。
僕は自身の組み上げた術式でもって、【呪い】の構造を形作っている術式を解除したい。

だから、ここは【呪い】を扱う剣呑な場所。

――と、そんなふうに「答え」が炊きあがっていました。

そんな剣呑な場所だとしたら、公開するなよ――という声も聞こえてきそうですが。

コメント

うーん、美味しいですね。
以前noteで呑んだときよりもすっと染み入る美酒のような感覚です。
noteでの宴のときは水っぽかった。
おそらく呑むタイミングによって美酒にもなり、水っぽくもなるのでしょう。
それとは別にnoteにむけて書くぐらいの度数のほうがバカな私には合っているのかもしれません。
あきらかに空論とnoteでは、酒の度数がちがう、笑

ある程度酒を呑んできた者はみな、自分が一番美酒を呑んでいると思っているかもしれません。
それがホントかもしれないし、勘違いかもしれない、それはそれでいいと思います。
「私」も他所の宴をとやかく言うのは止めにします。

「ワタシ」は私を騙しながらリアル世界でも酒を呑んできました。
かつて多くの宴で「私」は人気者でした。
そこそこ宴会に合わせる能力に長けています。
「裡なるヤツ」を裏切って。
自ら【毒】を酒に入れてヤツに呑ませて悪酔いしました。
一周回ってのコミュ障です。
心の底では軽蔑しながら呑む宴はつらいです。
これからは、やはり呑む場をふまえ良質な酒場で呑みたいと思います。

空論は「私」にとっては、良質な酒場です。
【呪い】を扱う分、酒の度数は高いかもしれませんが、
それがまたワタシとヤツを酔わせます。
心地よい酔いです。
閉店は堪忍してください、、、ね^^

毒多さん

なんて返答したらいいのかな? 「ありがとう」が適切のようだけど、もう、そんなところを越えているような気がするんですよ。かえって「ありがとう」と言ってしまうと、なんだか後戻りしてしまうような...、そこは居心地良いんですけどね。

>ある程度酒を呑んできた者はみな、自分が一番美酒を呑んでいると思っているかもしれません。

それでいいというか、そうなるのが自然でしょう。そこを経過するから、
「みんなばらばらで、みんないい」になれるわけで。
「ばらばらで、みんないい」は子どもだけのものではないはずですからね。


ところで、一応、毒多さんへの返答にふうを装って書きますが(^_^;)
毒多さんのところでのやりとり、アキラさんのところでのやりとり、もちろん見てます。
ああいうふうに取り上げてもらって、ありがたいなぁと感じます。

そのように直接コメントすれば良いのでしょうけど、なんかバランスを崩すようで。
今は、『空論』からでない方が良さそう。(^_^;)


その上で、そうねぇ、やっぱり「見たいもの」が違うんだなと思う。
「見たいもの」が違うから「やりたいこと」が違うんだよな、と。

テキストだけだと、だったら「お別れ」が順当だしそれでいいと思うんですけど、それでは足りないと思うなら、やっぱりテキストの情報量では足りないんですよね。アキラさんが言うように。

でも、そこを踏まえた上で、テキストで「やりたいこと」が僕にはあるんだよなぁ~、というのが、直接コメントすることを憚っているわけじゃないんだけど、ちょっとね、と感じているやりとりを見ていて湧き上がる所感です。

今、しばらくは、僕はこのままでしょうね。
変わりたくないというわけではないけれど、その前にクリアしておかないといけないことがある感じが強くする。その課題と、彼らが気にかけてくれていることとが、おそらくは彼らが想像しているのとは別のルートで行き会う――それぞれクリアになるかどうかはわかりませんけどね。

だもんで、「もう2~3年はこういう感じかなぁ」と、リアルアキラさんにも言っていたりして。

まあ、そんなところなので、もし、閉鎖を気にかけておられるのなら、ご安心を。(^o^)/

Shapeshifting

>「見たいもの」が違うんだな

「見たいものが」違うから、見えるものも違います。そこは前提です。
そこは前提で互いに交信していたはずなのに、何故「みんないい」にならなかったのか。

私の場合、自身のスタンスが「おまけコメンター」で一貫していて単純に愚慫さんという方に興味があっただけなので、この人は頭が回って凄いねえ尊敬だなあ面白いなあでずっと来ていたんですよね。

>だから、ここは【呪い】を扱う剣呑な場所。

そうですね。そういう剣呑な場所で、私は魔術師の華麗な出し物を手を叩いて喜んで眺めたり、折々にお題を出したり、魔術師のハットに様々の文物を入れて、そこからユニークな思索や仮説が出て来るのを無邪気に愉しんでいました。
自分が痛くも痒くもなく愉しめるというだけの理由で。

決定的に間違っていました。愚慫さんでなく、私自身が。
不誠実だった。無責任だった。そして無邪気であるが故に邪悪ですらあった。
醜いことをしていた。
剣呑な場所であれば剣呑な貌をしていなければならない。
そこに無邪気に遊んでいる無責任な人間がいてはならない。
剣呑でない場所に見せる装飾物がコンテンツとして存在してはならない。
「おまけ」だからと言えば責任から解放されるわけではない。

ということに今頃気付きました。
私は自分の気付きを裏切らないために、愚慫さんとここでお別れします。
色々とありがとうございます。
お元気で。

さようなら。
(ここに戻ってきたら私に災いが訪れるという誓約をかけることにします。再び戻らないために)

残酷さに慣れる訓練さん

「剣呑でない場所に見せる装飾物」って、、、
「残酷さに慣れる訓練」というHNからしてすでに剣呑なのに。

僕はあなたをオマケなんて思ったことは一度もありません。
謙遜かと思っていました。
でも、本気でそう思っていたなら、確かに無責任ですよね。

責任を自覚することはいいことです。

僕は〈社会〉は呪われていると感じてしまっている。
この先、そんなふうに感じなくなるのかも知れないけれど、少なくとも今はそう感じている。
そう感じていることに責任を感じるから、少しでも解呪の方向へ向くように〈生きる〉。

もちろん、呪いから逃げるのもあり。大あり。それは、それぞれの責任の感じ方で生きればよい。

呪いなんてないよ、というのも、また然り。
それぞれに感じて、それぞれの責任で生きればよい。

ただし、これはネット空間において。
繋がりの濃いリアル社会では、それぞれの「責任で生きればよい」とは行かない。許してもらえない。

リアルでもそういう社会になればいいと願っているけど、ネットですらそうはならないのだから、難しいです。

ごんさん

>それを人間の選考基準にしてそれ以外を切り捨てることになったら、

おそろしいとは思いません。

だって、僕は独裁者ではない。
僕に切り捨てられたといって、世界に切り捨てられるわけではない。

ことにネット社会においては、接続するのも切断するのも、ユーザーの権限です。ネット上の愚慫はネット上の存在であり、切り捨てる権限を有しているのは、愚慫もそうだけど、みなが平等に有しています。

おそろしいのは、その「平等」が犯されることであって、だれかがなにかの基準をもってその権限を行使することではない。
そんなことは、広大なネット空間のなかの些細なできごとでしかありません。

ごんさんが言いたいのは、そういうことでないというのは察しています。そんな「システム」の話をしているのではない。「心」の話なんだと思っているだろうという察しはつく。

僕だって、〈心〉の話をしています。
そういう「システム」なんだから、そのシステムに沿って動けばよい。
「システム」と自身の欲求とをバランスさせるのは、その人にしかできないことだから。
「バランスさせる心」の話。
バランスさせる知性。

それからすると、ごんさんの問いかけは、僕にはアンバランスな知性に見える。
「システム」とバランスする「心」。
「システム」と「心」をバランスさせる〈心〉。
「心」に比重を置いてしまって、〈心〉のバランスを狂わしめる。

だから、おそろしいのは、ごんさんの問いかけの方だという答えになります。


ごんさんは「心」を大切にし、それを学校で教えているんだと思います。
いえ、教えているのではない。伝えている、が精確な表現でしょう。
そしてここでも、僕に「心」を伝えようとしてくれている。

僕は学校を否定する者です。
それは僕自身の経験から来ている。
学校を捨てた世界で見出したものは、〈世界〉とバランスしようとして〈生きる〉人たちの〈心〉だから。

そう書いて思い出すのが、畑を趣味だと言ったお婆さん。この記事ですね。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-44.html

このような〈心〉を、今、学校で教えるのはほぼ不可能でしょう。
学校で教えられるには、まず学校の「システム」に馴染むことが要請される。
その要請は、〈心〉を遮断する【作法】を身につけることです。
【作法】を十分に身につけて【過適応】した者は、〈心〉を遮断する「心」を身につけてしまう。

このような〈心〉は、身体を使わないと出てきません。アタマだけの知性で出てくるものではない。だから、〈心〉とは〈心身〉です。もし、アタマだけでこのような〈心身〉を表現できる者がいたのなら、その者は間違いなく天才です。

「システム」にバランスしようとす〈心身〉を持つから、「システム」の歪みを感じることができる。僕が【呪い】と言っているのは、このこと。これは「心」しか持たない者にはわからない――というのは、あくまで僕の論理ですけれど。

僕の論理が誤りであるなら、それでいい。それは好ましいことです。だけど、残念ながら、僕に突きつけられるのは、僕の論理が間違っていないという証明ばかり。ごんさんが突きつけてくるのも、そう。

が、もしかしたら、それは、僕がデータを僕の好むように予め加工して取り入れてしまっているのかもしれない。だとしたら、それは「魔境」にいることになってしまいます。

ごんさんからのコメントをひとつ削除し、以降のコメントを拒否する処置をしました。

削除したコメントの内容は以下の通り。

「いえ。僕が愚慫さんに何かを「させる」なんて不可能です。」

不本意ながら、僕に何かを「させる」ことが出来ました。


言葉が本当に何も「させる」ことができないというのなら、なぜ、教師なんかやっているのかね?

アクセス禁止にするまえにごんさんが削除したコメントを復活させます。

コメントの並びも、元通りに復活させます。


傀儡

(9/30 5:59投稿)

愚慫さんがお望みのトーラス何とやらは、何によって、なされるのですかね。

愚慫さんが魔境の最深部でその本体をつかむと同時に、この社会に生きるみんなの臓腑に染み渡る、そんなお神酒が出来上がっているのですか。

果たしてそれが可能だったとして、誰が何を使って、それをみんなに飲ませるんですか。

愚慫さんの教えを受けた弟子たちが、高名な魔術師(どんな名前がお好みですか)のつくったありがたいものだからと、みんなの口に愚慫さんから受け継いだ魔術を使って飲ませるんですか。

各人各様の好き嫌いを魔術によって麻痺せしめて。

それが愚慫さんの仰る「みんなの幸せが具現化した世界」になりえますか。一歩でも近づきますか。

無理でしょう。

我々はみんな死に向かって「生きている」。今日生まれた子どももです。どんなに幸せな子供時代を送っても、やがて僕らの社会と地続きのスクールカーストを生きることになる。そこを愚慫さんがしたように、うまく並列世界に押し込めてやり過ごしたとしても、結局はまたどこかで、同じ社会と出会うことになる。社会の構成メンバーは変わらないのだから。

もしかして変える気でいらっしゃる?この社会の構成メンバーを。

だとすれば、それはまさに「目的のみに取り憑かれた」独裁者の具現化ですよ。

愚慫さんが完成させた『世界地図』が、人々にとって有用なものであればあるほど、その目標物を得るために愚慫さんがこうやって磨き上げた魔術が世界を席巻することになります。

そのときにあなたが「そうではないのだ」と言っても、誰も聞いてくれません。その『世界地図』が完成形に近ければ近いほど。もうあなたの弟子たちの耳には、あなたの言葉は届かないでしょう。

<追記>

みんな自分が死ぬ前にこのデタラメな世界を抜け出して、その高名な何者かが血の道をさがしもとめてついに紡ぎ出したその〈社会〉を実現させたいと願うでしょうから。

これまでに何度も繰り返されてきたように。

今も世界中で繰り返されているように。

やはりあなたは「足りない」御仁だな。

あなたの指摘は事実ではあるかもしれない。
だが、事実はすべて過去の属するものであって、未来を保証するものではない。

もちろん、デタラメに未来が生成するわけではない。
生命の性質に沿ってしか生成しない。
そして生命の本質の一丁目一番地は、常に変化しているということ。

あなたの言は、ここだけに限らないのだけど、いつもいつもその変化を押しとどめようとするもの。
うつろいゆくものを愛でると言いつつ「時間よとまれ」と呪いをかける。

ここでいう「トーラス」とは、変化が組み入れられたシステムをいう。
(元来の「トーラス」はそういう意味ではないので、注意を。)

人類が組み上げたシステムは、資本主義も民主主義も、すべて「変化しないもの」を起点に成立している。が、生態系というシステムには「変化しないもの」などない。すべてが「変化するもの」。

ヒトは、「変化するもの」のなかに「変化しないもの」を生みだす生みだす性質を備えた特異な存在。「変化しないもの」とはつまり自己同一性、自我。自我は、自身の同一性を確保するに留まらず、それを外部へと拡張させる。同一性のせめぎ合いで【システム】が生成し、同一性は変化を疎外する【同一性】になる。

では、【同一性】の排除は不可能かというと、そんなことはない。人間の「同一性」は人間から生みだされたものなのだから、原理的に不可能なわけがない。【同一性】はシステマティックに組み上がったものなのだから、その排除もシステマチックに行なうことが出来る。

行う、行わないは、各々の「意志」。生命に寄り添うか。【同一性】に寄り添うか。ただ、それだけ。

あなたのいう「愛でる」というのは、生命に寄り添うふりをしているだけに過ぎない。
| 2016-09-30 | 愚慫 #OARS9n6I URL [ 編集 ] | コメント番号5559 |

嫉妬

(9/30 22:27 投稿)

>うつろいゆくものを愛でると言いつつ「時間よとまれ」と呪いをかける。

うつろいゆくもののはかない美しさに魅了され「時間よとまれ」と願うのって、呪いとか言わないですよ。

他はどうかわからないけど僕は。

「時間が本当にもう本当に止まればいいのにな。二人だけで青空のベンチで最高潮のときに」甲本ヒロト

あなたはこういう情景を呪っているのですか?自分の過去にそれがなかったから

仁王

(9/30 22:38 投稿)

NNNドキュメント 『障害プラスα~自閉症スペクトラムと少年事件の間に~』

>良質のコミュニケーションは美酒に似ています。

>僕が主催しているこのブログも、そんな美酒になれたらいいな、と思います。

>うーん、美味しいですね。
以前noteで呑んだときよりもすっと染み入る美酒のような感覚です。

>心地よい酔いです。




よくもまあ、この映像をさかなに、宴を愉しむ気になるものじゃ。

人間とは本当に恐ろしい生きものじゃて

捨て童子

(9/30 22:47 投稿)

これはもうつらすぎるよね。僕だったらブログもろともに消え入るだろうね。

でも、ひとつだけ、いいことがある。

あなたみたいなみにくい人間にだけは、なりたくないんだ、だれも。

だからそのままにしといてもいいよ。

存在価値はある。

こんなブログでも。

ごんさん

「足りない」と言ったら、ますます足りなくなって、元来の底意地の悪さが露呈しはじめしたね。

他の人がどう言おうと、僕にとってあなたは底意地の悪い人です。
だけど、うまく行けば実りのある対話はできる。
これは大きな収穫でした。ありがとうございます。


とはいえ、ぼちぼち気持ちが悪くなってきたので、後始末をして退場してください。

護符

(10/1 8:12 投稿)

いえ。わたしはわたしが適当だと感じたコメントをその折々に応じて差し出し、そして引っ込めるだけです。

だからここに残っているコメントは、まだここにあった方がいい、と僕が判断したものです。

だから、できれば、でけっこうですので残しておいていただきたく存じます。

ふ~ん、だったら、「掃除」しますね。
あなたがお望みのように。

僕に「掃除」をさせたかったんでしょ?
ホント、意地が悪いよね(^_^;)

無理

(10/1 9:02 投稿)

いえ。僕が愚慫さんに何かを「させる」なんて不可能です。

※重複コメント

ごんさんからのコメントをひとつ削除し、以降のコメントを拒否する処置をしました。

削除したコメントの内容は以下の通り。

「いえ。僕が愚慫さんに何かを「させる」なんて不可能です。」

不本意ながら、僕に何かを「させる」ことが出来ました。


言葉が本当に何も「させる」ことができないというのなら、なぜ、教師なんかやっているのかね?

復活処置、終了。

アクセス禁止処置は解除。
コメント拒否は継続。

アク禁を解除したら、管理人権限で復活させたコメント以外は削除できるのかも知れないけど。
好きにしたらいいよ。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/879-357e3d19

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード